津軽に学ぶ−りんごと健康−

 

 「ささきなおすけ」と申します。

 これから「津軽に学ぶ」という題で1時間ちょっとお話しすることになりましたが、このような機会を与えてくださった主催者の方々に感謝したいと思います。

 まず自己紹介ですが、略歴にありますように、大正10年東京で生まれました。

 慶應義塾の「幼稚舎」という小学校から大学医学部卒業まで慶應義塾で学びましたので、思想的には「福沢諭吉先生」の影響を多分に受けていると思います。昭和18年に卒業、海軍軍医となって九州の佐世保で終戦を迎え、母校に戻りましたが、縁あって昭和29年に弘前大学へまいりました。それ以来「津軽に学んだ」ことを中心にお話をしたいと思います。

 せっかくに機会ですので、「私らしい話」をしたいと思います。

 何が「私らしい」かということですが、長らく「医学部の衛生学講座の教授」をしておりました。医学の中で「内科」とか「外科」とかいうと常識的にお分かりいただけると思いますが、「衛生学」とはどんな学問なのかと思われる方が多いと思いますが、話の内容から理解していただけるものと期待しております。

 「弘前大学名誉教授」という称号をいただいておりますが、大変「名誉」のことなのですが、読方によっては「現役」ではないということになります。またいろいろな賞をいただきましたが、科学的な学問には「絶対」という価値はありません。

 長野県上田市の癌の研究で高名な山際勝三郎先生が

 「行きつけば また新しき 里の見え」

 といっておられますが、「自分では山の頂上にたったと思っても また向こうに山がみえる心境」であります。

 学問の世界では毎日毎日新しい考え方、科学的な証拠が出てきておりますので、それに遅れてはいけないという気持があります。「生涯現役」という気持で生活しています。

 「私らしい」ということは、「学者」であるということであります。「学者」でも「科学者」である。それも「自然科学者」である。その中の「医学者」、そして「疫学者」ということです。

 なぜ「疫学者」かというのかといいますと、丁度「世界の人名録」「Who's Who in the World」に掲載される原稿のチェックがきまして、自分のことを「英語」でなんというか、と考えさせられることがありました。

 結論は「疫学者」でした。英語でいうと「epidemiologist」でしたが、「私はエピデミオロジスト」の立場での話になると思います。

 最近の出来事として、「堺市の O(オ−)157の食中毒事件」がありましたが、厚生大臣、私は「カイワレ大臣」の称号を差し上げたいと思いますが、最終報告をされたとき、「学者」をそばにおいていましたが、そのとき「95%は確か」と発言していたのは「疫学者」でした。

 

 「津軽に学ぶ」と副題は「りんごと健康」とつけました。

 「りんごと健康」という本にすべて書いてありますが、そこにいたったいきさつを含めて重要なことをお話ししたいと思います。

 音楽の交響楽のように、第一がく章から第四がく章まで、テ−マを分けてお話ししたいと思います。ただし「音楽」の「楽」ではなく、「学問」の「学」でお話ししたいと思います。

 

「第1学章」のテ−マは「言葉・文字そしてその意味」についてです。

 

 まず「つがる」という言葉ですが、ひじょうに古くから言われていたようです。日本書紀にはじめて「津刈」と記載されました。漢字が日本に入ってきたときから、いろいろの字をあてはめていますが、現在はこの「津軽」におちついたようです。

 京都とか東京のほうからみると「みちのおくのくに」「えみし(蝦夷)のすむ国」といわれていましたが、この土地の人々は「つがる」といっていたようです。

 またこの「つがる」の発音が非常に難しいので、東京生れの私にはうまく発音できません。

 青森には夏の祭りに「ねぶた」という祭りがあります。弘前・黒石では「ねぷた」、青森では「ねぶた」といわれ、私もそのように教えられましたが、その間の発音であると「淡谷のり子」さんの話にありました。

 それぞれの土地土地に言葉が生れ、それぞれの意味をもってきたと思います。

 

 今青森で一番の話題は「三内丸山の遺跡」ではないかと思います。

 なにしろ5500年前から1500年もつづいて人々が住んでいた。500人くらいの集落であったと考えられ、それもかなりの「文化人」であったという「物証」が出てきました。

 「サンナイ」は「前にひらけた沢」という「アイヌ語」であると毎日新聞にありましたが、その根拠はわかりません。「アイヌ語地名」を研究しておられた「山田秀三さん」の本によりますと「サンナイ」は「山内」「三内」と書きますが、北海道に二つ、秋田県河辺郡と五城目町とそして青森とあるそうですが、「川ではあるが水がどっとでる特別な川」ではないかと書いておられます。

 青森には「アイヌ」の言葉ではないかという地名が沢山あります。

「つがる」とその意味ははっきりしませんが、この土地にすんでいた人々の中でいわれていたことはたしかでしょう。

 いったい人々はどんな暮らしをしていたのか。

 健康の方でいえば、どんな病気があったのか、食生活はどうであったか興味がわきますが、われわれの立場では、それがいかに「科学的」に確かめられてゆくかが興味があります。

 「年代」を「縄文」とか「弥生」とかいっておりますが、国際的には共通な「年数」として「科学的」に示す必要があるのではないかと私は思います。

 「花粉」とか「寄生虫の卵」があることは「科学的物証」です。先日みつかった「人の歯」などの「DNA」の分析などによって確かめられてゆくことと思われます。

 そして「サンナイ」の人々はどんな言葉をしゃべっていたのかと思います。

 キリスト教の聖書(ヨハネによる福音書1.1-8)の中に、「初めに言葉があった 言は神と共にあった 言は神であった」とあります。言葉とはラテン語では「ロゴス」を用いています。「万物は言葉によってなった ロゴスと神は同一位にあった」とありました。この「ロゴス」が、(・・ロジイ)(..logy)といわれるように、「西洋でいう学問」と関係がでてきます。「ロゴス」は「理性」を意味するのですが、本来は人間がはなす言葉であります。

 

 人間は最初に何を「認識」したかという問題があります。

 聖書の創世記(ヨハネによる福音書)に「はじめに神は天と地を創造された」とありました。「天」と「地」は人間の最初の認識であったと思われます。この「天と地」と認識した点はあとでふれる中国の「東洋」でも同じです。

 旧約聖書(創世紀2−7)に「主たる神は土(アダモ)の塵で人(アダム)を形づくり その鼻に(命の息)を吹き入れた そして人間はこうして(生きたる者)になった」とありました。

 旧約聖書は「ヘブライ文化」の記録ですが、ヘブライ語では「生命体を生命体たらしめているものは(プネウマ)(pneuma)」であるといいます。

 ギリシャ語では 「プシケ−」(psyche)といい、これが英語では 「サイキ」(psyche)になります。

 ラテン語での「風」は「アニムス」(animus - anima)で、 これが「空気」になり、そして「生きて動くもの」としての動物は「アニマル」になりました。

 インド語の「生気に相当するもの」は「ア−トマン」(atoman)といいます。

 これらの言葉は人の口からでる「いき」を顕わした言葉ではないかと解説されています。

 日本ではどうであったかといいますと、日本には「神話」があり、「やまと言葉」があり、「いきをすること」が「いきていること」になりなりました。「大国主のみこと」や「すくなひこのみこと」がでてきますが、これが「すこやか」というやまと言葉になったといわれています。 

 

 「言葉」はそれぞれの社会で生まれ、それぞれの言葉にいろいろの意味をもたせてきたものと思います。

 

 中国ではヨ−ロッパより古く長江・黄河のほとりに文化が成立しました。

 中国では「甲骨文字」からいわゆる「漢字」になり、いろいろの思想が書き留められました。

 東洋における認識・考え方としては「天と地」で、これが「陰陽」(いんよう・おんよう」という考え方になりました。(天地・昼夜・火水・表裏・内外・上下・高低・冷熱・乾湿・明暗・大小・善悪・男女・吉凶・乾坤)とわれわれ日本人には受け入れやすい考え方だと思います。

 「神」の「申」は天と地をむすぶ「いなずま」と語源にありました。天と地をむすぶ人として「イタコ」が青森にもおります。

 「医」の字にもつくりに「巫・エイ」と「酒」がついています。

 さらに「木火土金水」(もっかどごんすい)の「五行説」が加わりました。

 「天命思想」また「易」という考え方が生まれました。「あたるも八卦あたらぬも八卦」「だまって座ればぴたるとあたる」の「易」になりました。

 そして中国では 「天と地の間に漂う生気」としての「気」を考えるようになりました。「

  中国には「ふぎ」「神農」と伝説上の神がおり、そして「黄帝」(外国ではイエロ−エンペラ−といわれていますが)と最古の医学書といわれている「黄帝内経」(こうていだいけい)があります。「塩はとりすぎると脈が硬くなる」との記載がありました。そして孔子・孟子・老子・荘子、この「荘子」から「衛生」がとられました。

 

 明治維新のあと長崎の大村の長与専済が「医制を起草せし折、原語を直訳して健康もしくは保健などの文字を用ひせんとせしも露骨にして面白からず、別に妥当なる語はあらぬかと思いめぐらししにふと荘子の庚桑楚篇(こうそうそへん)に衛生といえる言あるをおもいつき、本書も意味とは較較異なれども字面高雅にして呼声もあしからずとて、ついいに健康保護の事務に適用したり」と「松香私志」にありました。

 

 我が国では從来「学」(がく)「学問」というと中国からの文化移入による「四書・五経」を学ぶことでした。四書(大学・中庸・論語・孟子)五経(春秋・左氏伝・国語・史記・漢書)です。 

 「学」に字の意味は、「マナブ・マネル」「家の中で子供が手をあわせて・マナブ姿である」という解説があります。

 このような「中国文化」の影響を日本は受けました。

 その一例として青森にある「ちゅうぎ」を紹介したいと思います。

「ちゅうぎ」が「厠籌」「浄籌」「触籌」という言葉に由来し、仏教大辞典にあります。

 この言葉が日本に伝来して人々の生活のなかにはいり一般化していったと考えます。

 

 そのような日本に、2000年来西洋に生まれた「学」「ロゴス」が、ポルトガルの「南蛮文化」、オランダの「蘭学」を通じて日本に入ってきました。2000年前のギリシャにおける「学」が現在におよんでいると思われます。

 それは「考えること 疑うこと 考えの道すじをたてる」ことで 「理」「論理的な考え方」であります。「物の理」は「物理」になりました。「数を数えること」は「数学」になりました。そして「知を愛すること」「フィロゾフィ」という考え方が西洋にうまれ、育ちました。日本に入ってきたとき「哲学」といわれるようになりました。

 人間を「ホモ・サピエンス」「知恵ある人」といいますが、2000年前ギリシャでは人間の「認識」には段階があって「経験」「熟練」「技術」そして本当の「認識」にいたる段階があると考えていました。

 そして「技術」がギリシャ語では「テクネ」、ラテン語では「アルス」になりました。「アルス」は英語で「ア−ト」になりました。日本では一般的に「技術」とか「芸術」といわれ、別の概念で考えられていますが、言葉の由来は同じです。

 森鴎外(森林太郎)の最初の小説「舞姫」の中の「げに東に還る今の我は、西に航せし昔の我ならず」と書いていますが、「東と西」の問題であります。

 古代ギリシャには「ソクラテス・プラトン・アリストテレス」などの「哲人」がでていますが、その当時の考え方や言葉が現在におよんでいます。「アカデミヤ」「スコ−ル・スク−ル」「デスポルテ・スポ−ツ」など。

 医学のほうでは医学の先祖といわれる「ヒポクラテス」がでています。

「観察・記録・考察」の科学的考え方の基礎をつくりました。そして「宗教」とは別の「医術」「アルス」の体系をつくりあげ、その記録が現在におよんでおります。ヒポクラテスの木が世界中、また日本の医学的な施設にあるのは「医学」の祖先をヒポクラテスにおくからであります。

 「サイエンス」が入ってきたときわが国では「科学」になりました。これも「science」「scire」「知る」ということで、ドイツ語で「Wissenshaft」「wissen」「知る」で人は知ることを欲しました。

 「自然科学」は16世紀の時代コペルニクス(1473-1543)の考え方をガラスによるレンズの望遠鏡で実証したガリレオ・ガリレ−(1564-1642)によって科学の基礎があたえられたといわれていますが、医学も16世紀に「解剖学」から新しい出発をしました。

 「素人なら経験からどうしたらよいかを知ればよいが、医師はそれに加わえて何故そうするのか、その理由を知らなくてはならない。非常に詳しく、明瞭かつ合理的に、体系的、理論的に知らなければならない」とありました。

 どのような「証拠」でよいのか、どのよに「証明」してゆくのかが問題でした。

 日本では西洋の学問にふれて、「蘭学事始」以後「養生訓の訓が学になった」という方もあります。わたしは「健康句」という言葉をつくりましたが、つみかさねられた科学的証拠を「句」に凝縮しようとしました。

 われわれの身近にある「言葉」「文字」「その意味」をよく考えなくてはならないと思います。言葉をみると「歴史」がわかると思います。

 「内務」「医務」「衛生」そして「厚生」(書経・左伝にある正徳利用厚生から・(衣食を十分にし、空腹や寒さに困らないようにし、民の生活を豊かにするという意味で)、これもはじめは衛生省・保健社会省・社会保健省など案がありましたが、厚生省になりました。

 戦後「公衆衛生」(Public Health)が入ってきました。しかしその「パブリック」の意味、「ヘルス」の意味、「Publicと Private」「公と私」の意味がかならずしも同じではないと思います。その他 「コミュニテイ」「サ−ビス」「ニ−ド」など、いずれも外来語であって西洋に生まれ育ってきた言葉の概念を理解し、身につけるには時間がかかると思いますが、日本では日本流の日本語として、勝手に日本語にしてしまっているように思います。その本来の意味を考えなくてはならないと思います。

 問題をなげかけただけですが、これが第一学章のテ−マ「言葉・文字そしてその意味」であります。

 

「第2学章」のテ−マは「病(やまい)は世につれ 世は病につれ」であります。

 

 病気がいろいろあり、人をなやませてきましたが、またそれをどのように考え、対処してきたか。それに歴史があります。

 「歴史」といっても権力者の歴史ではなく、経過していった毎日毎日の生活の実態、その時代時代の考え方を振り返ってみたいと思います。

 やまと言葉では(やまい)は(やむ)(止る)です。

 中国語では「疾病」(しっぺい)「疾(ヤマイ)は病(へイ)なり」。「病気」の「やまいだれ」は「人がよりかかっている:病床にある状態」をさします。「疾」は「矢」(急性の病気)「病」「丙」(火がくすぶる)とありました。

 天と地の間にただよう「気」という考え方があります。「根本的な生命力である気」が失調をきたすという考え方です。

 「くるしみ・横臥する」それが「病気」です。「生まれつきの生命力」は「元気」です。だから「養生」という考え方になりました。

 ギリシャ語では「なやむ、くるしむ」が(パテ−マ)「pathema」、これが英語 の「passion」、キリスト教では「受難」になります。医学のほうでいう 病理学(パソロジイ)(pathology)もその流れです。

 ラテン語では「死 衰弱」は(モルブス)「morbus」。これが英語の「死亡」「morbid」「mortality」。フランス語の「マラデイ」「maladie」で「悪い状態」を意味します。

 ドイツ語では「役にたたない 虚弱」のことを「Krankheit」。患者のことを「クランケ」といいます。

 英語で病気のことを「デイジ−ズ」「disease」といいますが、古いフランス語から由来し「(デ)des-はなれる、aise- 安楽」「安楽をかいた状態」です。

 いろいろ人をなやませてきた病気がありました。そしてどうして苦しいのかいろいろ考えて対処してきました。

  「四百四病」あり、それぞれに病名の由来があり、その病気をどのように考えてきたかという歴史がありますが、歴史的に意味をもったいつくつかの「病気」をとりあげてみます。 

 聖書にも記載されていたといわれる「癩病」「レプラ」(lepra)、これは(かわをむく:lepros)からといわれ「ギリシャ象皮病」でした。こおいう人たちに手をさしのべようというのが「神の館」(パリのオテル・デウ)「病院」のはじまりです。

 聖書(マタイ福音書25.35-35)「あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたちきに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに訪ねてくれた」と。

 「癩菌による慢性感染症」とわかり、「ハンセン病」といわれるようになったのはハンセン(G.H.R.Hansen1841-1912)のらい菌の発見(1873年)以来です。わが国では明治40年らい予防法ができました。

 「ペスト」「Pest plague」はその症状から「黒死病」といわれ、1−2世紀頃から記載され、中世の14世紀には「2500万人」もの人々が死亡しています。17世紀にまた流行し、その流行がやんだとき、「キリスト教のおかげ」ということで、ウイ−ンのグラ−ベン通りには「ペスト記念塔」がたてられました。ペストが(ねずみ・しらみ・人間)の関係があり、19世紀になって広東で流行したとき、1894年北里柴三郎・イエルセンによって、「ペスト菌」がそれぞれ独立に発見されました。

 500年前アメリカ大陸との接触があり、大航海時代になって 「梅毒」「黴毒」が世界中にひろまりました。「フランス病」「ナポリ病」「唐病」「揚梅瘡」「琉球瘡」「南蛮瘡」「広東瘡」といったように、相手の名前をつけた病気になりました。16世紀に「フラカストロ」(1546)によって「伝染病」である、「人から人へ移るという考え」が誕生しました。「スピロヘ−タ」とわかったのは今世紀になってからです。

 同じようにアメリカ大陸との接触によって、現在最大の問題と考えられるようになった「 たばこ」が世界中にひろがりました。当時は「空気が悪いから病気になるという考え方」が一般にありましたから、「たばこ」もはじめは「萬能薬で、空気をきれいにする」とも考えられていました。

 「マラリヤ」は「悪い 空気」という意味です。

 「コレラ」は「短期間の急性の下痢」「米のとぎしるのような胆汁の色を失なった」が語源ですが、ロンドンでコレラが流行したとき、「空気が悪いからだと考えられていました」。我が国では「虎列刺」の字をあてはめました。

 ロンドンで1854年ジョン・スノ−が「患者の腸管排泄物中に含まれる、自ら増加し、最初と同一のもを次第に造りゆく物質が、主として飲料水を媒体として、人から人へと伝播するものであること」を「疫学的研究」によって証明しました。「悪い空気ではなくて悪い水による」ことを示しましたが、これは1883年コレラ菌がわかる30年も前のことです。これが「近代的疫学的研究」のはしりと考えています。その場所を「ロンドンの名所」としておとずれました。

 「結核」は昔「肺勞」「しょうもう病」といわれていました。結核菌による慢性感染症とわかったのは、1882年の結核菌発見以来です。

 「ないて血をはくほととぎす」「人間は何故死ぬのでしょう」と文学にありました。「へちま(糸瓜)咲て たん(痰)のつまりし ほとけ(仏)かな」と松山市の正岡子規は明治38年8月18日35才で亡くなるとき「病床6尺」の俳句のなかで書いています。

 これらの病気について「或る病気に微生物がいるのではないか。それを純すいにひとつだけとりだせないだろうか。それで前と同じ病気をおこすことができないだろうか」とヘンレは考えました。それを科学的に実証したのがパスト−ル(1822-95)、そしてコッホ(1843-1910)でした。「その微生物を単一な病気の原因であると考える説」になりました。

 しかし現実に人間の社会で「病気」がおこるのは「必要原因」ではあるが単純なものではありませんでした。ミュンヘンで1852年衛生学講座を開いたペッテンコ−ヘルは、コッホが発見した「コレラ菌」を自分で飲んで検討したことがありました。彼は「地下水説」といい「単一原因」ではなく「多要因」であると考えました。

 しかし病気を防ぐ方法として「細菌」にたいして、実際には「消毒」「滅菌」「隔離」「予防接種」が行われるようになった。

 低温消毒法(牛乳の60度30分)の「パストリゼ−ション」は「パスト−ル」からきています。

 病気を防ぐ「技術」の代表例が「種痘」でした。

 ジェンナ−の種痘は「ウイルス」で「細菌」ではありませんでしたが、経験的に「有効」でした。「ワクチン」という言葉は「めす牛のワッカ」からパスト−ルが「ワクチネ−ション」命名し、その言葉が一般に用いられるようになりました。

 日本の医学もその「種痘の技術」をならい「西洋医学」を勉強することから始まりました。

「種痘」の技術はロシヤからの「北方」ル−トもありましたが、長崎から大阪、そして東京は神田の「種痘館」での勉強がはじまり、そして東京大学でも「南校」のほかに「東校」ができ、「東大医学部」になり、そこで「ドイツ医学」をとりいれるようになりました。

 

 その時代に新しい医学にも悲しい出来事がありました。

 千葉県鴨川に「沼野玄昌先生の魂を弔う碑」がたっているそうですが、明治10年コレラ流行のとき「治療と防疫」にあたられたとき「井戸の消毒」をおこなったとき「井戸に毒薬をまき 病気がおこる 患者のきもをとる」といって、皆に撲殺されてしまった、ということです。

 

 予防接種の考え方は「集団防衛」でした。

 イギリスの100年前の「公衆衛生法」「Public Health Act」は「水の衛生」でした。それが「組織だった公衆衛生上の努力」になり、予防できる病気は少なくなりました。

 それで病気がなくなったわけではなく、「疾病構造」が変わってきただけで、その発生の理由のわからない、予防の方法もわからない、疾病・死亡が相対的にめだってきました。

 いわゆる「成人病」としての「癌」「循環器疾患」がめだってきました。

 WHOのプロジェクトによって、地球上から「天然痘」を追放したことは、今世紀最大の公衆衛生上の出来事と思いますが、しかし「天然痘」をのぞいて「病原微生物」との関係がなくなったわけではありません。

 

 私の「衛生の旅」は「コス島への旅」から始まります。

 「ヒポクラテス」の「観察・記録・考察」で「科学的な医術」がその後展開されました。「メス」のつかい方、「くすり」の使い方が展開されました。

 しかし「健全な身体に健全な精神が宿ることを願う」という考え方がギリシャにありました。

 「ハイジエイヤ」はその信仰を示した「健康の女神」で「理性にしたっがて生活するかぎり 健康にすごせるのだという信仰」「健全な身体に健全な精神がやどるような人間でありたいという願い」の立場がありました。「保健文化賞の副賞の盾」は芸術品ですが、私が30年前「コス島」で初めてスナップした実物はこれです。

 私の「衛生学」の立場もその「健康の原理」を追求する立場をとりました。

 

第3学章のテ−マは 「あだり」「血圧」「食塩」「りんご」です。

 

 「あだった」「ぼんとあだった」「びしっとあだった」「かすった」という言葉がこの地方でいわれていますが、そのなぞときの40年でした。

 日本中で「循環器疾患」に関する言葉として、何んといわれているか調べたことがありました。

 「中風」「中気」が全国的にありました。それは「中国伝来」の考え方であると思います。ところが地方・地方で特徴のある言葉がありました。「いっときちゅうき」「ぶらぶらになりんさった」など。ただ「心臓病」にあたる言葉はあまりありませんでした。

 西洋医学の影響と思われますが、「脳溢血」「脳充血」が診療録に登場しました。

 戦後昭和36年冲中重雄先生が日本の成績を外国へもっていったとき、日本では「脳血管疾患の診断」がほとんど「脳出血」であったので、欧米から批判されました。そこで「日本人の脳卒中の特殊性」の研究班をつくって「診断基準」をきめ全国調査をはじめました。

 私は昭和29年以来「脳卒中の公衆衛生学的問題点」として、日本が世界の中で若く早く脳卒中で死亡していたことを問題点として考えました。それを予防することを目標に研究・疫学的研究を展開しました。

 その研究の目的は「働き盛りの中年の人が早く死亡する」ことを予防することでした。

 具体的な数字として、東北地方の中年(30-59歳)人々(2百70万人)が毎年4千2百人死亡し、他の地方よりきわめて高い死亡率であることを示しました。     

 

       人口  死亡  死亡率

 全国 27,610,000  28,568  103.5 全国の率では 2831、 1422多い

 東北  2,735,000  4,263  155.5

 四国  1,3,5,000   971  74.4 四国の率では 2035、 2218多い

 

 という問題意識で公衆衛生上の問題を考え、それをなんとか予防したいと考えました。

 その脳卒中が血圧と関係しているのではないかと考えられていました。

 しかし患者ではなく、一般に生活している人の血圧がどうであろうかとは、まったくわからない時代でした。

 テレビドラマ「いのち」の中で「この津軽に高血圧の人が多い」という表現がありましたが、私にとっては問題でした。そんなことは分かっていなかった時代だったからです。

「中国医学の脈」ではなく、西洋の学問(生理学)では「血圧」を測定することを考え、「高血圧」が認識されるようになりました。

 一般に生活をしている人々の血圧を測定しはじめました。「疫学的研究」のはじまりです。普通の血圧計ではかれないような人がこの地域には沢山おりました。 

 人はなぜ高血圧になるのか、人の血圧をどう考えるのか。それが「血圧論」になりました。

 一般によくいわれているWHOの高血圧の定義というのはありません。あるのはそのときどきの専門家グル−プの考え方が示されているだけです。 

 外国ではわれわれの成績は信用されませんでした。そこで「自動血圧計」を考えるようになりました。

 血圧の単位も将来かわると思われます。「(水銀柱) mmHg(140-90)ではなくて(キロパスカル) kPa(18.7-12.0)」というように。

 

 何故人は高血圧になり脳卒中になるのか。季節変動し、冬に血圧が上がり、死亡が多いか。このことが2月が成人病予防週間になった背景にあります。

 だから実際に血圧を測定してみて、「寒さ」「部屋の中の寒さ」が問題になるのではないかと考えました。「こたつ・ スト−ブ」で比較しました。 「室内温度に予防のヒントがある」とはじめて報告しました。

 さらに生活の中の食生活としての「食塩」が問題であると考えるようになりました。食塩のはこびや、過剰摂取のもとになっている「みそ摂取の(あさひるばん一日三回とるというみそ汁摂取の形)、塩の漬け物、そして塩蔵物が問題であると考えました。

 「食塩」は「ナトリウム・Na」また「りんご」の「カリウム・K」これらは「フレ−ム・ホトメ−タ−」「炎光分析」を初めて野外調査に応用したことから「具体的」に明確になりました。

 「Japanese Heart J.」という雑誌が我が国で刊行されることになり1962年(昭和37年)論文を発表しましたが、「日本人・とくに東北の人々の血圧・食塩摂取の状況」が世界の人々に明らかになりました。

 「慢性的な食塩の多量摂取が高血圧に及ぼす影響を示す例として反駁できない研究報告である」と紹介されました。

 「食塩は必要だけれど過剰ではないか」という考え方でした。

 昭和40年池田総理大臣のとき、科学技術庁資源調査会の専門委員として「食生活流通体系の近代化に関する勧告」(いわゆるコ−ルド・チェ−ン)に参加しました。内容は(冷蔵・冷凍)のくさりをつくること。その目標は(乳製品の普及・胃ガン対策・脳卒中対策)でした。

 1970年(昭和45年)ロンドンで開催された第6回世界心臓学会で「高血圧の成因」の「円卓会議」で「食塩説」を発表しました。

 テレビのインタ−ビュウで「civilization is saltization](文明化は食塩化である)とのべました。

 昭和47年田中総理大臣の時「日本列島慢性食中毒論」をのべました。内容は「食品の添加物としての食塩が問題だ。その所要量として示されている一日15グラムはおかしいのではないか。教科書に書いてある学説は科学的に間違いで、訂正を要するのではないか」というものでした。

 われわれの成績をも参考にしてアメリカでは食塩5グラムを目標にしました。わが国では10グラム以下としました。

 1975年(昭和60年)に「no salt culture」(塩のない文化)が明らかになりました。ブラジルの(ヤノマモ・ヤノマミ インデイアン)の生活と血圧の状況が明らかになりました。

 「食塩と健康」との関係については本にまとめました。

 「りんごと健康」は本にまとめました。

 われわれが昭和33年に「りんごをたべることが高血圧の予防になるのではないか」と発表したときには、古くから欧米でいわれていた「一日一個のりんごは医者をとおざける」ということわざに対して科学的傍証を与えたと世界中に報道されました。

 「りんごと健康」との関係については「下痢の治療だけでなく 貧血によく 離乳食として最適なこと ビタミンCも実際にはかなりあって 生理機能の基本にかかわる「抗壊血病因子」たりうること 繊維もあり 便通をととのえること そしてリンゴを食べていることは脳卒中や高血圧の予防になることを30年かかって証明してきた 毎日リンゴを食べることは健康につながる科学的根拠をもつ智恵であると思う」とまとめました。

 昭和58年クイズ面白ゼミナ−ルで2分30秒でまとめました。

 平成2年「追跡的疫学調査」の結果を含めて,「生活条件と血圧、とくに食塩過剰摂取地域におけるりんご摂取の血圧調節の意義について」を報告しました。

 「食塩とりんごと高血圧」とのわれわれの研究は、多くの本に引用されていますが、それもほとんど無断にですが。

 最近の例として「岩波新書447 尾前照雄著 血圧の話 p122」に「食塩の制限はナトリウムの摂取をへらすことが目的であるが・・・ カリウムを多くとることをすすめる。弘前大学教授だった佐々木直亮先生が、東北地方でりんごを多く食べる人には少ないという成績を報告されたことがある。」とありました。

 アメリカにある「国際りんご協会」からでている「パンフレット」にも「論文」が引用されています。

 

第4学章のテ−マは「疫学による予防へ」です。

 

 「雑誌公衆衛生」に「21世紀へのメッセ−ジとして「疫学による予防へ」を書きました。

 私は戦後慶應義塾大学医学部の「予防医学教室」へ入りました。

 「予防」「あらかじめ防ぐ」ですが、すでに中国の「易・易経(自然の法則と人間社会の秩序を統一的にといた)既済:君子以思患而豫防之」「君子はわずらうを思って 豫めこれを防ぐ」にありました。わが国には6世紀以後(大宝令・学制に易経はいる)あった言葉でした。

 どのように「予防」を「証明」してゆくか、「疑似科学」ではなく、「科学的」に,が問題でした。

 科学的研究方法として「経験」や「観察・記録」だけでなく、「実験」をしてゆくことがあります。「動物実験」「無作為」「比較対照」がありますが、しかし「動物」と「人間」とは基本的に異なります。「人に実験ができるか」という問題もあります。だから「ボランテイヤ」による観察・実験もあります。

 疫学的研究の展開としては「易」とにていますが、「近代的疫学」は「人間集団の観察」、それも「病人」からだけでなく、「健康」な人をも含めて「地域の人々」からはじまります。

 「統計的観察」「記述疫学」・・「追跡的疫学」・「介入的疫学」とつづく研究があります。

 考え方は「多要因疾病発生論」です。「原因」をもとめるのではなく、「可能性」のあるものを考えて、もっとも「蓋然性」(がいぜんせい)の高いものに対策を求めてゆく考え方です。

 疫学研究によって「危険因子」「リスク・ファクタ−」(R・F)がいわれるようになりましたが、これからは「利益因子」「ベネフィット・ファクタ−」(B・F)の追求が必要ではないかと考えています。

 「いけないというより こうしなさい」「塩はだめというより、りんごを食べなさいというように」ということです。

  「癌」のばあい「たばこ」が問題になっています。

 「病」の「自然史」がわかってきた現在「病」の前がある。「氷山現象」という見方があります。

  そして毎日の生活の中にも問題があることが「疫学的研究」によって明らかになってきました。。

  歩いている道に「穴」がみえてくる。それを科学的根拠をもって(それは疫学的研究によって)示してきたと思います。

 「成人病」から「生活習慣病」といわれるようになりました。

 「たばこをやめ たべすぎないように あるいて あるいて あるいて」といわれています。

 「少塩のすすめ 一日一個のりんごで健康を」これが私の「健康句」です。

 

 弘前の代官町で生まれ、大正14年慶應義塾文学部を卒業された石坂洋次郎さんは、弘前高女に1年おり秋田の横手高女にうつりましたが、津軽について次のような言葉をのこしました。

 「物は乏しいが、空は青く、雪は白く、林檎は赤く、女達は美しい国 それが津軽だ 私の日はそこで過ごされ 私の夢はそこで育まれた」

 この前半は今も同じですが、私として付け加えさせていただければ

 「私の半生はこの津軽で過ごし 多くのことを学んだ また学びつつある そして学んだものを 日本に また世界に発信できた」

 

 このような機会を与えていただいて どうもありがとうございました。

                (第29回全国保健衛生大会特別講演)

          (黒石市・スポカルイン黒石、平成8年10月31日)

              (南黒医師会報,12,20-24,平成9年7月)

              (南黒医師会報,13,14-16,平成9年10月)

              (南黒医師会報,14,19-22,平成10年1月)

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