病は世につれ 世は病につれ

1 「ばかもりや」の時代

 東京生まれの私が弘前に住むようになったのは昭和二十九年のことであった。

その頃弘前の「上土手」には「かくは」があった。今は「ハイロ−ザ」である。 

 その隣には農薬散布の機械を弘前へ始めて導入した町田商会があって、その筋向かいに「ばかもりや」の看板をあげた店があった。今「朝日パチンコ」の建物があるところである。

 電話局番のない頃であった。

「ばかもりや」の名前のように大盛りの中華そばが二杯五十円で食べられた。

 驚いたことに紙づつみに包んだ大きな「おにぎり」を置いて、中華そばのつゆを飲みながら食べていた。

 今から四十年前はそんな時代であった。

 驚くのがおかしいのかもしれない。

 もう少し時代をさかのぼるとこの青森では「けがつ」があり、食に困り、白い米を腹いっぱい食べられることが、皆の夢であったのではなかったか。

 青森といわず全国に「振り米」の時代があった。

 病人が亡くなりそうになったとき、枕元で白米をいれた竹筒を振って励ましたというのだ。以前四国へいった時「現物」をみたことがあった。

 青森の南部では戦時中お米が配給制になって「白米食」が一般化した。それで皆健康になったのであろうか。昔の「かでめし」の時代の方が栄養学上良かったのではなかったか。

津軽で言われていた「シビ・ガッチャキ」を西洋医学を学んで明治のはじめに「御所河原」へ赴任してきた増田亀六(きろく)先生がはじめて診療録にその病名を記載している。そしてその孫の桓一(かんいち)先生がそれが「白米の食べ過ぎ偏食による豊作型栄養失調」による「ビタミンB2欠乏症」ではないかと報告され、この病名は世界に知られるようになった。

 二十九年に弘前大学へ赴任してきたとき医学部を上げて取り組んでいた課題は「シビ・ガッチャキ症」の解明であった。子供から老人にみられた「口角炎」がすぐわかる症状であったので県下調査して回った。

 だから青森の人々の「食生活」には興味があったし、「ばかもりや」の風景は私にとって印象的であったのである。 

                      (あすなろ倶楽部,22,18,平成9年夏)

 

2 「酒は百薬の長」か

 

 昭和三十四年の夏、保健活動ということで学生と一緒に三戸町猿辺へ行ったとき、泊まった家の人がうまそうに酒をのんでいた。

 お酒「毎日一本」は「大きい」ほうの一本であった。

 清酒のほかに、濁酒としての「おほ」「にごり」「すまし」「どぶろく」「だく」といった言葉があることを知ったのもその頃であった。

 先日「クイズ日本人の質問」というNHKのテレビで、「酒は百薬の長」の出所は、という問題が出た。

 「一日一解」で勉強していたので四番目の「国の専売にするため」というのが正解とはすぐ分かった。

 正しくは中国王朝の一つ前漢の歴史書「漢書」の「食貨志第四下」に出てくる言葉である。

 天下をとった王莽(おうもう)の時代、「塩・酒・鉄」の取り扱いの中で「官に酒を作らせる」という考え方を取り上げるとき、「酒百藥之長」という言葉が出てくる。

 安定供給と同時に税金も入る考え方を採用したように読みとれる。

 大昔ギリシャでは「酒による人間の変化」を次のように観察している。

 1.健康になる。2.快活になる。3.開放的になる。4.眠気がおきる。5.わめいて他人をからかう。6.自己主張が強くなる。7.けんかをする。8.怒る。9.狂乱。そして最後は「死」である。

 今も昔も変わらない。

 しかし「酒は百薬の長」というこの言葉がよくも二千年続いてきたものと思う。

 もっともこの言葉が日本に入ってきたあと兼好法師は「徒然草」の中で「酒は百薬の長(ちやう)といへど、萬(よろず)の病は酒よりこそ起(おこ)れ」といっている。自らの経験か、見聞きしたことからか。 「百薬の長」というキャッチフレ−ズにどんな「科学的証拠」があるものかと思う。

 ギリシャの科学が「練金術者」たちの世界で展開される中、古くからあった「発酵」から「蒸留」へ、現在いうところの「化学」の基礎がつくられた。「酒」と「アルコ−ル」は同義語になる。アルコ−ルも「エチル・」「メチル・」と構造がちょっと違うだけで人間に対する作用が全く違うこと、人によってアルコ−ルを分解する「酵素」があるとかないとか、酒が心臓病に良いとか悪いとか「酒と健康」の問題解決は始まったばかりである。

                       (あすなろ倶楽部,23,18,平成9年秋)

 

3 「塩は調味料の大将だ」

 

 第2話「酒は百薬の長」の出所「漢書」「食貨志」には、その言葉の前に「鹽食肴之將」と書かれている。

 酒をのむときの肴(さかな)には塩がもっともすぐれたものである、といっている。

 昔中国では「塩」は「酒・鉄」とならんで、国造りに重要な物であった。

 ロ−マは一日にしてならずというが、塩の流通に干渉した。フランスでも塩税は最も憎まれ、フランス革命の一因にもなった。我が国でも塩はごく最近まで専売していた。

 ところが「塩と健康」に関しての檢討は、最近までほとんどなされぬままになっていた。

 とくに我が国では百年前のヨ−ロッパの学問を「間違って」輸入したと思われるふしがある。

 昭和三十四年日本医学会総会が開催された時、朝日新聞は「高血圧と塩は無関係」と報道している。

 丁度秋田県や青森県内の人々の脳卒中をなんとか予防する方法はないものかと研究をはじめていて、手がかりができた時であった。

 人々が小さいときから血圧が高くなり、中年になって「あだって」、「びしっとあだって」「どたっとあだって」亡くなるのは、どうも食生活のなかで「食塩」を摂り過ぎている為ではないかと考えはじめていた頃であったので、早速学会で反論した。

 写真は四十年前秋田の農村で撮った「みその樽」の風景だが、「みそ」そのものが悪いといったことはないのだが、食塩過剰摂取の一因と考えた。このスライドは三十年前世界をかけめぐった。

 日本ではまだ「塩は尿や汗にまじって毎日排泄されるので、一日十グラムは摂らなければ、生きていけないのである」と思っている方が多いのではないか。

 一九七五年になって「塩のない生活」(no salt culture)で人々が高血圧もなく元気でいることが科学的に実証された。

 食物に「人が塩少々加えなくても」「塩類のバランスがとれて」いることが分かった。 現在国際的には「日常食塩を五グラム程度以下」にする工夫をすることが推奨されている。

 そして今は「食塩のとりすぎは血圧に悪いのは常識」といわれるようになった。

 おまけに「食塩が胃ガンに関係している」とまでいわれるようになった。

 私は外国で「日本の塩の先生」といわれているそうだ。

 日常の食生活で世界一多量の食塩を摂って生き抜いてきた地域の人々についての研究から、世界共通の話題「ナトリウム」、また次回述べるりんごの「カリウム」について「一石」を投じたからである。

                       (あすなろ倶楽部,24,18,平成9年冬)

 

4 「りんごは健康に奉仕する」

 

 テレビの「笑点」という番組が青森で開催されたとき、「ご当地」ということで、「青森のりんごとかけて何ととく」という問題が出た。

 そのときの「歌丸師匠」の答えがよかったので記憶に残った。

 「その心は−青森のりんごとかけて−徒然草ととく−その心は−健康に奉仕する」と。

 第2話の「よろずの病は酒からおこる」と「徒然草」に書いた「兼好法師」と「健康奉仕」をかけた答えであった。

 「りんご」が「健康」をイメ−ジすることは、世界に共通のようである。

 「一日一個のりんごは医者を遠ざける」とは欧米で古くから云われている格言がある。

 私たちが青森や秋田の脳卒中予防の研究から、昭和三十三年に「りんごは高血圧を予防し、脳卒中を予防するのではないかと」と学会に発表した時、このニュ−スは世界に流れた。「古くから云われている格言があるが、日本のドクタ−・ササキの研究によって、その医学的根拠をもった」と報道された。

 研究について云えば、はじめは「手がかり」であったが、それから三十年医学部停年まで、「追跡的疫学研究」によって追求して、その成果を学会へ発表した。

 いろいろ考えられるのだが、私の組み立てた理論は「ナトリウムの摂りすぎは悪く、りんごのカリウムが予防に関連しているのではないか」ということである。

 この考え方は世界に「一石」を投げかけたことになったが、現在のところ、学問の大勢は肯定的である。

 古くから実証された下痢の治療だけでなく、貧血によく、離乳食として最適で、ビタミンCも実際にはかなりあり、繊維もあって便通を整え、生理機能の基本に関わる抗壊血病因子があり、りんごを毎日食べることは健康につながる科学的根拠を持つ知恵であると思うと、「りんごと健康」(第一出版)にまとめた。

 思うだけで、知識だけでは「健康」にはならない。しかし毎日実行することは容易なことではない。

 私は「歯の健康」については全くの手遅れであったので、丸かじりはできない。「りんごはジュ−ス」にして飲み、「これを飲めばゴルフ・ワンハ−フはできる」と医学雑誌に紹介した。ここに詳しくその処方を書く紙面はないが、図書館にある「解説・現代健康句」を読んで戴きたい。

                      (あすなろ倶楽部,25,18,平成10年春)

 

5 「たばこは吸わぬ」になった

 

 「酒」「食塩」「りんご」とくれば、「たばこ」について書かなくてはならない。

 日本婦人喫煙の草分けは豊臣秀吉の愛妾淀君と云われているが、1584年(天正12年)ポルトガル船によって日本に始めてたばこの葉が伝わっている。

 現在発見されている最古の喫煙図は、紀元前のマヤ文明の中で神官が喫煙している図である。

 植物としてのたばこは、南アメリカのボリビヤあたりに原産したと考えらているが、 1492年コロンブス一行が「香りの高い植物の乾いた葉っぱ」の贈り物を受けとって以来、ヨ−ロッパから世界中に広まった。「梅毒」のスピロヘ−タと一緒に。

 「たばこ」という言葉の由来には諸説あるが、世界に通用する言葉になった。

 たばこが伝わったイギリスではインドからコレラが入りはやり始めた頃で、それも「病気は空気が悪いからだ」と考えられていた。「コレラ菌」などが見つかるずっと前の話で、たばこの「医薬的効果」の方が一般には受け入れやすかった。そしてイギリスでは「乗馬」「トランプ」とならんで「スモ−キング」は「ステ−タス・シンボル」にまでなった。

 たばこは人の嗜好と結びついて、梅毒と同様に世界中にきわめて早いスピ−ドで伝わったが、しかし煙の香りの嫌いな権力者もいて「禁止令」などあるうちに、たばこを専売にして「国家収入」を増すことが考えられるようになった。わが国でも明治政府はたばこを専売にし日清・日露戦争の「軍事費」をまかなった。

 「たばこ」が健康を害する「悪い習慣」であると考えられるようになったのは、ごく最近の話である。

 最近まで出稼ぎの夫へ送るたばこも「村にお金が落ちるよう」に「たばこは村内で買いましょう」と宣伝されていた。

 今世紀に入るころ「肺ガン」の増加が死亡統計で注目されてきた。

 「癌」がなぜ出来るのかの研究、また「肺ガン」はと研究が進むうち、「疫学的研究」によって「喫煙」は「総死亡」も「癌死亡」も「心臓病死亡」まで高めるのではないかと推測されるようになった。1950年昭和25年の時点である。

 それから世界中ではじまった「追跡的疫学調査」(喫煙している人が、喫煙していない人が、将来どうなるのかどうか追跡する)が世界中で行われ、その結果が報報告されるようになった。

 1961年イギリス医師会は「喫煙と健康」の報告書を、1964年アメリカでは「喫煙と健康に関する報告書」を出した。30年前ミネソタ大学に滞在していた時、私はこの報告書作成にたずさわった一人の疫学の先生の話を聞くことができた。それ以後私は幸いにもたばこ喫煙の習慣を断ち切ることができた。

 1975年にWHO(世界保健機関)は「タバコの害とたたかう世界」を、79年には「喫煙流行の制圧」を、80年には「タバコか健康か、健康を選ぼう」へ変わり、88年4月7日「世界統一禁煙デ−」にし、「紀元2000年までにタバコ喫煙のない世の中へ」をスロ−ガンにして「タバコ病追放の政治戦略」を展開している。

 わが国では大蔵が力があるのか、「すいすぎに注意しましょう」どまりであるが、青森県生き生き県民健康運動推進の中では委員長として「タバコはやめる工夫を」にした。

0写真:東京・渋谷の「たばこと塩の博物館」入り口にある「バレンケ神殿の石板のレプリカ」

                      (あすなろ倶楽部,26,5,平成10年夏)

 

6 昔「梅毒」今「エイズ」

 

 「梅毒」は「たばこ」と共にコロンブス一行によってヨ−ロッパへもたらされ世界に広まったという説が有力である。

 「梅毒」は、性生活と結びついていたから、人から人へ、人の移動と共に、何だか分からない病気が広がっていった。

 1530年にフラカストロがこの病気は「人から人に抱かれて伝染する」と「詩」を書いた。その詩の主人公の名前「シフィリス」が、後に「梅毒」の学名にのこった。

 今世紀になってからようやく病原体「スピロヘ−タ」が認められ、エ−ルリッヒ・秦の研究で「606号」の「サルバルサン」が創製され、梅毒治療が可能になり、「化学療法」への途が開かれた。

 それまではわけのわからないこの病気を相手のせいにし、なすりつけて「フランス病」「ナポリ病」「スペイン病」「ポルトガル病」日本では「広東瘡」「琉球瘡」といっていたが、「花柳病」「黴毒」今は「梅毒」といわれている。

 ついこの間まで、「親の因果が子にむくい」であったのが、「梅毒」も「淋病」も忘れられてしまった。

 今度は「エイズ」である。

 「エイズ」とは「後天性免疫不全症候群」の意味の英語の頭文字「AIDS」をとって「エイズ」であるが、フランスでは「SIDA」である。中国では「愛滋病」、台湾では「愛死病」という。さすが漢字の国である。

 1981年の最初の「エイズ」の報告例が男性の同性愛者で、ついで麻薬中毒患者そして血液製剤を用いた方に病気が認められてきた。この症候群といわれる病気の本体は1983年に分離された「ウイルス」によることが判明した。 そしてこの「ウイルス」は「人の免疫を不全」にする意味の「HIV」といわれるようになった。

 病原体としての「ウイルス」はようやく今世紀になってその本体が判明してきたもので、それまでの「細菌」とはちょっと違うものだ。

 そのうえ「免疫」のしくみも、ごく最近研究されているものである。

 「エイズ」はこの地球上に「HIV」のウイルスがあってそれに人が「感染」しておこる病気である。

 感染すると身体を病気から守る免疫の仕組みが破壊され抵抗力がなくなり、普通ではたいした病気でもないのに、死亡してしまう。まだ確実な治療法がないから、大問題でもあるし、「こわい」のである。現代は「地震 かみなり 火事 エイズ」である。

 ではどうしたらよいか。「エイズ」にたいして「正しい知識」をもつことである。そして「予防」である。今のところ「予防接種」はないから、体の抵抗力を普段高めておくために、「食事」「運動」を「合理的」に考え、毎日実行することである。

                      (あすなろ倶楽部,27, 5, 平成10年秋)

 

7 鳴いて血をはくほととぎす

 

 「結核」は昔「肺癆」(はいろう)と言われ、消耗病であった。「日暮れになるとビネツがでるのよ 知らず知らず痩せてくるのよ」であった。

 1882年にコッホが「結核菌」を発見してから、「伝染病」それも「慢性な伝染病」ということがはっきりした。主として肺に結節をつくり、血管がやぶれると「喀血」をする。

 明治維新の後、生糸産業によって日本は繁栄していったが、一方「女工哀史」によって若い人が結核におかされ、仕事にならぬと国に返され日本中に結核は広がっていった。

 小説「不如帰」の鳴いて血をはく「浪子さん」も結核で実家へ帰された。俳句をはじめたが「病牀六尺」で「へちま咲て たんのつまりし ほとけかな」と詠んだ正岡子規も、「荒城の月」を作曲した瀧廉太郎も、皆若くして結核で死んでいった。

 北里柴三郎先生がドイツから出来立ての「ツベルクリン」を日本に持ち帰ったとき、「結核の特効薬」という評判がたって、病院へ患者がさっとうしたと私の母が言っていた。

 「ツベルクリン」は「治療薬」ではなく「感染の有無」が調べられる「診断薬」である。「血沈」もまた「レントゲン」で胸の写真を撮ることも行われるようになった。

 私も学生時代、地域の人たちに「ツベルクリン」をやったりして農村を歩いた。今いう「保健活動」のはしりであった。

 「BCG」の講義を聞いたその足で信濃町から水道橋にあった「結核研究所」へ行って先輩から「BCG」を腕にうってもらった。当時まだ「乾燥」ではなく「水性」であった。

 そのおかげか、後に結核に感染したけれど、どうにか今日まで命を長らえることができた。戦争でも死なないで。

 「BCG」はフランスのパスト−ル研究所でカルメとゲランが牛の結核菌を何代もうえついで「人間には無害で、人の結核には免疫を与える菌(バチルス)」という講義であった。

 弘前市では戦前から、鳴海康仲先生、小野定男先生はじめ多くの先生方が「結核撲滅運動」を展開していた。康仲先生は狼の森に「保健館」を造り、日本の一流の先生方も来たりしてその方面の「メッカ」にもなり、テレビドラマ「いのち」の「ネタ」にもなった。

 私が行った秋田県西目村(今は町)でも結核の大家の岡治道先生が近くに疎開してきていていち早く「結核対策」を展開したため、県下一早く結核死亡は少なくなっていった。

 昭和26年になって「結核予防法」ができたあとは行政的に保健所を中心に「結核対策」は展開されるようになった。

 われわれは40年前まだどのようにしたらわからない「脳卒中の予防対策」への研究に入った。

弘前市内狼の森保健館での血圧測定風景(昭和33年1月)

                      (あすなろ倶楽部,28,5 平成10年冬)

 

8 「衛生」「厚生」そして今

 

 明治維新のあと、岩倉具視一行は欧米視察にでかけ、先進国では国が国民の健康の世話をしているということにも気が付いた。 

 中国伝来の「医」は行われていたが、国民の健康のための制度をつくり行政を行うために文部省の中に「局」をつくることになったとき、長与専斉は「衛生局」となずけ自ら「局長」になった。

 「風と荘子の庚桑楚篇(こうそうそへん)に衛生といえる言あるを憶ひつき、本書の意味とは較々異なれとも字面高雅にして呼声もあしからずとて、遂にこれを健康保護の事務に適用したりければ」と「松香私志」に書き残している。

 「医制を起草せし折り、原語を直訳して健康若くは保健なとの文字を用ひんとせしに露骨にして面白からす」ともいっている。

 「必ず邑(むら)に不学の戸なく 家に不幸の人なからしめん」と「学制」によって小学校・中学校を全国につくった明治の始めの頃の話である。

 前回書いたように日本人は結核におかされ、日本人の体は低下する一方で「壮丁検査」の結果はおもわしくなかった。「内務省」から「厚生省」が独立し、「体力局」をつくったりした。

 「厚生」の出所は書経左伝の「正徳利用厚生」からとった。その意味は「衣食を十分にして、空腹や寒さに困らないようにし、民の生活を豊かにすることである」と。

 全国に「保健所」をつくり、「結核対策」にのりだした。

 そして国をあげて「大東亜戦争」に突入していった。

 私が昭和18年に卒業した時に授与された医師免許証の厚生大臣の名前は「小泉親彦」である。

 日本が脱退した国際連合は1947年になって「Health」の大憲章をつくり、「WHO」(国際保健機関)として国際的には新しい時代に入っていた。そして1999年5月のWHOの総会では健康の定義に新しく「spiritual」と「dynamics」の二語を追加するという。日本語では何と訳されることになるか。

 戦後日本も新憲法のもとに新しい「Health」をとりいれ、「公衆衛生」とした。

 そして今また「健康」は「現代のキ−ワ−ド」と言われるようになった。

 今度の行政改革で、以前厚生省からわかれた環境庁は省としてのこり、厚生省は戦後できた労働省と一緒になって「労働福祉省」とか「厚生労働省」になるといわれているがその名前の由来は説明はされていない。

 以前「成人病の文化論的考察」を雑誌「厚生」(昭和60年)に書いたが、ここ40年来の成果によって「成人病」から「生活習慣病」へと言われる時代になった。働き盛りの人の脳卒中、また胃癌で死ぬ方は少なくなった。皆年をとってから死ぬようになり、老齢の人たちの問題が注目されるようになった。

 「21世紀へのメツセ−ジ」として「疫学による予防へ」を雑誌「公衆衛生」(平成8年)に書いた。 中国伝来の「易学」ではない。近代的疫学によってそれぞれの健康問題について、特にその「予防」をめざす時代になったのではないかと述べた。

 現在「おつりの おつりの またおつりの人生」を年金生活で送りながら、すこしは世の中のためになろうかと、78年を振り返り「病は世につれ 世は病につれ」8話を書いた。

                 (あすなろ倶楽部,29,  平成11年春) 

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