ロンドンの名所

 

 アメリカをはなれるすこし前、私はロンドンのJ.N.Morris(Uses of Epidemiologyの著者)から、次のような手紙を受け取っていた。

 ・・・Alas, Dr.Crawford, who is our worker in your field, is in hospital and will not be back on duty till in July. We therefore hope you will visit us on another occasion.・・・

 私の研究に興味を示し、文献を請求したDr.Morrisではあったが,実際に仕事をしているというDr.Crawfordは今ロンドンにいないという。またの機会にしよう。

 そこで私はめざすもう一人の相手、Dr.Roseに会うことが、ロンドンでの予定になった。あとは見物してまわろう。そんなことを考えながら、1966年6月1日から2日にかけて太平洋をPANAMで渡った。

 ちょうどロンドンで開業しているという私と同年輩の太った医師と隣りあわせた。彼はニュ−ヨ−クへ自分の患者をおくりとどけての帰りだという。大分金になったといっていた。スケ−ルの大きさにちょっと感心し、帰りの一等の切符をもらったのにエコノミ−クラスにのりかえ、120ドルをうかしたというがめつさにイギリス人を感じたりした。アメリカとイギリスの一番の違いは何かの質問に、”言葉が違う”という答えが出てきたのにはおどろいた。 おどろくのがおかしいのかもしれない。ちょうど青森の津軽と南部の違いは何かの質問に”言葉が違う”という答えがでてくるのと同じではないか。ロンドンの言葉は、昔ならったキングズ・イングリッシュではなかった。ロンドン調というのであろうか。それとも9カ月であっても、アメリカの調子にすこしなれたのかもしれない。

 その日は幸いに快晴だった。人影まばらな早朝のロンドン空港で、ばかていねいなハイヤ−の運転手にトランクをはこんでもらったのが運のつき、まんまと市内へそのハイヤ−をとばせるはめになってしまった。しかし気分はよかった。アメリカとは違った風物を窓越しに見、”あれは一番古い学校です”、などの説明をききながら、そして最後に”4パウンド、チップは10シリング出すのが普通です”と彼はこの観光客に説明してくれた。世界の観光客を相手に、いんぎんていねいに、しかしがっちりと外貨をかせぐ、ロンドン人気質に直面し、ロンドン入りしたのである。

 Dr.Geoffrey A.Rose, 所属はLondon School of Hygiene and Tropical Medicine, Department of Medical Statistics and Epidemiology,資格は Senior Instructor.

 彼はまだみたところ若い。彼は高血圧の疫学研究に興味をもち、とくに方法論について興味を示していた。

 Pickering とPlattが、 Lancet誌上でやりあった本態性高血圧についての論争がきっかけになったと思うのだが、Dr.Roseは、疫学研究における聴診法による血圧測定法について論じ、主として末尾の数字のよみの不平等性と、測定者の先入観を除いて血圧を測定できる装置を考案し、また最近は血圧測定における測定者の標準化について報告している。

 前もって送ってあったかずかずの私の論文に目を通しておいてくれたDr.Roseは、私たちが東北地方で血圧測定をやった成績に興味を示したが、なぜ私たちが数回血圧を測定して、その中で最高血圧が一番低い値を示したときの最高血圧と最低血圧の値をとるのか、なぜ測定の最初の値をとらないのかをついてきた。もっともなことである。しかし、私には私の目的があることを説明した。それは私たちのきめた方法で測っても、それでも東北地方の人たちの血圧は若い時から高いことを示すためにという意味で。その答えをしながら、彼と同じ質問をアメリカの研究者たちにし、彼らはとうわくし、不明確な答えしか得られなかったことを思い出していた。たしかに血圧測定時にいったいどの値をとったらよいかは未解決の問題だった。

 彼は彼のコロトコフ音のテ−プを私に送ってくれることを約束してくれた。私もそれをつかって実験し、報告を出すことがあったら、あなたの名前を書き入れようと約束した。彼は録音がまだよくないことをさかんに弁解していた。

 部屋をさる予定の時間がきた。私は最後に”John Snow のBroad Street Pump”の場所をたしかめるために質問した。彼はその場所を地図で示してくれた。

 ”ロンドンでほかにみるところはありますか?””これ一つみればあとは何もない!”とDr.Roseは答えた。彼は疫学者なのだ。そして私も疫学者であった。

 ロンドンの地図で、Broad Streetと名のつくところをさがすと何カ所かある。

 Broad Street Av.E.C.2.

 Old Broad St.E.C.1.

 New Broad St.E.C.1.

どれもがJohn SnowのBroad St.ではないのである。本当の場所は、今はBroadwich St.W.1.にある。

 今は何の変哲もない裏通りであった。家と家の間の白いトイのそばに、2,30cmのハメコミの記念碑と、その前のみちのふち石に、昔の井戸のちょっと赤ちゃけた石があるだけであった。

 ”THE RED GRANITE KERB STONE IS THE SITE OF THE BROAD STREET PUMP MADE FAMOUS BY DR.JOHN SNOW IN 1854"

そこを通る人たちは誰もしらない。今から110年前のJohn Snowの研究といったできごとは、ロンドンの歴史の中のほんの一頁にすぎないであろう。

 ”私はこれをみるために、はるばる日本からやってきた”と通りかかった老婆に、私はその石をさしていった。彼女はちょっとけげんな顔をしながら、コツコツとあるいていった。

 あとは型のように見物をした。ロンドン市内観光、ウインザ−城、エデインバラまで足をのばした。

 バッキンガム宮殿前の衛兵交代は、世界の観光客をあつめる一大ショ−であった。午前11時には観光客のだれもが広場にあつまってきた。

 しかし私にはロンドン塔(The Tower)の宝物殿に入ったときの、そこにあるものをみたときの、おどろき、感激は忘れられない。それは代々伝わる即位用の王冠や王笏ではない。大きなダイヤモンドが入った王冠ではない。それらの宝物の一番上におかれていた金色にかがやく”塩の入れ物”(Salt Cellar)であったのだ。説明の文面をよくよんでいくうちに”Salt”という字が私の目にとびこんできたときには、自分の目を疑った。

 ”塩と高血圧”それは今の私のテ−マでもあり、また当分とりくまなければならない大きな問題でもある。しかし塩が血管に悪いという考え方は、すでに数千年前東洋にあった。黄河のほとりにそだった中国文明の中にその最初の文献がある。・・・海のい近く住む人は魚と塩をたくさんたべ・・・塩は血を害す・・・と。

 とすれば、もし食塩が高血圧と関係がありという”学説”はまったく新しい発見ではなくなる。もう先人が何千年も前に考えていたことになる。それでは学者は何をするのか。食塩と高血圧との関係をいわゆる科学的に納得のいく形で説明していくより仕事がないではないか。

 Dr.Meneely は”the salt in the diet ”と”the salt added to the diet”といい、問題は” the salt added to the diet”だと指摘した。”塩のない国のおとぎ話”、”サラリ−の語源はsalt”、英語で”above the salt”は”上席”を示し、”below the salt”は”末席”を示す。こんな言葉が頭の中をかすめた。”塩の入れ物”(Salt Cellar)が、ダイヤモンドをちりばめた王冠の上にキラキラとかがやいているのをながめ、人間の生活と塩の歴史の一頁をみることができたのである。

(公衆衛生,32,223−225,昭43)

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