日循協30年前夜の人々

 

はじめに

 

 よく結婚式などで「赤い糸によってむすばれた」という話が語られるわけですが,いま日循協のこと,また私の研究生活を振り返って考えましても, 「運命論」ではありませんが,すべて色々と,とくに人と人のつながりについて考えざるを得ません。私なりにそのつながりを解説してみたいと思います。

 弘前に住むようになったのは昭和29年からですが,研究業績は高橋英次先生が始められた弘前大学医学部衛生学教室業績集(1-12)に,また私の「衛生の旅 Part 1-5」に書き,しかるべき図書館に送ってありますのでご覧いただければその筋道がお分かり戴けるのではないかと思いますが,ここではそれらにないことを写真と共に話してみたいと思います。

 この「津軽」地方には「あたり」という言葉があります。本当は「あだる」であって,これがどのような意味をもっているのかというところから出発しました。現在の病名では脳血管疾患と思われますが,「ぼんとあだる」「びしっとあだる」「かすった」「しびれた」という言葉があります。

 日本全国で脳血管疾患についてどのような病名がその土地土地でいわれていたかを調べたことがありましたが,「中風」「中気」は全国的にいきわたっていることが分かりましたが,これは古くからの伝来した中国文化の影響と思われます1,2)。ギリシャのヒポクラテスの時代からのアポプレキシアと同じく病気の症状の観察上の病名であると思われます。

 スライドは青森県五所川原市の増田桓一先生から戴いた明治29年頃の診療録(カルテ)ですが,「脳溢血」の診断名が見られます。増田先生の祖父(亀六:キロク)が明治のはじめに順天堂塾で佐藤尚中について学んだあと,明治14年青森県知事の辞令で北津軽郡公立病院長として御所河原へ赴任されたのですが,この診療録にみられる診断名に佐倉順天堂塾での「漢方から洋方へ」の医学の,18世紀から19世紀にかけてヨ−ロッパで展開された病理学的な理解の,当時としては最新の知識があったことが伺われます。

 

わが国における「脳溢血」の研究

 

 その「脳縊血」という標題の総合研究(日本学術振興会の第43小委員会)が昭和16年(1941年)に日本で始まっています3)。委員長は私が学生時代に習いました西野忠次郎先生でした。先生からは現在の神経内科学的講義を聞きました。

 その研究班ができたいきさつ,仕掛人は「日本人に脳卒中死が各国に比べて格段に多いと発表した」渡辺定(さだむ)先生と思われます4)。

 この研究班の目的として,結核死亡は多いが,壮年以後脳溢血の死亡が欧米と比較して多いことを指摘し,この病気の「原因と予防」に関する学術的基礎研究を遂げようとするものである,と述べられています。委員の方々の名前を見ますと現代に続く学問の人脈が考えられます。

 わが国における「脳縊血」の研究は総合研究で病理・成因・実験・臨床・統計,そしてまだ「疫学」がない頃で,「成因的方面として衛生学的研究」を行った近藤正二先生はそのはしがきに脳溢血の成因に関しては,遺伝素質の関与が考えられるが,なお素因を作るのに関与する外因としては飲酒が重視されている位で,その他に就いては殆ど知られていないと述べています。

 統計的研究として,生命保険医学における成果があり,また血圧との関連などの調査研究が始まっていることが分かります。

 ここに日本独得の研究の展開5)があったと思いますが外国にはこのことは殆ど知られていないと思います。

 スライドは昭和46年に弘前大学医学部の衛生学開講25周年記念の時に撮ったものですが,近藤正二先生・高橋英次先生です。近藤先生はいつも人参とおろしがねを持参して旅行されておられました。先生は「長寿者率」で研究をすすめられたので,これが短命村・長寿村あるいは現在の短命県・長寿県といわれるようになったことのはしりであったわけですが,先生の研究の成果は現在の記述疫学による手がかりであったと思います。先生は20歳から59歳の壮年期脳卒中死亡率で検討されましたが,これは量的指標というより質的指標と考えられますが,われわれは高橋先生と30歳から59歳の中年期脳卒中死亡率を指標にその後の疫学的研究を展開しました。

 

疫学的研究のはじめ

 

 スライド6)はわれわれの疫学研究の原点を示すものですが,昭和30年秋田の農村を血圧計をリヤカ−にのせて,そこに住んでいる人々の血圧はどうであろうか,どんな生活をしているのかを調査して回ったときのもので,昭和29年から数年間に青森県秋田県内の数万人の血圧を測定しました。

 昭和29年に「厚生の指標」が創刊になり,その2号に示されたWHOの資料です。わが国の死亡状況は諸外国に比較して脳卒中死亡率はとび抜けて高く,一方心臓病は少ないことが示されました。このことに関して国際的には日本の資料について疑問がもたれていました。すなわち死亡診断書の記載の方法・診断基準・統計の方法などに問題があるのではないかとの指摘がありました7)。

 日本の人口動態統計が整備されるようになってわれわれはその資料を入手できました。これによって脳卒中についての公衆衛生学的問題点を指摘しました8)。その時の資料です。都道府県・性・年齢・死因別の死亡率が分かりました。

 秋田県と岡山県の全死亡について年齢別死亡率の上昇のカ−ブを比較しましたが,当時中枢神経系の血管損傷と分類されていましたが脳血管疾患にあたる部分に両県間に差があることが分かりました。

 1960年(昭和35年)に高血圧の国際シンポジウムが開かれたとき,Drド−ルが高橋先生らわれわれが 1957年にHuman Biologyに発表した論文9)を引用・報告しましたが,この時以来日本の脳卒中死亡率・血圧や食塩のことが国際的に知られるようになったと思います。

 昭和29年渡辺定らが中心になって「寿命学研究会」が創設され,昭和31年に第1回の日本ジェロントロジイ学会の老年医学会で「高血圧について」の課題でシンポジウムが行われ,その中で「疫学的立場から」額田粲・福田篤雄・秋山房雄先生らの発表が行われています。 

 

「成人病」の時代へ

 

 昭和31年に厚生省が「成人病予防対策協議連絡会」を設置し,その中で40才から60才程度までの者を対象に対策を考えるようになりました。この時以来日本は「成人病」の時代に入るわけです。

 昭和32年に開かれた第1回成人病予防対策協議連絡会議の議事録ですが,「成人病とは・・・」という問答がされています10)。

 昭和33年4月熊本で第28回日本衛生学会ではじめて「高血圧の疫学」のテ−マでシンポジウムがもたれ私も発表しました。食塩のことを述べたのですがリンゴの高血圧予防の効果の方が大きく報道に取り上げられました。

 昭和33年10月九大で第13回日本公衆衛生学会が開かれましたが,その時木村登先生の「血管病の発生要因に関する論争点」について特別講演がありました。木村先生は A.Keysらの Seven Countries Study に参加された先生であとで国際関連のときにお話したいと思います。また吉岡博人先生の提案によって学会中にはじめて「高血圧の自由集会」がもたれることになり,高血圧に関しての自由な意見の交換の場がつくられるようになり現在におよんでいます。このスライドは第1回の高血圧自由集会の場面です。

 昭和34年厚生省厚生科学研究による「高血圧症及び心臓疾患患者の健康管理」がありました。班長は冲中重雄先生でした。

 その頃のスライドですが,昭和34年4月日本医学会総会が開かれた翌日の新聞の記事です。「塩は高血圧に無関係」と報道されました。私は疫学的な立場から「脳卒中頻度の地域差と食習慣・食塩過剰摂取説の批判(福田)の批判」を日本医事新報誌上に発表したこともありました。 

 昭和35年7月日本学術会議が弘前で開かれたときの写真です。冲中重雄先生らの公開講演会がありました。弘前公園での大阪大学公衆衛生学の関悌四郎教授です。大阪成人病センタ−グル−プにとっては忘れられない先生だと思います。

 昭和35年脳卒中死亡から半身不随者への研究を展開し,NHKの録音構成をしたこともありました。

 昭和36年5月 WHOからDrフェイファ−が来日しました。国立公衆衛生院で会議をもちました。曽田長宗・渡辺定・山形操六・秋山房雄・平山雄・渡辺孝先生らの顔がみられます。

 昭和36・37年厚生省による成人病実態調査が行われるようになり,日本各地でその調査のための厚生省(山形操六ら)の指導講習が行われました。このスライドは青森保健所での秋山房雄先生らによる心電計の使用についての講習会の様子です。

 昭和36年寿命学研究会主催「脳卒中の予防、治療およびリハビリテ−ションのシンポジウム」が日本医師会館で行われました。ダッショ(リハビリ)・相沢豊三(治療)・秋山房雄(高血圧の健康管理)・福田篤郎(半身不随の実態調査)・大島良雄・藤井静雄(温泉療法など)先生らの発表がありました。私は「予防」について述べたのですが,その可能性は脳卒中死亡率の地域差・季節差・時代差とくに出生コホ−ト分析によって脳卒中の予防の可能性があることを述べました。

 また昭和36年第17回日本公衆衛生学会で「東北地方住民の脳卒中ないし高血圧の予防についての研究」の特別講演を行いました。

 昭和37年に「循環器疾患を主たる対象とする健康管理に関する研究」が東京在の方々によって推進・企画され「循環器管理研究協議会」が発足し,また昭和34年創設された大阪成人病センタ−の方々を中心に「成人病管理協議会」が発足しています。

 東北地方の諸大学による文部省総合研究もありましたが,昭和38年第16回日本医学会総会で「高血圧症」のシンポジウム(司会・中沢房吉)が行われ,私も「血圧論」に関する考え方を報告しました。

 このスライドは昭和37年11月東大での冲中重雄先生の「脳卒中の成因,殊に日本人の特殊性」班研究会が行われたときのものです。久山町研究をはじめておられた勝木司馬之助先生ら,また脳卒中の診断基準いわゆる「冲中分類」をまとめられた相沢豊三先生らの大先生の中に班員に入ることになりました。

 昭和38年6月箱根で千葉の柳沢利喜雄先生の「脳卒中・高血圧予防の・・」班会議が行われた時の写真でようやく現在に続く方々の顔が出て参りました。

 

国際的にみて

 

 国際的にみて動脈硬化・高血圧に関する系統的な研究は1930年代に始まったといってよいと思われます。

 1946年に International Society of Cardiology(ISC)が組織され,1950年にパリで第1回の世界心臓学会(World Congress of Cardiology)が開かれておりますように,健康問題の関心は「心臓病」にありました。

 1954年に第2回世界心臓学会がワシントンで開催された時木村登先生が日本の冠状動脈硬化がほとんどみられないという病理所見を発表され世界に注目されましたが,その前にミネソタ大学へ沢山の心電図を持参されたことが語られております。このことが1958年キ−ス先生らの Seven Countries Study の調査に発展したと思われます11)。

 そのキ−ス先生から私が1962年に Jap. Heart J.に報告した研究12)に興味をもたれた手紙を戴いたことが,後にミネソタ大学の客員教授として1965年から66年にかけて在外研究に行けたこと,また同大学でのセミナ−で日本における脳卒中・高血圧の疫学的研究を紹介する機会があり,これが恐らく第6回の世界心臓学会(London, 1970)での Round Table Session(Causative factors in hypertension)で報告することができたことにつながったことと思います。

 また「人類をおびやす循環器系の疾患は,すでにその病気になやんでいる人を治すことだけでは本質的には救われない,予防を可能にするために発生要因の探求にとりくまなければならない」とA.Keysらによって「疫学と予防」の会が発足したのは1966年第5回世界心臓学会がインドで開催された時でした。

 このスライドは第10回の世界心臓学会が1986年ワシントンで開催された時のものです。ミネソタ・グル−プとでもいう方々が「疫学と予防」の会に集っております。

 1955年に初めて WHOは”Atherosclerose”と”Ischemic Heart Disease”についての専門家会議をもち,1959年に高血圧虚血性疾患について予防医学的見地に立っての会議がもたれました。WHOで脳血管疾患につての会議がもたれたのは籏野脩一先生らの努力で 1970年モナコで開催され,わが国からは重松逸造先生・勝木司馬之助先生が参加されました。

 

脳卒中死亡率・血圧の変貌

 

 昭和40年科学技術庁からの食品の流通体系の近代化に関する勧告(いわゆるコ−ルド・チェ−ン)に関与13)することができましたが,大きな国家的干渉であったと思います。しかしその結果は脳卒中の死亡率や胃癌死亡率の好転につながったことはそれが目標であったのでよかったと思います。

 日本全国でわれわれが目標にした「30歳から59歳」の中年期脳卒中死亡率はどうなったかをスライドで示したいと思います。

 図はわれわれが参加した秋田県西目町(旧西目村)で出生コホ−トごとに加齢にともなう死亡の上昇の様相に明らかな相違があり,以前の出生コホ−トは若く働き盛りの年齢で死亡していたのに最近の出生コホ−トは高年齢で死亡する傾向があるようになりました。

 その死亡構造をみると図のように最近の出生コホ−トでは69歳以前の脳血管疾患による死亡は減少するような死亡構造の変貌が認められています14)。

 図は全国および青森県の中年期死亡の時代推移で,低下しました。

 図のように青森県では,中年期の癌死亡は低下していませんが,脳卒中死亡は低下しました。

 図に示すように青森県でも若い出生コホ−トほど脳血管疾患による死亡率は低下しています。

 図はわれわれが検討した国民栄養調査による日本人の血圧水準・分布に変貌の一部として男・最高血圧の75パ−センタイル値の年代別出生コホ−ト別の傾向を示したものですが,脳血管疾患による死亡率の変貌と平行に血圧の水準と分布に変貌があることが認められました15)。

 

 昭和40年になって循環器の管理を研究実施している臨床側と公衆衛生側の人々が集まって話合いが行われ,昭和41年3月京都において日本循環器管理研究協議会(日循協)が発足し,昭和43年社団法人(理事長・小林太刀夫)となって現在におよんでいます。

 これらが「日循協」誕生の前夜における主な出来事とその中で登場する人々を私が特に関係したことを主に写真と共にお見せしたのですが、そのあとを継ぐ人々が現在までにいたる循環器管理研究協議会の展開の中で深くかかわりあっているものと思われます。

 そしてわが国の循環器関連の疾患,とくに脳血管疾患による死亡を働き盛りから高年齢層へシフトさせたことに少ない予算の中で効果をあげた活動をしてきたと考えております。

 日循協30年が経ちまして,また新しい時代を迎えたというのが私の印象です。

 

文献

1)相沢豊三・堀江健也.日本における脳卒中の歴史.日本医事新報,1976:2708:  63-67, 2709: 64-67, 2711: 67-71.

2)仁平 將・佐々木直亮.保健婦雑誌,1984:40: 118-123.

3)西野忠次郎編.脳溢血(日本学術振興会第43小委員会報告).東京:丸善,1950.

4)渡辺 定.脳卒中死亡の推移.厚生の指標,1954:1(2): 6-12.

5)藤原元典・渡辺厳一総編集.総合衛生公衆衛生学「第15章成人保健と老人問題」.  東京:南江堂.1978:981-1054.

6) 佐々木直亮.人々と生活と.第49回日本民族衛生学会総会記念写真集.1984:2  38.

7)Mortality From Cardiovascular Diseases. WHO Chronicle.1960: 14: 22  8-231.

8)佐々木直亮.わが国における脳卒中及至高血圧症の公衆衛生学的問題点.日公衛誌,1957:4: 557-563.

9) Takahashi E. et al.The Geographic Distribution of Cerebral Hemorrhage and Hypertension in Japan. Human Biology, 1957:29: 139-166.

10)佐々木直亮.成人病の由来.日本医事新報,1981:3007: 67.

11)Toshima H.・Koga Y.・Blackburn H.(Editors)Keys A.(Honorary Editor).Less  ons for Science from the Seven Countries Study.Tokyo: Springer-Verlag, 1994.

12)Sasaki N..High Blood Pressure and the Salt Intake of the Japanese.Jpn. Heart J. 1962: 3: 313-324.

13)科学技術庁資源調査会勧告第15号.食生活の体系的改善に資する食料流通体系の近代化に関する勧告.昭和40年1月26日.

14)佐々木直亮.東北地方2町村の死亡状況の動向−出生コホ−ト分析による検討−.東北女子大学・東北女子短期大学紀要,1992:31: 81-87.

15)佐々木直亮.日本における死亡と血圧状況の年次推移−出生コホ−ト分析による検討−.東北女子大学・東北女子短期大学紀要,1993:32: 116-122.

(第30回日本循環器管理研究協議会総会:創立30周年記念特別講演:1995.6.2.青森市)       (日循協誌,30(2), 141-147, 1995)

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