「疫学事始」              

 

はじめに

 

 杉田玄白が「蘭学事始」1)を書いたのは83歳の時でありますので、まだその年齢には達していませんが、それにあやかって、「疫学事始」という題をつけさせていただきました。もっとも杉田玄白の原本は1855年の江戸の大地震のときの火事で焼失してしまったのが、古本屋で写本がみつかって、後日福沢諭吉が「蘭学事始」と改題して出版したといわれています。

 解剖学についてみても杉田玄白が述べているように「解体新書」の前に山脇東洋の「蔵志」があるわけで、「南蛮流」を通じで、西洋の文明にふれ、中国からきた從来の医学に疑問をもったことがうかがわれます。

 杉田玄白は一緒に翻訳にたずさわった津軽藩の医官桐山正哲のことを書いていますが、その桐山家の墓が弘前の隣松寺にあることを紹介しておきます。

 私が「なぜ地域へ研究がすすむようになったかを中心に」ということでしたが、もう一つ個人的にもこのような題でまとめておきたいというきっかけがありました。

 それは、私自身を以前「疫学者」2)であると書いたことがありましたが、どおいうわけかわかりませんが「Who's Who in the World」の原稿のチェックがきて、自分自身を英語で表現すると何になるかの判断をせまられたことがあったからでした。

 結論は「epidemiologist」としましたが、「疫学」「epidemiology」についてお話ししたいと思います。

 私は昭和61年に弘前大学を定年になり3)、その後東北女子大学へ勤務しましたが、衛生学もやりますが「健康科学」4)をうりこみました。そして私の「研究」のまとめともいうべき「論文」5)を日本衛生学会誌に投稿し、「りんごと健康」6)「食塩と健康」7)を出版することができまして、いつお迎えがきてもよいという心境になりました。

 「青森県生き生き健康県民運動」の推進委員会の委員長の立場もあり、先年津軽書房から「解説・現代健康句」8)を出版しました。「健康句」というのは私が創った言葉であります。

 昨年は「戦後50年」9)の年であり、日循協創立30年記念講演として「日循協30年前夜の人々」10)を講演する機会が与えられました。また「医療今昔物語」「学説・診療の変遷」としての「高血圧」11)を書き、また「津軽に学ぶ」を中心にした「衛生の旅 Part 6」12)をようやく出すことが出来ました。

 今年になって青森県医師会報に「いい日旅だちへ」13)を、公衆衛生の「21世紀へのメッセ−ジ」として「疫学による予防へ」14)を、また日本疫学会ニュ−スレタ−に「今、疫学を思う」15)を書いたばかりなので、その流れとしては「疫学事始」がよいのではないかと考えた次第です。

 

疫学の「学」と「疫」

 

 まず疫学の「学」についてですが、日本医事新報の今年の新春随筆の「先生」16)の中で「日本百年の反省」について述べましたが、從来の日本の「学問」と西欧からきた「学問」との違いがあるという問題があると思います。「學」と「ロゴス」との相違です。森鴎外が小説「舞姫」の中で「げに東に還える今の我は、西に航せし昔の我ならず」と書いていますが、「東」と「西」の問題でもあります。

 また「医制」とならぶ「学制」の中で、国学・漢学に加えて「洋学」が登場し、大学の中に「南校」の他に「東校」が誕生した時代を考えなくてはなりません。

 「疫」は「だまって座わればピタリとあたる」「あたるも八卦あたらぬも八卦」の「易」とは異なりますが、富士川游先生の「日本疾病史」17)によりますと「古事記」に「役病(エヤミ)」とあり、「役」のつくりにやまいだれをして「疫」となり、「日本書紀」にも出ており、「民皆病也」あるいは「国民病」と解釈され、ギリシャ語の「エピデミ−」に符号するとあります。

 森林太郎がドイツ留学後「Epidemiologie」を「流行病」としての「疫(やまいだれに萬の)エキレイ学」として用いております。1865年ペッテンコ−フェルがミュンヘン大学で始めて講座を開いた時用いた「Hygiene」にはすでにわが国で用いられていた「衛生」をあてはめています。

 「エピ」は「upon」「上」、「デミオ」は「people」「人々」で、現在「epidemiology」と「疫学」とは同義語として用いられています。

 私の「疫学事始」を考えてみますと、私が生れ育って今日までここに到る過程があり、多くの「先生」からお教えを戴いたわけで、それを無視することはできません。

 最近「人間はどれだけ過去を背おっているものか」と考えるようになりましたが、私の75年の過去をすべてお話しするには時間が制約されていますので、主として弘前に来たての話、何に出合い、何を考えていったかを中心にお話ししたいと思います。

 

弘前へ着任

 

 「上野発夜行列車おりた時から」という歌がありますが、「弘前駅」へおり、「土手」を通って、「火見やぐら」のところから左へまがると「弘前大学医学部」がありました。

 スライドは昭和30年代のはじめ撮ったものですが、ここから一つへだてたむこうの通です。カラ−写真がではじめの時でした。

 「青森医専」から「弘前医科大学」「弘前大学医学部」になったばかりで、ドラマ「いのち」の時代でした。

昭和46年5月

 このスライド10)は今から25年前衛生学開講25年記念のときに撮ったものですが、近藤正二・高橋英次先生です。人参におろしがねを「今ももっていますよ」と皆にみせられた時スナップしました。

 昭和20年6月19日当時青森市にありました青森医学専門学校において近藤正二先生によってはじめて衛生学の講義が行われました。22年弘前へ移転、弘前医科大学をへて今日の弘前大学医学部に至っておりますが、衛生学講座としては高橋英次先生が初代教授に任命されています。私は昭和29年助教授として着任しました。

 昨年弘前大学医学部および同窓会では開学50年記念事業を行いました。この会場も記念事業の一つとしてできたものです。

 昭和31年に教授になり、衛生学講座を担当することになりました。35歳でした。

 

「衛生の旅」

 

 衛生学教室の25年記念誌18)に書いたのですが「衛生学はその本質からいって教育・研究にとどまることなく広く地域社会との接点において問題をとらえ、社会に奉仕する責任をおっているもの」と考えました。

 衛生学をどのように考えるかは本日の主題ではありませんので詳わしくはふれませんが、ちょうど30年前弘前公園内に弘前市民会館ができたばかりの時でこけらおとしのような学会でしたが、第35回日本衛生学会総会を主催19)しました。そのとき、R.デュボスが書いていたギリシャのハイジエイヤの「理性にしたがって生活するかぎり健康にすごせるのだという信仰」の立場をとりました。私が科学技術庁資源調査会の専問委員をしていたときの資料として田多井吉之介さんが翻訳した「健康の発展史」として見ておりました。あとで「健康という幻想」という題で市販20)されました。ここで「理性」と訳されていますが、デュボスは「reason」という言葉を用いています。いろいろの意味のある言葉だと思います。

 私の「衛生の旅」は「コス島への旅」21)から始まります。

 「衛生の旅」の第1巻を刊行しましたとき、表紙に表題を何も書きませんでした。「どちら側から開けるか」と、東と西の問題を意識しました。

 私の「衛生の旅」は、こちら側「西」からあけ「コス島への旅」から始まるということです。

 コス島でのスライドとして、神殿・ヒポクラテスの像・ヒポクラテスの木・ハイジエイヤの像をおみせします。

 ヒポクラテスの木の末裔がここ弘前大学病院玄関前にも植えられています。

 ハイジエイヤの像は世界ではじめて撮影されたものと「コス島への旅」に書きました。

 先日衛生学の菅原和夫教授ら一行がコス島へ行かれ、その紀行文を学会事務局の中路重之君が書いていますが、インタ−ネットによる衛生学教室のホ−ムペ−ジに出てまいりますのであとでご覧ください。

 

「ちゅうぎ」

 

 もう一方の「東」の例として「ちゅうぎ」22)をおみせしたいと思います。これが仏教からきた言葉で、仏教大辞典に「厠籌」「浄籌」(きれいなもの)「触籌」(使用後のも)という言葉があり、これに由来したことがわかりました。

 「皇祖皇宗国をはじむる国」と「教育勅語」にありますが、そのわが国に「中国」伝来の文化が入り、それが日本の人々の中に入って、一般化していったと考えます。

 これが現場の写真で、現物は青森の郷土博物館にもない貴重品です。

 

疫学的な見方・考え方

 

 「疫学」について考えてみますと、戦後来日したハ−バ−ド大学の疫学教授のJ.E.ゴルドンの「医学的生態学としての疫学観の発展」23)に強く印象づけられました。

 先生はヒポクラテス以来の考え方を述べ、R.ベ−コンを経て、「近代的疫学」による「多要因疾病発生論」を述べ、また「追跡的疫学研究」の重要性の指摘をされました。

 ヒポクラテスについては「古い医学について」でご承知のことと思います。F・ベ−コンではなくR・ベ−コンについてふれています。近代的疫学としていつを近代とするか。多要因疾病発生論として「agent/host/environment」の平衡関係(equilibrium)としてとらえています。しかしどこまで多要因であるのかという問題があります。われわれはNa・Kのような元素を指標にしましたので、測定法また解釈は比較的単純明解でした。最近はDNAが問題になっていますが、物理学でいう窮極の素粒子としてのクオ−ク・レプトンまでゆくものかと考えることがあります。追跡的疫学研究は私としては30年かかりました。介入的(intervention)疫学研究のはしりのような「リンゴを食べてもらうという研究」を行いましたが、最近世界各地で介入研究の結果が発表される時代になりました。それらの結果がでる前に、たとえばタバコ喫煙の問題ように対策に行動する時代になったと思います。

 われわれは地域の人々と接触するときには、そのつどの最新の知識を話し、その時点時点で判断してもらうようにしてきました。

 1955年(昭30)にJ.S.モ−リスが Brit.Med.J.に発表した「Uses of Epidemiology」24)をみました。色々と効用がある中の「Clues of Causes」に注目しました。「Clues」は「手がかり」であり、ニュ−ヨ−クで「Clues」という名の雑誌をみました。 また「Causes」(原因)をどう考えるかは疫学では重大問題であります。

 また1957年に著書「USES OF EPIDEMIOLOGY」が出版になり、この本について原島進先生が「社会要因についての考察」を公衆衛生に書いて25)おられ、社会要因に思いをいたすきっかけになりました。私としては特に「文化的要因」に注目してゆくことになりました。後に「血圧論から食塩文化論へ」を述べました。

 原島先生は慶應義塾大学医学部での私の先生で「人間有機体」26)を書かれ、また「ジョン・スノ−のコレラ疫学」を紹介27)されています。先生はジョンスホプキンス大学へ留学されましたので、先生からはお聴ききしませんでしたが初代の疫学教授のW.H.フロストの有名な結核の研究のことはご存じだったと思います。亡くなった平山雄先生は後でふれる「コホ−ト分析」のことを「フロスト現象」といっておられました。

 私はこのジョン・スノ−のスポットを近代的疫学研究の出発点として位置づけました。 「もしもあなたがロンドンへ行くことがあったらジョン・スノ−の Broad Street Pump のあとを見にゆきたまえ」と「疫学的アプロ−チ」28)に書き、また「「ロンドンの名所」29)にも書きました。

 ピカデリ−サ−カスのうしろの、有名なソ−ホ−地区の現在 の「Broadwick Street W.1.」にあります。現在はパブになっており、中に訪問者のサイン帳があります。

 私がこの地に参りました時代は、「疫学」が從来の「伝染病」を研究対象としていた時代から、高橋英次先生も書いていますが自殺30)、癌・高血圧、また国立公衆衛生院の野辺地慶三先生らの「健康の疫学」31)などに研究対象が転かんする時代であったと思います。

 「解説・現代健康句」に書きましたが「病は世につれ 世は病につれ」であります。

 

疫学的研究

 

 われわれが昭和29年から「東北地方住民の脳卒中乃至高血圧の予防の研究」32)を開始し、学会へ報告したことが目にとまったのか、昭和32年高齢医学が創刊されたとき、その研究を書くようにいわれましたが、この時始めて、ごく自然に、あまり深く考えもせず「脳卒中乃至高血圧の疫学的研究」33)という題をつけました。

 また昭和32年5月の弘前大学祭のときにも「疫学からみた私達の健康問題」という題で講演34)しています。すべての研究は「疑問」から発する「Every study begins with a question」と話した記憶があります。

 昭和33年に日本衛生学会ではじめて「高血圧の疫学」のシンポジユム35)がもたれたとき「高血圧の疫学的研究」という題で報告する機会を与えられました。

 私は教科書にのるような「疫学の定義」を問題にすることは考えておりません。

 「言葉のもつ意味」は時代とともに変わるものだとの認識36)をもっています。どのような方法でどんな研究をしたかで論ずべきと思います。このような考え方については「民族衛生」の名称について論じたとき37)にも述べました。

 

津軽に学ぶ

 

 昭和29年に弘前に住むようになって多くのことをこの津軽(つがる)で学びました。

 当時弘前大学医学部をあげて取り組んでいたのは「御所河原町」の増田桓一先生がビタミン誌に報告38)された「青森県津軽地方におけるいわゆるシビ・ガッチャキ症」の解明でありました。

 先生がその論文の始に書かれた「ある地方に1つの固有の病名が生れるということは、この地方にその病気が長い間、如何に深刻に蔓延して来たかを物語るものと考える。その病気の本態が簡明されずに残されている主要な理由としてはその地方の医学的後進性の如何、また日本医学の重点の置きかたが從来余りも都市中心的であったことなどが挙げられるであろう。」という言葉が印象的でした。

 弘前大学医学部全科をあげての研究が行われていましたが、衛生学教室では地域の人々の「口角炎」の観察を始めました。

 そして地域を歩きはじめた時、同時に子供から老人までの地域全員の血圧を測定しはじめました。

 この東北地方の人々の間に「あだった」「ぼんとあだった」「びしっとあだった」「かすった」という言葉がありました。

 全国にわたって保健婦さんたちの協力で「循環器系の疾患を表わす言葉の研究」39)を行なったことがありましたが、中国医学の影響と考えられる「中風・中気」は全国で一様にいわれていましたが、この地方ではずばり「あだった」といっておりました。その病状は地方的な特微があり、「脳溢血」「脳血管疾患」当時は「中枢神経系の血管損傷」といわれ、外国でいう「apoplexia」「stroke」に相当するものと思われ、「心臓病」「heart attack」にあたる言葉はなかったことを確かめたことがありました。この「あだり」が「血圧」とくに「高血圧」に関連のある疾患と考えられたので人々の「血圧」を測定しはじめたというわけです。

 

高血圧の疫学的研究

 

 われわれが日本の東北地方の人々について血圧を測定し始めた昭和29年当時は、人の血圧、とくに高血圧をどのように考えるかについて、国際的にも国内でも種々論議されはじめた時代でした。

 すなわち、1954年G.W.ピッカリングは「高血圧という疾病は正常状態からの量的な偏位にすぎない、質的なものでない」という考え方を報告40)し、高血圧は高血圧症として一つの実存物としての疾病(a disease entity)と考える学者に対して国際的に論争を駆り立てた時代であり、また日本でも人々の血圧についての多くの資料をもつようになった生命保険医学者たちによって血圧の分布型について色々の考え方が報告されるようになった時代41)でした。

 このスライド42)は昭和59年に第49回日本民族衛生学会総会が弘前で開催されたとき配布した「人々と生活と」という記念写真集の最後の一枚です。

 昭和29年当時はまだ一般に生活している人々について「疫学的接近」によって血圧を測定した例は殆どなく、われわれが血圧計を手に東北地方の人々の血圧を測定し始めたことを、「疫学的研究」の原点と考えています。

 「最後の一枚は、人および人々の健康問題へ接近していった「疫学」の原点としての意味をもつ。昭和30年秋田市のいなかの八田部落から下浜村へ入るところである。血圧計をリヤカ−にのせて歩いていった。そこの住んでいる人々の血圧がどうであろうか、そして生活の様子はどうであろうかと。それから30年、あっという間に過ぎていった」と書きました。

 昭和29年に創刊された「厚生の指標」に示された脳卒中の死亡率の国際比較をみれば誰でも日本の脳卒中死亡率が諸外国と比較してとびぬけて高いことを疑問に思うものだと思います。戦前わが国で「脳溢血」の研究10)がはじまったのはこのことでした。

 また統計学者のT.ゴルドンがPublic Health Reportに報告したアメリカ・ハワイ・日本における日本人の死亡率を比較した論文43)は日本人の死亡率とくに脳卒中死亡率の国際な比較において極めて興味のあるものでした。

 その当時入手できたガリ版摺の人口動態統計資料をもとに,「脳卒中乃至高血圧の公衆衛生学的問題点」44)を指摘しました。

 死亡統計の検討45)これは「記述的疫学」であり、とくに「中年期脳卒中死亡率」46)の検討をしました。近藤正二先生は壯年期20-59歳の死亡率を指標に、われわれは中年期30-59歳を指標にしました。一般によくいわれる「訂正死亡率・年齢調整死亡率・平均寿命・死亡数・死因順位」を指標にして問題を指摘したのではなく、「量的ではなく質的」な指標と考えました。

高橋英次先生らとのHuman Biologyに発表した論文47)が、1960年の国際学会でL.K.ド−ルによって紹介されました。

 またJapanese Heart J.が創刊になり1962年に私が報告した「High blood pressure and the salt intake of the Japanese」の論文48)、これらの論文によって日本人の血圧あるいは食塩摂取との関連、またりんご摂取との関連が、国際的に知られるようになったと思います。

 

コホ−ト分析

 

 もう一つ昭和32年4月の教室の抄読会での「コホ−ト分析」に関する論文49)のもつ重要性に印象づけられました。この文献は最近「歴史的文献」として再版されています。

 私は「cohort」を「コホ−ト」という日本語としての表現をして紹介50)しました。

 また昭和48年に始めて医師国家試験に出ています51)。今話題の在郷軍人病のレジオネラ感染症のレギオン(legion)もロ−マの軍団で、その1/10の軍集団がコホ−ト(cohort)です。

 予防を考える上での基礎になるコホ−ト分析による論文52)を武田壌寿君が報告しました。「出生コホ−ト」による検討、また季節差・地域差などによって、問題の所在、研究への手がかり、予防の可能性の指摘ができました。

 昭和36年に寿命学研究会主催で日本医師会館でわが国で始めて「脳卒中の治療・予防・リハビリテ−ション」に関するシンポジウム53)が持たれた時、私は「予防」のことを報告しました。

 「予防」とは中国「易経」の(水と火)の第63の既済(きせい)から由来している言葉と思われます。

 われわれはこの地方で古くから「あだり」といわれていた「脳溢血」、とくに「若い働き盛り」から起こり死亡する疾患の「予防」がわれわれの「衛生学の研究」の目標になりました。

 疫学的研究の考え方としては「多要因疾病発生論」であり、「原因」を求めるより、あらゆる可能性(posibility)を求め、もっとも蓋然性(probability)の高いものを考え、把握された「問題」の解決に向かうことでありました。勿論はじめに何を「健康の問題」として把握するかが問題であります。

 「血圧」をそこに住む人々の「健康情報」の一つと考え、それを整理檢討することによって問題解決をはかろうとしました。

 

血圧論と疫学的研究の成果

 

 われわれが一般に生活している人々について、血圧測定方法や記録方法を決めて54)血圧を測定し、統計をとってすぐ分かったことは、同じ年齢群で比較しても、対象ごとに血圧の平均値や分布が異なることでした。また血圧を小学生や中学生といった小さい人達から年寄りまで測定しましたが、血圧の平均値の高い地域では、血圧は小さいときから高いようだ、また血圧値の分布が最高血圧においては正規分布から高い方へずれて歪みがでるようだと考えられました。また同じ対象を夏と冬と測定してみると、冬血圧は上がり夏は低くなるという季節変動を繰り返していることが判明しました。東北地方の人々の血圧は日本の他の地方で測定されている血圧値と比べてみると高いことも分かりました。

 個人の血圧を同じ人について何回も繰り返して測定してみると、血圧の高い人はいつも高めで、低い人はいつも低めで、個人としてその集団の中で血圧のしめる位置がありそうだといったことが考えられました。

 このように一般に生活している、いわゆる健康な人を患者も含めてその地域に住む人々について実際に血圧を測定した値にもとずいて、人および人々の血圧をどのように考えたらよいであろうかと考えました。それが「血圧論」55)になりました。  

 われわれはその「血圧論」にもとずいて疫学的研究を展開しました。

 「血圧を評価するときには、個人の属している社会集団の血圧について集団評価を行い、ついでその集団の中の個人の血圧について個人評価を行わなければならない」という考え方をもつに至りました。

 この考え方は単に血圧についてというだけでなく、「過去から現在までに取り上げられてた、疾病観ないし健康観の将来への発展、橋渡しとしての思想に関する重要な問題と思われ、現在問題になっているコミユニテイ−・ダイアグノ−シス(Community diagnosis)や、健康の指標の概念に通じるものである」と述べました56)。

 われわれの血圧測定値をもとに「血圧論」を考え、「多要因の函数としての血圧値として、個人の血圧値と社会集団に共通な要因」として、東北地方の人々の血圧に大きく関与している社会的文化的要因を考えると、日常摂取している食塩が、小さいときから血圧を高め、加齢とともに最高血圧の分布を高い方へ歪みを起こす要因になるのではないか、そこに「食塩過剰摂取の疾病論的意義があるのではないか」57)と考えました。

 食塩についてはナトリウム・カリウムの炎光分析法をはじめて地域人口集団の尿分析に応用し、高血圧との関連を考察しはじめました58)。

 死亡・罹患に関連があると考えられた人間の健康状態としての血圧59)については、一般に生活している人々についての血圧測定方法、聴診法の検討・標準化、そして現在は自動血圧計による「純客観的血圧測定法」(いわゆる弘前方式)60)によって研究が展開されました。

 1965年から66年にかけてアメリカのミネソタ大学に客員教授として滞在している期間に、今度は世界各地における血圧測定値について検討することができました。「Global epidemiological studies on hypertension」としました。

 病院や診療所で測定された患者の血圧値ではなく、一般に生活している人々の血圧値、それは世界各地で人類学上測定されたものが大部分でしたが、いわゆる人口集団調査(population survey)の論文を総て検討することができました。そして国際的視野からみた日本人の血圧としてまとめることが出来ました。

 その結果日本人の血圧は日本国内でも各種人口集団ごとに、性別・年齢別にみた最高血圧平均値および標準偏差からみた血圧水準と分布に差があるが、国際的にみた場合、他の地方にくらべた場合、一般に高い水準と巾広い分布をもつ報告例が多いことを認めました61)。

 そしてこれらの血圧水準と分布に関連する要因の探索に国際的な計画的な疫学調査の必要性を指摘しましたが、また同時にその地方の人々の日常摂取している食塩あるいはカリウムとのNa/K比との関連についてまとめてみると、そこに一定の関連が認められるのではないかとの「作業仮説」を述べました。

 すなわち各種人口集団の血圧水準や分布とその地域で日常摂取されている食塩との関係をみると、成人になった時の最高血圧が正規分布するものと考え、平均値が120mmHg、標準偏差10mmHgとみると、その上限は150mmHgになるが、このような最高血圧の分布からはずれるのは食塩を1日5グラム以上摂取している人々であり、それからはずれると分布が乱れてくることが認められた。この5グラムがまた人々が日常摂取する食塩の上限にしてはどうか、この位の食塩を食べて元気で生きていけるのではないかとも考えました62)。

 ちょうど宇宙船が地球をまわり始めた時期でもありました。

 1970年ロンドンで開催された第6回の世界心臓学会での高血圧の成因に関する円卓会議で「高血圧についての疫学的研究は、地球上の各地に住む人々がはたしてどのような血圧をもっているかの観察から始めなければならない」と述べ63)、日本人についての観察や国際的に血圧測定値を整理してみての成績を述べましたが、これらの資料は疫学的にいえば「横断的疫学調査」による資料であって、将来国際的に計画的な疫学的研究によって検討しなければならないこと、またとくに日常摂取されている食塩との関連は検討されなければならないことを報告しました。最近「Intersalt study」また「CARDIAC study」にその成果が報告されるようになりました。

 われわれの研究は人々の生活要因に「予防」の手がかりがあるのではないかということでしたが、その成果は「りんごと健康」「食塩と健康」(共に第一出版)にまとめることができました。

 現在までに追跡観察されている成果によれば「働き盛り」の人々の死亡は減少し、出生コホ−ト別に死亡・血圧については良いと思われる方向への変貌が認められています。

 「疫学的アプロ−チ」は基本的にひとりの患者あるいはその人の部分に目が向けられるのではなく、人々の研究から始まるが、その地域人口集団の健康情報としては計画的な疫学研究によらなければならないと思われ、われわれはそのように考える基礎になる成果を得た64)と思いました。そこで得られた情報をもとに「問題」を把握し、問題解決の手段が得られるものと考えます。

 今や発想の転換を−疫学による予防へ−の時代ではないかと考えました65)。

 

おわりに

 

 先日鵬桜会報の「衛生学教室のアルバムから」に昭和35年当時私が学生に講義しているところの写真を掲載66)しました。黒板に「∫」と書いてあるのは、人の健康問題は「多要因疾病発生論」であることを示めしたと思います。「丸」が書いてあるのは「診療所・病院」へ来る患者を診る「臨床的」とは違った「疫学的」な見方が必要ではないかと述べたと思います。100グラムに0.1グラムとあるのはリンゴの中のカリウム量のことで、食塩に対するカリウムの保護作用についての私の考え方を述べたと思います。

 弘前市代官町生れの慶應義塾の先輩の石坂洋次郎さんが残した言葉「物は乏しいが 空は青く 雪は白く 林檎は赤く 女達は美しい国 それが津軽だ」に続く言葉として、私として付け加えさせていただければ「私の半生はこの津軽で過ごし 多くのことを学んだ また学びつつある そして学んだものを 世界に発信できた」と「津軽に学ぶ」の最後に述べました。

 このような講演をする機会をあたえていただいて有難とうございました。

 

文献

 

1)杉田玄白:蘭学事始.日本の名著22,中央公論社,昭46.

2)佐々木直亮:「疫学者」の立場.日本医事新報,3584,43-44,平成5.1.2.

3)佐々木直亮:研究うらばなし.鵬桜会報,32,11-18,昭61.(衛生の旅,Part3,162-182,昭62.)

4)佐々木直亮:柴田学園とのこと.柴田学園創立七十周年記念誌,167-168,平成5年.

5)佐々木直亮:生活条件と血圧, とくに食塩過剰摂取地域にけるりんご摂取の血圧調節の意義について. 日衛誌, 45, 954-963, 1990.

6)佐々木直亮:りんごと健康.第一出版,1990.

7)佐々木直亮:食塩と健康.第一出版,1992.

8)佐々木直亮:解説・現代健康句.津軽書房,1993.

9)佐々木直亮:戦後50年.日本医事新報,3689,64,平成7.1.7.

10)佐々木直亮:日循協30年前夜の人々.日循協誌,30,142-147,1995.

11)佐々木直亮:医療今昔物語:高血圧.臨床科学,32,240-246,,1996.

12)佐々木直亮:衛生の旅. Part 1-6(1980-96)

13)佐々木直亮:新春随想「いい日旅だち」へ.青森県医師会報,401,48-49,1996.1.

14)佐々木直亮:21世紀へのメッセ−ジ:疫学による予防へ.公衆衛生,60,234-235,1996.

15)佐々木直亮:今、疫学を思う.日本疫学会ニュ−スレタ−,No.8,1-3,1996.6.15.

16)佐々木直亮:先生.日本医事新報,3741,56,平成8.1.8.

17)富士川游:日本疾病史.平凡社,昭44.

18)衛生学開講25年誌,1971.

19)第35回日本衛生学会総会号.日衛誌, 20(5), 1965.

20)R.デュボス(田多井吉之介訳):健康という幻想.紀伊国屋書店.1964.

(Rene Dubos:Mirage of health,Harper & Brothers Publishers,New York,1959.)

21)佐々木直亮:コス島への旅.公衆衛生,32,225-227,1968.

22)佐々木直亮:「ちゅうぎ」考. 月刊健康, 173, 42-43, 1978.(衛生の旅,Part 1,74-75,1980.)

23)J.E.ゴルドン:医学的生態学としての疫学観の発展.公衆衛生,18(4),1-8,昭30.

24)J.S.Morris:Uses of epidemioligy.Brit.Med.J.,4936,395-401,1955.

25)原島進:社会要因についての考察−J.N.Morris−Uses of Epidemiology(1957)の用語の分析.公衆衛生,25,615-617,1961.

26)原島進:人間有機体.医学出版部,郡馬県太田町,昭23.

27)原島進:ジョン・スノ−のコレラ疫学(1855年版).日本医事新報,791.3887-3888,昭12.

28)佐々木直亮:疫学的アプロ−チ.日本医事新報(ジュニヤ−),148,15-16,昭50.12.15.

29)佐々木直亮:ロンドンの名所. 公衆衛生,32, 223-225, 1968.

30)高橋英次:自殺の疫学的考察.綜合医学,7,466-470,1950.

31)野辺地慶三,他:健康の疫学,公衆衛生,22,233,1958.

32)弘前大学医学部衛生学教室業績集. 第2−12巻(1955-85)

33)佐々木直亮:脳卒中乃至高血圧症の疫学的研究.高齢医学,1,160-168,1957.

34)佐々木直亮:疫学からみた私達の健康問題.弘前大学大学祭,学術公開講演,昭32.6.1.

35)佐々木直亮:高血圧の疫学的研究.第28回日本衛生学会総会シンポジウム,(昭33.4.8.)日衛誌,13,11-13,1958.

36)佐々木直亮:言葉のもつ意味.弘前医師会報,233,71-72,1994.2.15.

37)佐々木直亮:「民族衛生」について.民族衛生,59(5),249,1993.

38)増田桓一:青森県津軽地方におけるいわゆるシビ・カッチャキ症について.ビタミン,3,189-196,1950.

39)仁平將・佐々木直亮:循環器系疾患を表わす言葉についての研究.保健婦雑誌,40,116-123,1984.

40)G.W.Pickering:The nature of essential hypertension. p.3, J. & A. Churchill, London, 1961.

41)佐々木直亮:日本人の高血圧−疫学の成果と展望−.日本保険医学会誌, 79, 59-92, 1981.

42)佐々木直亮:人々と生活と.第49回日本民族衛生学会総会記念写真集,No.238,1984.

43)T.Gordon:Mortality experience among the Japanese in the United States,Hawaii, and Japan.Pub.Health Rep.,72,543-553,1957.

44)佐々木直亮:わが国における脳卒中乃至高血圧の公衆衛生学的問題点.日公衛誌,4,557-563,1957.

45)佐々木直亮:Apoplexy(脳卒中)の疫学.神経研究の進歩,7,297-312,1963.

46)武田壌寿:中年期脳卒中死亡率の意義について.弘前医学,7,83-90,1956.

47)E.Takahashi et al.:The geographic distribution of cerebral hemorrhage and hypertension.Human Biology.29,139-166,1957.

48)N.Sasaki:High blood pressure and the salt intake of the Japanese. Japanese Heart J., 3, 313-324, 1962.

49)R.A.M.Case:Cohort analysis of mortality rates as an historical or narrative technique. Brit.J.prev.soc.Med.,10,159-171,1956.(J.Epidemiology and Community Health,50,114-124,1996.)

50)佐々木直亮:コホ−ト分析とその実例.保健の科学,2,146-149,1960.

51)佐々木直亮:コホ−ト分析によせて.日本医事新報(ジュニヤ−),184,27-28,昭54.7.

52)武田壌寿:わが国の脳卒中死亡のコホ−ト分析について.厚生の指標,5(5),52-56,1958.

53)佐々木直亮:脳卒中の予防について.日本医師会誌,48,75-79,1962.

54)高橋英次、他:東北地方住民の血圧.弘前医学,11,704-709,1960.

55)佐々木直亮:血圧論. 弘前医学, 14, 331-349, 1963.

56)佐々木直亮:高血圧者ふるい分け検診についての問題点.日公衛誌,9(7), 287-291, 1962.

57)佐々木直亮:脳卒中頻度の地方差と食習慣「食塩過剰摂取説の批判(福田) 」の批判.日本医事新報,1955, 10-12, 昭36.10.14.

58)佐々木直亮:東北地方住民の血圧と尿所見特にNa/K比との関係について. 医学と生物学, 39, 182-187, 1956.

59)佐々木直亮:疫学面よりみた高血圧.最新医学,22,1142-1149,1967.

60)佐々木直亮:自動血圧計覚書. 日本医事新報, 3542, 64-65, 平成4.3.14.

61)佐々木直亮:国際的視野からみた日本人の血圧.弘前医学,26(3.4), 327-349, 1974.

62)佐々木直亮:疫学面よりみた食塩と高血圧.最新医学,26(12), 2270-2279, 1971.

63)佐々木直亮:高血圧における食塩因子.日本医事新報,2426, 30-31,昭45.10.24.

64)佐々木直亮:地域人口集団の健康情報としての医療機関における情報のもつ意義について−血圧情報を例としての考察.日衛誌,45,187,1990.

65)佐々木直亮:今こそ発想の転換を 疫学による予防医学へ. 衛生の旅(Part 4), 6-9, 1988.

66)佐々木直亮:衛生学教室のアルバムから(その30).鵬桜会報,41,146-149,平成8.6.26.

 (第37回社会医学研究会総会特別講演,平成8年7月20日,弘前大学医学部コミュニケ−ションセンタ−)(社会医学研究,16,45−52,1999)  

                  (目次へもどる