研究うらばなし

(昭和61年2月14日:退官記念講演:弘前大学医学部講堂)

 

 山口先生どうもありがとうございます。今日はたいへん出席がよいようで・・・この一言に実はいろいろな意味があるのでございまして、昭和29年に高橋英次先生の助教授でこちらに参りまして、医事法制という科目を講義するように言われまして、その時に学生が一人だったことがありました。その方にちゃんと講義をいたしたましたんですが、ついこの間聞きましたところによりますと、その時講義を聞いた方が、今もそのことを覚えておられるということで、私は大変感激をいたしました。

 もうひとつ、先だって専門3年生の最終試験の時に花束と感謝状を受けまして、一戸紀孝君作るところの大変な名文の感謝状を受けまして、大変嬉しく感激いたしました。ひとりでしまっておくのは大変おしいと思いますので、学友会誌と学園だよりにその全文を記録として、のっけていただこうかと思っています。私自身、教育ということについてはあまり熱心ではなかったという気がいたしますけれども、今日も教室の方に花束が届いておるということがございまして、大変感謝しております。

 時代は今や、ニッパチからサンパチという時代でございまして、大正10年、1921年生まれの私にとりましては、退官するのは、ごく当然であろうと思いますけれども、今日ここまで健康にやってこられましたのは、ひとえに皆様方のお力添えがあったからだということで、この場を借りて、また、今日のようなイベントを計画していただきました医学部長はじめ、皆さんに感謝したいと思います。

 今日は「研究のうらばなし」ということでお話ししようと思いますけれども、いったい何を今までやってきたのかということを考えてみたわけです。何年か前に生化学の檜山先生がこの場所で、自分はいささかの学問に貢献をしたということを、とつとつとおっしゃったんですけれども、その時私ここで聞いておりまして、自分が退官するときにそういうことが言えるのかどうかというふうに感じたわけでございます。

 研究の表通りというのは実はちょっとそこに出したんですが、衛生学教室業績集という、この第1巻は高橋英次先生が作られまして、私その後同じような形で2巻から、そして最後のところは近く第12巻までと、こうゆうふうに継続をいたしますと、いつか聞いた言葉に”継続は力なり”ということがあるんですが、実は、国会図書館からISSNと言いますが、国際標準逐次刊行物番号という、(0910-0377)という番号をくれるということになりまして、コンピュ−タ−に捕まったということでございます。おそらくこの中に、1ペ−ジもごらんになった方がいないじゃないかと思うんですが、いったい内容が何であったのかということを自分なりに考えてみますと、「血圧論から食塩文化論への展開」であったと、こうゆふうに私としてはまとめてみたいわけでございます。血圧論から食塩文化論への展開・・・方法論といたしましては「疫学的な展開」であったと思います。

 私がこちらに参りました時分はまだ、疫学という言葉はあまり一般的ではございませんで、衛生学的な展開であったといってもいいと思いますが、今は疫学的展開であるというふうに言ったほうがいいと思います。

 テ−マといたしまして、先ほど山口医学部長からご紹介がありましたように、この辺に多い脳血管疾患「あたった」という、しかし、私は東京育ちなものですから、「た」と「だ」の非常に微妙な津軽弁は発音できませんで、初めは「た」と書いたんです・・・「あたった」と書いたんですが、また横文字でも「ATARI」「あたり」と書いたんですが、最近は若干津軽弁になりまして「た」に濁点をうつようになりました。そして「だ」と濁点をうちましたら、地元出身のある先生が大変安心したといわれました。

 今月の初め、2月2日に東京におりまして、ホテルでテレビをひねってみましたら、NHKで「いのち」という番組を放映しておりました。その中で主人公たちがこれからの医学に自分は貢献したいということをしゃべっておりました。何気なく聞きのがされた方も多いかと思いますが、私自身はちょっとひっかったところがございました。それは何かと申しますと、東北には結核が多い、それから高血圧が多いという話でした。

 結核が多いという話は私は良くわかる。あるいは子供が非常にたくさん死んでいるという乳児死亡率が高い、あるいはシビ・ガッチャキがあるという。これならわかるんですが、あるいは「あだった」という脳卒中が多かったというならわかるんですが、高血圧が多いというというのは、橋田寿賀子さんが書くなかに現在の常識から書いたのではないかと思うんですが、この地域の高血圧が多いか少ないか、実は全く分からなかった時代でございます。高血圧が多いということは、私は言えなかったと・・・そういうことを感じました。

 疫学のなかで死亡統計・・後でスライドで出てきますけれども、死亡統計を整理し計算をし、そして診療所にくる患者さんだけでなくて、地域の人々のなかで半身不随で寝ている方を家庭訪問し、さらには血圧とどうも関係がありそうだということもありまして、血圧計を持って歩いたというところから出発したわけであります。

 先だって日本民族衛生学会をやりました時、「人々と生活と」という写真集を記念に作ったのでありますが、その最後の1枚はという・・・この次にスライドが出てまいりますけれど・・これからスライドにいきたいと思います。

 何枚かの写真をのっけてまして一番最後のスライドなんですが、「最後の1枚は、人および人々の健康問題へ接近していった疫学の原点としての意味を持つ。昭和30年、秋田市の田舎の八田部落から下浜村へ入る所である。血圧計をリヤカ−に乗せて歩いた。そこに住んでいる人々の血圧がどうであるか、そして生活の様子はどうであろうか。それから30年あっという間に過ぎていった」と、こう書いたわけであります。

 疫学の原点という意味は、医学のいろいろなアプロ−チがあるなかで、患者さんがそこにあり、そして診療所にくる、そして医師がその人のために医療行為をすると、いうことできたわけですけれども、一般に生活している人の中にはほとんど入っていなかったわけでございますが、それに入っていったということを言いたいことと、もうひとつはそれは衛生学の講義はコス島から始まるというところでいくんですが、ヒポクラテス以来いろいろな人の生活をみるという、そこに考えをめぐらせたい、ということがあるわけであります。

 さて、疫学には方法論というのが大変大事なわけでして、これは合成したスライドなんですが、コロトコフという人がどういう顔をしていたのかと、いうことでこれはこの間イギリスから来た雑誌にあったのであります。ロシア語で論文というのがなかなか見つかりませんで、20年前にアメリカに行った時、あるいはモスクワに行った時も探してみたのですが、あるいはソ連の大使館へも連絡したんですが、ちょっと手にはいらなかったのですが、実はここの弘前大学医学部の図書館にありました。ちょうど私が20年前にアメリカに行っていた、ちょうどその時に入荷した本にあったというだけの話でございました。私はロシア語が読めませんから、現在教育学部の教授をしておられる福士襄先生に訳してもらったりしたことがありました。

 血圧というものが1905年、明治38年に大きな変革をしたという、これを現在今でも我々はひきついでいるうわけでありますが、一足飛びに20年前のアメリカへ参りまして、シカゴのノ−スウエスタンの大学で自動血圧計といいましょうか、血圧のobjective recordingという会がありました。面白かったのはBlood Pressure Meetingという小さな張り紙だけでありまして、大きな看板は立っていなかったのでありますが・・・この中に入りまして、40-50人おりましたか、その時の出席のメンバ−に私の名前も残りました、第1回の会でありました。

 これは後でちょっとでてきますけれど、ジャマイカにいたDr.マイアル、それからミシガンにいたエプスタインで今スイスにおりますけれど、ちょっと細かくておわかりにくいと思いますが、実は現在も国際的な研究でゼロマドラ−という、そういう機械があるのですが、イギリス的アイデイアだと思いますが、要するに、水銀柱のゼロ点を後側で適当に変えまして、我々が読んだ値を後でその値で補正するという、大変イギリス的な考え方です。なぜかと申しますと、ちょうど私が研究を始めました時に、これは現在も続いている問題ですが、高血圧がdisease entity として分離しているか、あるいは血圧値というのは連続しているのかという論議がありました。その中に医師というそれを測る人のバイアスがかかるというそういう問題がひっかかっておりまして、それをイギリス的にこういう器具でバイアスを除こうという話でありました。

 もうひとつ、ちょうど20年前ですけども、NASAが宇宙船を飛ばして人間を飛ばそうと、その血圧をどうやって地上にキャッチしたらいいかという方法が検討されていました。こういう所、指のところでやるのがいいか悪いかいろいろ文句をつけたんですけども・・・そういう時代でありました。ま、何十台か客観的な血圧測定器が展示されていろいろヂスカッションをいたしました。

 ひとつお見せするのは、つい先週ですがウルトラアイで24時間連続血圧測定という機械が出ておりまして、山川アナウンサ−が世界で初めてということを2回も3回も言ったような気がするんですが、実は20年前にカルフォルニアのDr.ケインという人が同じようなことをやっておりまして、その時はテ−プレコ−ダ−を日本に買いに来たと言っておりました。そして分析するコンピュ−タ−が当時のお金で500万もするということで我々はああとてもとてもと思って帰って来たわけであります。

 もうひとつ、ちょっとエピソ−ド的に面白かったのは、論文がCirculationに1964年に出ておりますけれど、モデルさんを使って出ております。ところが学会上でスライドでやったのは同じモデルさんのヌ−ドでありまして、ヌ−ドのモデルさんがこの血圧計を下げていたというのは学会の参加の皆さんをワ−とわかせた場面を今記憶しております。

 さてそのあと、一足飛びに弘前大学へくるのでありますが、帰国の途中で私はロンドンに寄りました。Dr.ロ−ズに会いまして、このLondon School of Hygieneの機械を見たという話、そのへんは「衛生の旅」の第1巻のロンドンの名所の中に出ておりますけれど、なぜ血圧のobjective recordingということを考えたかといいますと、当時の欧米あるいは日本で再検討された聴診法による測定法を自分なりに勉強して、そして何万人の血圧を自分で測って、そのデ−タをアメリカへ持って行ったところが信用されないわけです。当時の日本の診断といいますか、脳卒中が多いこととか、あるいは血圧が高いとか、余りのも高すぎたということもありました。冬になったら血圧が上がったということもありました。信用されなかったのでありまして、何とかこれを有無を言わさず信用させる方法はないかということで、objective recordingの模索をしていたんです。そしてロンドンによりまして、ロ−ズからテ−プをもらってきて、そして我々の実習に取り入れたんです。

 現在ここ10年くらいに卒業された方はご承知のように、デ−タ−レコダ−に血管音を入れてオッシログラフで見たりあるいは電磁オッシログラフの上で見たりすることをは覚えておられると思いますけれども。ま、そういうことで現在われわれの教室ではここ10年くらいは聴診法は使いませんで、objectiveにデ−タを集めて、そして3歳児とかもっと若い子とか、そういうデ−タを何千名か主に、講師の仁平將先生がやっていますけれども、それをこれから追っかけていくという、言葉としては後で出てきますけれども、trackingというふうな問題を証明したいなあ・・・というふうなことでありますけれども。

 もうひとつ電磁オシログラフに出る特徴・・ま、セラミックのマイクロホンを使うのでこういうふうに出るというわけのようですけれども、客観的な最高血圧・最低血圧の波形上の特徴について一つ提案をしたのであります。細かいことはちょっと省略いたしますけれども、最高血圧そして最低血圧と、そしてそれを目で見ることは皆さんも実習でやったわけなのですが、このことを実は1978年の世界心臓学会、東京であったときに、私と蓮沼正明助教授の名前でだしました。

 それから時代を経るわけでありますけれど、今WHOでCARDIAC Studyというのが進みつつありまして、そのなかの目玉商品になっているわけですけども、ついこの間まで高血圧学会の会長をやっていたオ−ストラリアのDr.ドイルそれからニュ−ジ−ランドのシンプソンそして私ですが、彼らに対して新しい器械を展示いたしまして島根で会があったんですけど、映画にもじりましてその時だした器械は「006」というのをだしまして、将来007が出たらよろしいということを喋ったのであります。彼らによってDr.佐々木が報告したということを記録の中にとどめてくれたんですけども、ごく最近のものは・・・ただこれも007まではいかないんですが、006.5位なんですが、今この器械がWHOのCARDIAC Studyの中で測定し記録し表示するんですけれども。

 それを今、助手の三上聖治先生がコンピュ−タ−で盛んに分析をして、最高・最低血圧というものを先ほどの電磁オシログラフで出た所ヲコンピュ−タ−で出すと・・・こうなります。おそらくどなたでも納得できるのではないかということで、こういうアイデイヤを今年の9月に開かれるんですが、ワシントンでの第10回世界心臓学会に出そうかと思ってこの間抄録を送りました。ひとつ、ここのところで私は弘前の名前を残しておきたいということで、普通は「Automated blood pressure measurement system」とこういうんですが、「Hirosaki blood pressure measurement system」というふうにしました。会費として7万円位の大金を払いまして、ドルがまだ220円の頃送ったので今ならもうすこしよかったと思うんですが・・・抄録には多分載るだろうと、発表する機会があるかどうかまだわかりませんけど、大事なことは一応書いておきました。そいうことで血圧を客観的に記録し、表示するという方法はおそらく世界の趨勢であろうと思っております。

 さて、このスライドは私が助教授でまいりましたとき高橋英次先生と成田尹君と今もおる柴垣和子さんと南黒の医師会長をやっている伊藤弘先生と、シャッタ−を押したのは武田壌寿先生だと思いますが、これが昔の図書館であります。この時代はいったいどういう時代であったかというと・・・私の教授室がここ2階にありまして、細菌の実験室がありまして、法医があって解剖があったと。それで私の教授室がこれでございまして、ゴウゴウと音をたててスト−ブを焚くという時代でありました。

 その時に厚生の指標の第1巻に図が出ておりました。WHOで脳卒中の統計をとり始めまして、46歳から64歳というような、これを現在厚生省流にいえば実年にあたるところでありますが、飛び抜けて日本の死亡率が高い。1950年、昭和25年、それまでにご承知のように、脳溢血という総合研究が行われて、私が習いました西野忠次郎先生を班長として大勢の方々、衛生のほうでは近藤正二先生とか病理のほうでは松岡茂先生とかいろいろな先生がタッチしておられました。その時に手に入れたのがガリ版の年齢階級別主要死因別死亡率の表。これでも大変大事な資料でございますが、我々が初めて手に入れることができたものであります。その内容は、今は脳卒中と書きますが中枢神経系の血管損傷といっておりました。一番問題になりましたのは年齢別に見ると加齢による死亡率の曲線が違うということであります。死亡率の検討といのは訂正死亡率とかあるいはこのごろはやっているSMRとかいろいろありますが、武田先生の論文にありましたけれど、中年期脳卒中死亡率、30-59歳のところの死亡率を計算するということで、非常に地域差がある。一言で申しますと量的な指標から質的な指標にしたという特徴があります。

 その死亡率の検討だけでなくて、半身不随者の調査とか、それはまたリハビリにつながるわけでありますへれども、主としてやりましたのは血圧でありました。記録にカ−ドを作ったわけですけれども、パンチしてソ−トするというふうな当時としては一番新式のメソ−ドでごいざいましてけれど、こういうことでやりました。今はこれらが全部コンピュ−タ−にはいって、昔測った血圧は何枚かのフロピイ−デイスクにはいって、一番最後にお話しますけれどもこれからまたやりたいなと思っているのです。

 血圧論という話が出ました。37年の7月に高血圧ふるいわけ検診についての問題点、要するに健康な人と病気の人を分ける、あるいはスクリ−ニング・ラインをおく、と国家試験にでそうな問題なのですが、そういうscreeningということが昭和30年の中頃から日本中に入ってまいりました。ところが血圧についてはどうもそうはいかない。そこで私なりに模型図を考えたのが血圧論の原点であります。弘前医学に出しました。どういうことかと言いますと、個人別に何か位置づけがあるんじゃないかという考え方。そして環境にはいろいろなファクタ−があるんじゃないか、そしてその中のあるファクタ−が影響すれば位置づけを持ちながら左へスキユウしていくんじゃないか。現在血圧分布に歪みがあるというのはそのためではないかと。一言でいえばそういうことになるんであります。

 疫学は集団的な方から入るものですから、こういうことを申しました。問題はどういうことかというとそういうファクタ−の中に、これは結局生活の中にあるという見方ですがそういう生活がちっとも変わらなければどうなるかというと・・・「そのためには血圧についてはふるいわけの線を置いてケ−スを分けるやりかたは個人的なケ−スをケ−スとしてのみ認識するにとどまることなく、人口集団におけるケ−スの起こり方を見ていくという疫学本来の考え方に利用することが極めて大切なことと考える。

 例えば、一定の線を置いて計算される高血圧者出現率といった数値の相違は脳卒中による死亡率の相違と同様にその背景にある人口集団全体の問題として把握されなければならないと思うのである。今ここに述べられたことは過去から現在までに作り上げられた疾病観ないし健康観の将来への発展・橋渡しとしての思想に関する重要な問題と思われ、現在問題となっているCommunity Diagnosisや健康の指標の概念に通じるものである」ま、こういうちょっとなんていううんでしょうか、思い上がったと申しましうか、そいう考え方をちょっと述べたことがありました。

 もう一つはナトリウム・カリウムの問題がありました。これは昭和31年まだ助教授時代だったんですが、おしっこを採ってきて、そして炎光分析をやれる器械があったんです。臨床とか検査室でようやくやれるようになった器械をいち早くフィ−ルドに利用したということで、最初にちょっと手をかけることになるんですが、その結果ナトリウムとカリウムの摂取の理論ということについての文献をあらいざらい勉強したというわけであります。

 そうしますと食生活のなかの味噌がうかんでくるということで、このスライドは秋田県のある農家の大変裕福な家にある立派な味噌の樽でありましたけれども、このスライドは2年前に世界中をまわったスライドですが、「ミソス−プ」ということが大変注目されたのであります。もちろん、もうひとつはこれらは自家製の味噌なんですけれど、ようやく日本中の市販といいましょうか、工場で作った・・・工業の中で作った味噌が市販されるようになりまして、農林省主催の第1回の品評会が行われたという小さい囲み記事を見まして、さっそく手紙をだして、その分析値をいただいたのです。その食塩濃度と例えば脳卒中死亡率と良く相関するとかあるいは東北地方では非常に食塩濃度が高いとか関西のほうは低いとか、何かそこに疫学上の手がかりがあるかと。そういうことであります。もちろんその他に食生活のパタ−ン、朝昼晩みそ汁をのむというふうなパタ−ンの相違もありましたがけれども、いろいろ問題がありまして、農林省の海老名英雄さんから返事をいただきましたが、われわれの分析結果が医学の方面で利用されるとは全く想像もしていなかったと。現在この方は財団法人の中央味噌研究所の所長さんをやっておられるわけですが、当時の考え方として、日本の味噌を無塩化することは全く不可能だというふうにいっておられましたけれども、最近はまたいろいろ技術的変化があるだろうと思っています。

 もう一つ「衛生の旅」にちょっとご紹介しましたド−ル先生との出会いがありました。残念ながらお亡くなりになりまして、この次の日本医事新報に出す随筆には「ド−ル先生その後」というのを書こうと思っておりますがけれども、この時のお嬢さんも大きくなったでしょう。20年前のスライドでありますが、ニュ−ヨ−クのそばの研究所におられた。そしてそういう研究なさる方にどんどん手紙を出す。返事に、I receive your letter of 20th of January, 1955年ですが、自分は専ら塩のことをやっていたと、今後も連絡をとりたいということでした。現在アメリカで食塩の問題がいろいろ論議される一番中心になる仕事をやられた先生ではないかと思います。そういう出会いがありました。

 その先生は1960年に実はここに書いてあるのですが、高橋英次先生とHuman Biology に1957年に出した論文を引用されたわけで、そしてド−ル先生が実際に広島のABCCにこられて測った数値、そして我々の数値、そしてこの次に出てくる福田篤郎先生の数値、そしてこの図はこれは中年期脳卒中死亡率ということでHuman Biologyに出したもの、この論文は大変国際的に影響を持ったと思っております。その先生が1960年にInternational symposium に発表されてそれ以来日本の脳卒中死亡率あるいは食塩摂取の状況が国際的にしられるようになったんじゃないかと思います。脳卒中死亡率や血圧の地域差を説明する中に大変食塩が説明しやすい要因だということでよく引用されるということになるんでありますが、その当時はどういう状況かと申しますと日本医学会総会で千葉の福田先生が高血圧と食塩は無関係であると、これは朝日新聞の記事ですけれども、こういうことが大体一般的な風潮でございました。

 外国の論文でもほとんど食塩の疾病論的意義というものを認めていなかったというふうに思っております。福田先生は昔から副腎ホルモンを研究されていた千葉の生理学の教授なんでございまして尊敬する先生でございますが、見方が生理学的な見方ということで私は衛生学的な見方ということで、若い教授になりたてのころあまり恐ろしさも知りませんで、「脳卒中頻度の地方差と食習慣食塩過剰摂取説の批判の批判」という題なんですが、こういう論文を日本医事新報に出しました。相関と因果関係は別物だという回答が福田先生から出ておりましたけれど、食塩の疾病論的意義ということを論じたことがありました。

 さて、その福田先生が昭和40年ですが・・・前略、ことたびは貴重なご研究、後で出てまいりますけれど、Relatinship of the salt intake to hypertension in the Japaneseというこの次に出てきます論文の別刷りを差し上げた時のお礼でございます。一昨年アメリカのDr.L.K.ド−ル博士を訪ねたました。ド−ル博士の研究室には千葉の方々と一緒に写真を撮った写真があったのでございます。ご承知と思いますが塩で血圧の上がるネズミと上がらないネズミの研究を見てきました。昭和40年、ちょうどこのころというものは世界をあげていわゆるgenetic factorにアプロ−チする時代でございまして、日本ではSHRというふうな物が京大の岡本先生・青木先生によって出た。なぜ高血圧のほうだけやるのかということを青木先生に質問したことがありますが、予算がなかったから高い方だけやったという話でしたけれども、ド−ル先生はRとSと両方やりました。大変大事な仕事だと思いますけれども、現在も話題になっている仕事でございます。臨床的にはこのごろ食塩には敏感な人とか鈍感か抵抗があるという言葉で随分話題になっているテ−マだと思います。

 Japanese Heart Journalというのが創刊されまして、その第1巻に論文を書けという編集者からの依頼がありまして書いたんでございます。誰が推薦されたかちょっとわからない。上田英雄先生が編集長の時代です。この論文が1962年に出まして、この中で一般的な死亡率の問題あるいは東北地方の住民の血圧の問題、そしてapple producing region というりんごを生産している青森における死亡率とか血圧の状況というものが若干低いということ、comparatively lowとか、そのことは、suggesting果実という形でポタシウムを沢山とることは、ポタシウムを余計加えることがネズミで良い作用をもつことを人間にあてはめることができる証拠であるとか、何か影響するんじゃないかという一石を投じた論文だということになります。

 ちょうど日本で熊本で衛生学会がひらかれまして、初めて高血圧の疫学についてのシンポシウムが開かれた時呼ばれて喋ったのが全国版にのりましてまた国際的にもでましたもんですから、そこでりんごと血圧という問題がテ−マになったわけでございます。

 方法論的に言いますとこれは疫学の中の死亡率の分析あるいはcross sectionalな血圧の分析、そしてそれを食生活との関係で見ていく、それからもうひとつ、りんごを実際に秋田の方へ運んで10日ぐらいにわたって食べていただいた仕事、これは実験的疫学研究といいましようか、そういうことをやった研究の結果、どうも関係がありそうだと、たまたまナトリウムとカリウムの問題とからめて意見を述べたというのがJapanese Heart Journalに出たたわけであります。

 カリウム問題というのは今いろいろテ−マになっているんですが、研究論文で一番私の目を引いたのは、Dr.メネリ−という先生ので、これも「衛生の旅」の中にのっけておりまして、今はもリタイヤされていますが、今度アメリカに行くときに来て講義をしてくれないかという依頼をうけているんですが、ちょうど塩類の排泄のいろいろの薬剤が1950年代に出てくるわけでございますが、その時に慢性食塩中毒の実験をされた。その時にカリウムをある程度与えると慢性食塩中毒に関しての保護作用があるということを最初に言い出された先生で、そういう先生の総説の中にわれわれのやった仕事が引用されている。Sodiumが多いんだけれどAlso eating a high level of potassium in the form of fruitここではりんごですけれども。This is evidence to suggest that the beneficial effect of extra potassium in the diet of the salt eating rat applies to the human as well. 動物実験では証明されているんでありますけれども人間にあてはめた仕事ということで私達がやったのが初めてじゃないかと言うことですけれども、こういうふうにReviewの中で引用していただいております。

 さて、食塩のことでちょっと歴史的に見ますと教科書的に1904年にランバ−ド、プシャ−とかですね、あるいは1944年のケンプナ−の食餌療法ライスダイエットとか、そしてここに私達の前の近藤先生、この時には衛生学的なstudyと書いてありまして、たくさんご飯を食べることが食塩が関係あるかもしれないことを言っております。1950年にサピルスタインという人が食塩だけで高血圧を起こすという、昭和25年です。その時に千葉の福田先生のところの奥津国福という先生が食塩だけで高血圧を起こしたという論文を発表しております。仙台の内科の中沢房吉先生が特別講演されておりまして、自分はデ−タを持っていないんだけれどもどうも食塩が関係がありそうだろいうことを述べております。それで1952年メネリ−という先生がここで慢性食塩中毒というのをやっております。その次にド−ル先生がある作業仮設Working Hypothesisを1954年に出しております。そして千葉の福田先生は秋田県で仕事をされまして食塩が関係がありそうだと・・・食塩を測っておられるんですけどクロ−ルから始めて食塩排泄量1人1日当たり26.3gを測っているんですが、どうも両者の関係はpopulationの中では証明しにくい・・・どうも関係がなさそうだとおっしゃったのであります。それに対して味噌の問題とかあるいは尿のナトリウム・カリウムの問題とかあるいは死亡率の問題とか血圧とかやりましてそして57年に高橋先生とHuman Biologyに出したというふうな歴史的な背景があります。

 さて、その次ぎに関係がありましたのはアンセル・キ−ス先生です。心臓血管系疫学ではFremingham heart studyが一般的には大変有名ですが、キ−ス先生というのは日本を含めて7ケ国Seven country studyというのをやられましたし、結論的には脂肪の摂取が動脈硬化性心疾患に関係がありそうだという仕事になっていくのでありますが、この先生から私はある時に手紙を受け取りました。私の仕事をちょっと見てくれていたらしいんです。ところが非常におもしろいことには私は岩手大学の公衆衛生にいることになっているのでありまて、なぜ私が岩手県の盛岡にある岩手大学の公衆衛生の教授なのかということは今もって不思議なのでございますが、大変歴史的には面白い手紙ではないかということでご紹介するわけでございます。文部省の在外研究ということでどっか場所を指定しませんと当時は出してくれないもんですから、キ−ス先生のミネソタですけども行こうということで、そしてヨ−ロッパのほうにも行ってみたいということで、たまたま先生の研究室がイタリヤにもあったので、その分室にも訪問するということを文部省に出して、アメリカとヨ−ロッパへまわれるような旅行の計画にして許可をいただいて1年間行って来たんです。イタリヤに行った時にはもうその分室はなくなっておりまして、ここにあったかなということでみたわけでございまして、あとはいろいろなところを歩いてきたということであります。

 ところがこのキ−ス先生のところは実は心臓血管系の問題に関しては大変な場所でございまして、現在アメリカを牛耳っている連中とかあるいはWHOの連中とかいろんな先生方が入れ替わり立ちかわりいた所でございます。そこにいた関係もあって私はその後いろいろな人脈に恵まれたということを今考えるわけであります。

 66年の2月の23日にミネソタ大学でセミナ−をやりました。回覧が学内に全部流れます。それでほんの小さな部屋だったんですけれども日本の脳血管疾患と高血圧を約2時間しゃべりましたけれど。学内でこういう通知をだしてやりますと当時ハ−バ−ドからミネソタの内科の教授へきましたトビアンさんといのが聞きにきました。それで私の前のHuman Biologyに出したのを読んでナトリウムとかカリウムとか。ご承知のように彼は当時やっていた血管の中のミネラルに対して関心をもっていた人でしたから私の仕事にも大変関心をもって、ま、私の耳が聞き違えたのかどうかわかりませんけれども、この論文の中のダイヤモンドのような仕事であるというようなことをちらっと聞いた気がいたしました。

 この時に黒板に模型図を書きました。私がアメリカに1年いた時は全く雑事を離れまして図書館をフルに利用いたしました。世界中のとにかくPopulation surveyあるいは食塩のデ−タ全部あらいざらい整理して次ぎに示しする図にいたしました。

 これはGlobal epidemiology というごく最近でもよく出てまいりまして、Globalに見ていくという見方であります。これは模型図でありまして私のWorking Hypothesisと言っておりますけれども、これが血圧の平均値で分布である。当時ブラジルとかニュ−ギニヤとかあるいはオ−ストラリヤのアボリジンとかエスキモ−とか太平洋の島々そしてイギリス・アメリカそして日本の関西から東北にかけて、台湾がここにあり、バハマ島があり西インド諸島がある。こういう所で食塩と1日に摂る食塩のレベルと、ここはno table saltでございます。

 実はこの後に1975年そして1981年にヤノマモ・インデイヤンあるいはヤノママ・インデイヤンといわれているno salt culture というのがここに出てくるのでありますが、もうひとつ括弧にしましたけれどもカリウムとナトリウムとの比ということであるいは関係しているかもしれないということをセミナ−で述べたわけであります。

 このことを1974年だったと思いますが東京でWHOの会があったとき、たまたまWHOのメデイカルオフィサ−のDr.ストラサ−という、これはミネソタで私が行った時に泊まる場所がなかったものだからストラサ−のアパ−トに転げこんで何日か床の掃除をしながら一緒に飯を食った男がユ−ゴから助教授で来ていたんです。それからWHOのメデイカルオフィサ−になったんで、その人と一緒になったので、是非この図をつけたということで、ここに小さいんですけれどWHOの版権が・・・あそこは本に載る時はこいうものをちゃんと張り付けてくれるんですけども。WHOの本に載ったというふうなことであります。これは大した図ではないと思うんですが、私なりにこのへんの血圧の分布が広がってくるというところに血圧論的な理解を示したわけであります。

 1970年にロンドンで世界心臓学会があったときに、クイ−ンエジザベスホ−ルであったんですけども、これが開会式でこれがシンボルマ−クですけれど第6回、ちょっと自分としてはオリンピックに出たような、これは高血圧のCausative factors on hypertensionでさっきちょっと出てきましたドクタ−・・ジャマイカから来た、イギリスの方の系統の人ですけれども、Dr.マイアルが司会をやりました。あるいはラングフォ−ドとかプライオとかいろんな方で私がここにいるのですが、ちょうど自分としてはオリンピックの100mの決勝戦に残ったような感じでした。

 その時に食塩ということをしゃべったんです。他の方は肥満であるとか脂肪ということをしゃべたんであります。ところがその時に、ミネソタの研究室宛の私に案内がきたんですけれども、もうその時には弘前に帰って来ておった。ただ始めてのInvitationのLetterはミネソタ大気付けになっておりました。私が向こうにいるかなということできていました。

 これは学会の時に友達が撮ってくれたんですけどもこの図が大変わかりやすい図というふうなことです。いつかここ弘前にも来ましたキャネルがある本に引用していたんでありますが、第6回の世界心臓学会にプレゼントしたところreproducedしたと書いてありますが、大変おもしろいと思ったのはwith permissionと書いてある。私、permissionを与えた記憶はないんですけれど、どこでどうこのスライドを手にいれたかのか何人かに配りましたんです。ただこいうのを雑誌に書かないとむこうはうるさいんじゃないかということでうっかり書いた・・・日本人だから書いたかもしれません。これは英語の論文です。要するにブラジル地方の人は年齢別に血圧が上がらない、これはフィ−ジ−とかですね、それから日本の大阪とか、そしてさっきのバハマ島の連中とか、そして東北の人とか、そして食塩が数グラムから20グラムと日本医事新報にだしたんですが、これは大変わかりやすい図ということでよく引用されるのでありますが、日本語の方で引用されているんですけれど、ひとつ気を付けなきゃなないのは。ここの所に私は原住民と書いたはずなのですが、原始人と書いてあるんです。私がタイプを1回ミスプリントしたんですね。そのミスプリントをしたのをず−と孫引きして写す人がおりまして、一般の通俗的な雑誌によく引用されるんです。それはちょっとつまらないエピソ−ドですが。こういう・・・この線は平均値ですね。血圧平均値のまわりに分布がありうということを頭におかなければならないということですね。ただ非常にわかりやすいものだからこれがよく出てくるということであります。

 さて1970年にしゃべりまし、その後どんどん同じような成績が出てきました。例えば一番下の方はこれはヤノマモインデイアンでありまして、そしてちょっと細かいですけれど同じ人間であったですね、非常に違うと、これは今度は南江堂から出ました、総合衛生公衆衛生学の改訂版にこの図はのっけておきました。

 さて、ロンドンに最初に20年前にまいりましてテムス川、そしてThe Towerがありました。そこにはCrown Jewelsがあります。私も観光ル−トにのりましてここを見にいったんであります。ところが一番上の方にSalt sellarと書いてありましたけれども、塩の入れ物がありました。ちょうど大きさは20-30cm位ですけども。これは中世のある町の人が王様に送った塩の入れ物でございまして、その後3回ばかり行きましたけれども、下の方に王様が使ったソルトスプ−ンが、ゴ−ルドのスプ−ンがありまして、これを見ました時に私はここに塩の文化というものを感じたわけであります。

 いったい塩がいつ頃どういうふうな形で作られ、そしてわれわれの生活にどういうふうに入ってきたかということで、英語の辞書を引いてわかりますが、above the saltという言葉とbelow the saltという言葉があります。上席・末席を示す言葉でありますが、こういうものがテ−ブルの真ん中に置かれていたという歴史的な背景を見ればこの言葉がわかるというふうな気がいたします。そいうことから塩が地球上でどういうふうみ作られ、そして人間がどういうふうに食生活に取り入れたかという、それは塩の道がございますけれども、そこに文化を感じました。

 なぜ塩がわれわれの生活に入ってきたかという中には、ひとつの考え方としては貯蔵・塩蔵ということがあったと思います。実は昭和40年に科学技術庁の専門委員をしておりました時に、塩蔵から冷蔵へ食品の流通体系を切り替えるといCold chainということを勧告したことがあります。それ以来、皆さんは知らないと思いますけれども、知らない間に日本の食生活が冷蔵になって、そして日本の末端までミルクが摂られるようになり、また塩蔵品は少なくなり、冷蔵品が各家庭の冷蔵庫の普及とともに広まって、塩でもって保存するという形態が少なくなってきました。これは当時までの疫学的な所見で、どうも胃癌が関係があるんじゃないかあるいは脳卒中の関係あるかもしれないという大変大胆な推論をして、そういう勧告をしたわけでございまして、結果は死亡率で見る限り脳卒中とか胃癌の変化というところから見てよかったとなと、今思っているわけでございます。

 そういう塩をどうやって測るかという測定法の問題があります。現在助教授の竹森幸一先生が基礎的に非常によくやられております。ろ紙法というものを方法論として教室で開発したわけであります。この利用の仕方として先日日本医事新報に紹介いたしましたんですけども、例えば秋田そして弘前の付近では、血圧平均として160-88の132-76位、その時のカリウムとナトリウムがこういうふうに分布しております。ところがパプアニュ−ギニヤ、これは東大の鈴木継美先生との共同研究ですが、平均値としても分布としても低い。カリウムは大体同じ位ですけどもナトリウムは1g位、こういう実態がろ紙法というので明らかにすることができたのであります。

 さらにニュ−ギニヤをもうちょと細かく分けますと本当に山奥の方から町中のス−パ−マ−ケットがあるような所にかけてレベルが変わってまいります。食塩がどうも多くなってきます。絶対量としましては勿論低いのですけれども、かなり入っているわけであります。日本の東北地方は飛び抜けた高い所にあるわけであります。そして今こういう方の血圧が非常に低いんですが、これからの問題としてはこういう方が今後10年20年たったら血圧がどうなるかということが追跡されて食塩が関係あるという仕事がもう一つevidenceが増えてくるというふうに思っているわけでございます。

 我々のやった仕事として血圧はたまたまここに29年から50年まで一応きっておりますけれども、個人としてあるレベルを持ちながらそして動揺がある中に一定の経過をとっていく、そして一定の水準がありそしてこういうふうに高くなった人は確率的に死亡という事件を起こすということがようやくわかってきたということであります。

 秋田のこの中でもいちいち測定して下さった学生諸君がいたんですが、1957年から20年続けたある村の30歳以上の全員のほとんど全員の血圧の推移がこいうふうにあるわけです。これは記録としてあるわけでございます。これは狼森というごく近くの部落なんですが、こいう中にいろいろ事件が起こり、そしてなぜこういう経過をとるのかという中にいろいろ生活、食生活をはじめ医療も関係あるでしょうけれどもそういうもろもろの影響があってこういう推移がしているのだというふうに今考えているわけであります。そして最終のところは最近弘前医学に若干結果を出しておりますけれども、今こういうデ−タが全部先程ご紹介したフロッピイ−デイスクに入っておりますので、老後の楽しみと言っては申し訳ありませんけれどコンピュ−タ−でかなりいろいろなことがこれから計算できるんじゃないかということで、コンピュ−タ−の勉強を今しているというふうなところであります。

 さて、もうドラマも大体終わりに近づいたわけでありまして、これは十和田から帰ってきたところ黒石から見た岩木山の風景であります。この中で30年近く暮らしてきたわけでありまして、いろいろ健康問題に変貌がこれからあるだろうと、そういう変貌がある中のほんの1ペイジを私なりに見ることができたということできたということでございます。そして今、冬から春が来まして桜が満開になり・・・なかなかいい写真でしょう!昔眼科に入野田先生という方がルノア−ル的な絵を描いていたんですけども、そんな写真でしょう。こういう中で時が過ぎていくということでありまして、こいう機会を与えてくださって大変感謝しております。

 どうもご静聴ありがとうございました。

((鵬桜会報:弘前大学医学部同窓会会誌,32号,11−18,昭61.7.)

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