日本医学会総会における発言

(昭和38年・第16回日本医学会総会・大阪)

日本医学会総会は4年に1回開催される。オリンピックなみである。東京と関西地区がくりかえして会場となっていた。今年は九州であった。杉岡洋一会頭の言葉として「患者が病から癒える喜びをわれわれ自身の喜びとする東洋的価値観に支えられた、人間の営みとしての医療を守らなければならない」と利益追求型米国医療に警鐘したと伝えられた。もっともだと思う半面、私は杉岡先生を知らないが、一寸と!?と言いたくなる感じがした。

昭和38年の総会は大阪で、私の発言は「血圧論」に関するものであった。

昭和29年に「東北地方住民の脳卒中乃至高血圧の予防についての研究」を開始した。

昭和33年に第28回日本衛生学会総会でシンポジウム「高血圧の疫学」が行われたとき、「高血圧の疫学的研究」について発言の機会があった。

昭和36年の第17回日本公衆衛生学会総会では特別講演「東北地方住民の脳卒中乃至高血圧の予防についての研究」の機会が与えられた。

ついで昭和38年の第16回日本医学会総会が大阪で開催されたときのシンポジウム主題30「高血圧症」(司会中沢房吉)には発言の機会が与えられた。

こう振り返ってみると研究をやってきた者にとっては、研究を自分の属している学会で発表するのとはちがって、日本医学会などの場合は、学会を引き受けた学会長なり運営委員の誰かが発言し、誰かがそれを認め、ちょつと喋らしてみようではないか、聞いてみようではないかと考えたに違いない。自分が学会を引き受けたときのことを考えるとそう思うのである。世の中はそのように動いているのであろうという思いである。日本医学会総会ともなると、とくにその思いが強い。とくに「疫学的研究」などまだ認められていなかった時代であり、臨床と違って「予防」などには一般には目が向けられていなかった時代だからである。

運動競技なら一定のル−ルがあって選ばれてゆく。「芸術点」などといわれると疑問の点は残るが、それによって選ばれてくるわけであるから一応納得される。が、学問の世界はどうであろうか。

私が日本医学会総会で発言の機会が与えられたが、誰が推薦したのかはわからない。

発表したその内容は、われわれの疫学的研究の基礎になる考え方にしたが、「血圧論」に関するものにした。測定した血圧をどう考えるかという「血圧論」である。「血圧論覚書」こ書いたことなのだけれど、未だに一般に理解されていないように考えられるので、再掲することにした。その内容は「出版物」(第16回日本医学会総会学術講演集IV, pp410-412, 日本医書出版会、昭38)にある。

シンポジウムのテ−マが「高血圧症」であったので、私の発言の内容からいえば「症」とつけることは、そぐわないと考えたが、演題は「高血圧症の集団評価と個人評価」にした。

「高血圧症の集団評価と個人評価」

私がのべたいことは、血圧をはかりました場合に、その血圧の値をどのように理解すべきかという、いわば血圧論についてであります。

もう一つは、私が衛生学公衆衛生学の学問的な背景をもっている者として、高血圧症に対して、どのような研究方法でたちむかい、又その対策をたてる上にどうしたらよいか、ということについて、血圧論から考えられる意見なり考え方を申し上げたいのであります。

われわれが高血圧症を問題にするのは、わが国の死亡率が第1位であり、その死亡率にみられる色々な特徴からうかがわれる問題として、日本全体にわたる問題でもありますが、東北地方に多く、他の地方にくらべて若い働きざかりの方から脳卒中による死亡があることであります。それら働きざかりの方の死亡を老年層にまでおいやるにはどうしたらよいか、どのような手を打つべきかというのが出発点であります。そしてその疾患の基礎に横たわっていると思われる疾患としてではなく、人間の状態としての高血圧が問題としていうかび上り、それに対する対策をたてなければ、多くの働きざかりに方々の生命が過去に失われたように、又これから将来も失われるであろうと考えますのでその対策をたてる目的で高血圧についての研究が行われているのであります。

さてわれわれは、高血圧の研究においてこれまで多くの臨床家が行ってきたように、高血圧症というケ−スをみつけて、そのケ−スについて色々探求するという方法とは違って、人間の集団の中におけるケ−スのおこり方をみてゆく疫学的研究方法によって、その手がかりを求め、対策を考えようとしました。

われわれは、昭和29年から東北地方住民の脳卒中乃至高血圧の予防についての研究を開始しましたが、まず色々な人口集団がどのような血圧を示しているかを知るために、約1万2千名、約40の対象について調査が行われました。それらの調査によってわれわれの得た主な結論は次ぎのようなものでした。

1)青森県、秋田県内の東北地方の住民の血圧は、わが国の他の地方の住民の血圧にくらべて、一般に高い値を示す。

2)住民の血圧が高いのは、成人の血圧が高いばかりでなく、小学校や中学校の子供の時から血圧のレベルは高いと思われる。

3)東北地方の住民の血圧は、一様に高いのではなく、対象によってかなりの差があるのではないかと思われる。

4)青森地方において、月平均気温が10度C以上を示す5月から10月の間に測定された成績と、10度以下を示す11月から4月の間に測定された成績を比べると、明らかに低温期に住民の血圧は高値を示す。

さらに家庭訪問による在宅者の血圧を部落別に比較しても地域差は認められますし、又生命保険申込者の血圧を比較検討しても地域差が認められます。さらにその後それらの対象となった部落のうち、2,3について、その後現在まで5カ年以上夏冬2回づつ、ほぼ全員の住民の血圧を観察し続けていますが、それらの結果をみますと。個人の血圧は後でのべるように変動しますので、この数年間に最高の値をとった場合と、最低の値をとった場合を考察した上で、それらの部落の血圧の分布の状態を観察しますと、同じ青森県内の近接した部落でありながら、血圧のレベルが相違し、その変動のある中に、各人が生活しているということが理解されました。

すなわち、これまで日本人の血圧値として広く用いられております生命保険統計や国民栄養調査による資料から計算される値は、いわば平均化されたもので、地域的に色々レベルの相違する集団の平均値として理解される必要があると思われます。

これら人口集団の血圧値が地域的に相違するという所見は、脳卒中死亡率の地域差と関係があると考えられますが、脳卒中死亡率が戦時中に低下を示したと同時に、血圧水準も低下をしたという時代差もすでに知られていることですし、又脳卒中死亡率の季節変動と同様、血圧にも季節変動のあることが考えられます。数年間にわたって、夏冬と測定をくりかえしているわれわれの対象となりました東北地方住民の血圧は、夏は低く、冬は高くなるという変動をくりかえしていることが観察されています。

ところが、さらにこのような地域的な人口集団のみならず、同じ地域内にあっても住民の生活諸条件の相違といったような機能的な人口集団についても差のあることが認められるのであります。

われわれの集団的血圧測定を行いました東北地方住民の血圧の資料のうち、40才から59才の男女中年者約3000名について、生活諸条件との関係を5才階級ごとに算術平均値を求め、確率積算法によって検討しますと、生活諸条件によって差のあることがわかりました。第一に住生活について、冬季暖房にスト−ブを用いる者の血圧は、用いない者の血圧より低く、又スト−ブの使用年数1年から5年までの者と、6年以上の者と比較すると、使用年数の長い方に血圧の低い傾向のあることがうかがわれました。又りんごの摂取個数についてみると、りんごを1日にとる個数の多い方に血圧が低い傾向のあることがうかがわれました。さらにスト−ブの有無とりんご摂取個数との交互作用をしらべると、スト−ブの使用の有無より、りんごの摂取の個数の方に強い影響力のあることがうかがわれました。

又青森県、秋田県内の生命保険申込者の血圧についての統計的分析によって、肥満体のある者はない者より血圧は高く、酒をのむ者はのまぬ者より血圧は高く、又脳卒中の家族歴のある者はない者より血圧は高い傾向がうかがわれました。又これらの交互作用をみると、肥満体のある者は脳卒中の家族歴や飲酒の有無にかかわらず、血圧の高い傾向があることが認められました。

又人間の集団の血圧の観察方法として、算術平均値のみならず、中央値による観察、又血圧の分布全体のゆがみをあらわすSkewness indexによる観察によっても、年令別に、対象別に、又生活諸条件によってSkewness indexの差のあることが認められました。

臨床的に原因のはっきり認められた高血圧症を除いて、本体不明のいわゆる本態性高血圧症に対して、現在二つの異なった解釈があります。その一つは本症は一つの特殊な独立した疾患であって、その疾患のある者と血圧の値によって、はっきり質的に区別でき得るものであり、その遺伝型式は、メンデルの法則にしたがう単一遺伝子によると考えられているものであり、他の一つは、血圧は人口集団の中に量的に連続分布をし、正常、異常を一つの限界をおいて、質的に区別することは不可能だとし、その遺伝型式も身長などと同様に、多因子によるものとするものであります。

人間の血圧は、生後上昇し、成人に達すると、血圧はほぼ安定します。その場合の若年者の血圧の分布は、正規分布とみてよいでありましょう。しかし、すでにわれわれが指摘したように、このような場合にも、東北地方の若年者は集団としてレベルが高いとか、又季節的に、夏は低く、冬は高い方へずれているのであります。

又20才前後の年令において、一時的にレベルの上昇、Skewness indexの増加が認められます。しかし、一番問題となりますのは、とくに最高血圧においていちじるしい成年以後の血圧のレベルの上昇、分布の型のくずれ、Skewness indexの増加をどう解釈するかということであります。

これまでこの点については色々な意見があるのでありますが、われわれの行いました集団的血圧測定による資料について、その血圧値の累積度数百分率を正規確率紙にえがいて検討してみますと、最高血圧については年令の増加と共に血圧値のレベルは上昇するが、30歳代をすぎると、その型は次第にくずれ、標準偏差は大となり、Skewness indexは増加し、最低血圧については、各年令ともほぼ正規分布のまま年令増加と共に血圧値のレベルは上昇する変化を示していることがわかりました。さらに年令層を同一にして、各種対象ごとに観察した場合でも、血圧のレベルの低いものから高いものと、丁度年令の増加と共にみられた血圧の分布の型の変化が、対象ごとにみられました。そしてこれらの変化は年令別に、又対象別に連続しており、区別できるような二つの分布の峰を示さず、正常、高血圧、低血圧といった性質の異なるものの複合であるとは解釈できませんでした。

ところでこのような血圧の分布の型を考えるとき、その集団に属する個人の血圧値は、その場その場で偶然の値をもち、その偶然の値の集まりとして、集団全体の血圧値の分布の型がきまるのか、あるいは個人個人がその集団の中における自らの血圧値の位置をもっているのか、数回測定をくりかえしている集団の資料について、以上の点を検討しました。

個人の血圧値について、その集団内における位置づけをするために、その集団の血圧値の算術平均値と標準偏差を用いて、normal equivalent deviation(NED)正規当価偏差Y=(X−μ)/σを計算し、さらにBlissにならい、Y+5として、probitに換算して、その値をもって、その集団内のその個人の血圧値の位置づけを行なうことにしました。夏冬数回くりかえして測定した例についてみると、集団的に、その平均値は冬高く夏低いという変動をくりかえしており、又個人的にも、冬高く、夏低いという変動をくりかえしていますが、その個人のその集団の中においてしめる位置は一定の傾向があることがわかりました。すなわち血圧について、集団内でいつも高めな人、又いつも低めな人があることがわかりました。さらに数年間にわたる調査から、個人のしめる位置の変動もあることがわかりました。又その分散にも個人差のあることがわかりました。しかし個人の血圧値の動揺の程度は、連続していて、性質の違う集団にわけることはできませんでした。

7名の男子を約1カ月にわたって早朝基礎血圧を測定し続けた成績でも、その血圧のレベルがあること、その変動があること、その変動にも個人差のあることがわかりました。又日常生活者18名を毎日1定時1カ月にわたって測定した成績でもその変動に個人差のあることがわかりました。

すなわち、人口集団としてみた血圧の分布型は、個人に色々の要因が長年作用した結果、個人個人自らの位置をもち、又変動しながら、自らの多くの要因と社会共通の多くの要因につりあった状態としてのdyanamicな血圧値の集りであると解釈されました。

以上のべた血圧についての所見から考えられる血圧論をまとめて図示すると上のようになります。

Aという集団において、その集団において、その集団内のOABCDという個人は、自ら多くの要因と社会共通の多くの要因とつりあった状態として血圧値が測定され、その集まりとして、Aという人口集団の分布の型ができあがるというのであります。Aという人口集団とBという人口集団は、正規分布のまま、血圧のレベルが違いますが、これは若年者の血圧に地域差があるという例にあります。その両者に差をあたえている社会的の要因を考えなくてはなりません。同じAが高い方に又低い方にずれる場合もあり、たとえば季節変動のような場合でありますが、さらにBに血圧を高めて行く共通な要因のある場合にはその中のOHIJKは、それぞれH'I'J'K'と次第に変化してゆき、最高血圧については、血圧の分布の型がくずれてくるのではないかと思われます。

以前に東北地方農村に若年者高血圧者が多いことが注目され、これが主として遺伝的な、家系的な、関係において考察されましたが、われわれの見方をするならば、その若年性高血圧者を含む人口集団の血圧の分布が高い方にずれているのであって、他の人は正常であるが、その人だけ若年性高血圧者であるというケ−スとしての認識の仕方にはなりません。その集団全体に共通に影響力のある何かを考えなければなりません。すなわち、最高血圧が150ミリあるいは120ミリといっても、Aの集団とBの集団では150ミリ、120ミリのもつ意味は異なっていると思うのであります。

血圧値を評価するときは、まずその個人の属している集団の血圧値について、集団評価を行い、次いでその集団の中の個人の血圧値を変動のあるものとして、評価を行わなくてはなりません。

このように血圧値の評価は、集団評価と個人評価によって、その人口集団における共通な問題を明らかにし、公衆衛生学的研究方法と対策を与えると共に、また個人的な要因についての検討をも可能にする方法であろうと思われます。

またこの血圧についての考え方を普遍的に考えるならば、人間が必須にもつ性質についての、評価についての基本的な考え方と思われるのであります。

実際に東北地方の一農村におきまして、色々の疫学的研究から住民を高血圧状態にしていると考えられる社会共通の要因として、食塩過剰摂取をきたす食生活、寒さを直接受ける住生活などの生活改善を中心に展開した衛生教育を主に、血圧測定をくりかえした結果、住民全体の血圧水準の低下を認めることができました。

以上が日本医学会総会での発言である。

「多くの手がかり」が得られた段階での「考えられるのであります」とか「理解されるのであります」とこの発言に述べているように、これらの研究の成果は「疫学的研究」のうちの初期段階における「記述的」から「横断的」へ進んだ段階で、このあと海外研修へ出かけ国際的に資料を集めミネソタ大学でのセミナ−でそのまとめを発表して、さらに第6回世界心臓学会で発言の機会が与えられたことになった。そして弘前大学で停年を迎えるまで「追跡的」に研究を展開し、その成果を日本衛生学雑誌に投稿したのである。

学会での発表を「新聞は何を伝えてきたか」つづいて「記憶に残る図書雑誌」を書いて、あらためて論文を読む機会があったので、これを書いたのである。(2003.5.1)

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