衛生の旅

 衛生の旅

衛生の旅 Part 2

衛生の旅 Part 3

衛生の旅 Part 4

衛生の旅 Part 5

衛生の旅 Part 6

衛生の旅 Part7

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衛生の旅 Part 5 の はじめに 書いたこと

 

 衛生の旅 Part 4 を出したら、Part 5 を期待していますと礼状がきた。

 衛生の旅をはじめて出したのが昭和55年で、Part 2,3,4がそれぞれ、60,62,63年であったので、次第にピッチがあがってきましたね、と書いてこられた方もあった。

 主人にはいっていないのですけれど、近ごろ年をとってきて、こんな道楽をはじめ、皆さんにご迷惑をかけているのではないかという話もあった。別に家計に迷惑をかけているわけではなく、講演料や原稿料をためておいたものでやっているので、文句をいわれる筋はないのだけれど、毎回自動車を新しくするくらいの出費があるので、家計をきりつめている者からはついでる言葉ではないか。

 Part 4 をだした時ほかにもこんな話があった。

 それはなぜこんなものを世に残すのかということであった。 男というものはなんでこんなことをするのか、ということであった。

 “仕事”をした人はそれを残したいのではないのですか、という考えをいう方もあった。

 一体自分が生きてきたことは何んであったのであろうか。 芸術家は自分の仕事を世に残したいために仕事をしているのであろうか。 科学者は、研究者はどうなのであろうか。

 と思って始めに「衛生の旅」を出したときのことを思いだしてみたら、次のようなことを書いていた。

 「弘前に住むようになって25年とすこし、書いたものをまとめてみました。”衛生の旅”というのは、昭和41年にアメリカ・ヨ−ロッパへの1年間の在外研究をおえて帰国したとき、原島進先生から雑誌「公衆衛生」にその紀行文を書くようにいわれたときのもので、この本の題名にも使わせて戴いた。 本来の仕事の「脳卒中・高血圧の疫学的研究」は「弘前大学医学部衛生学教室業績集」にまとめてきましたが、この本からそれらの研究の背景にある私なりの考え方を理解して戴ければ幸です 一寸古いもの、個人的なもの、また現在他に連載中のものは除きました。日頃お世話になっている方々にお礼の意味でおとどけする次第です」と。

 「衛生の旅 Part 2」のときは次のような挨拶状をそえている。

「第一の人生が学生時代から終戦までの30年、弘前大学での生活がほぼ30年で第二の人生になりました。 両親の生きた年齢までと考えますと、あと30年が第三の人生となりますが、その生きがいを求めてというのが現在の心境であります。 前編「衛生の旅」にのせなかったものを「衛生の旅 Part 2」としてまとめてみました。おひまのときにでもお読み下さい」

 「衛生の旅 Part 3」 をおとどけします。 「弘前大学を停年退官した機会に前の衛生の旅につみのこしたものをまとめてみました。 おひまのときにお読み下さい」

 「衛生の旅 Part 4」 をおとどけします。 「最近のもの前の衛生の旅につみのこしたものをまとめてみました。おひまのときにお読み下さい」 

 こう読みかえしてみると、なにかしら自分がわかってくる気がしてきた。本が送られてきた時、パラパラとみて、一寸面白そうなのから読むようである。

 ストリップの話、その第2話はその題名が題名だけによく読まれたようだ。

 前回の Part 4 では「品川教授のこと」が目にはいったようだった。 なにしろまだ生きている方を題名にしたのだから。 出版日に先生のご了解も得ず書かせて戴きましたと本を届けた。 「たいへん光栄です」といって戴いたが、そのあとすぐに「衛生学の宣伝」をしているとも云われた。

 まさにその通りである。題は題でもその人の記録ではない。その人のことをかりてきて、自分のことを述べているのではないか。

 ちょうど画家が人物像を書くように、と理解したい。となるとこの本は自画像ということになろうか。本のお礼に「自分史」と書いてこられた方もおられた。

 弘前大学を65歳で停年になって仕事がおわったことはなく、東北女子大で健康科学を主に講義しているのだが、学生に自分のことを理解してもらうには、本がよいようである。昔講義を聞かれた方も、前以上に私を理解して戴けるのではないか。

 「一日一考」をモット−にワ−プロに自分のことを打ちこんでおこうと思っているのだが。(63・12・5)

と衛生の旅 Part 5を平成3年12月に出したときの「はしがき」に書いている。

 「衛生の旅 Part 5」を目標に、「はしがき」を書き、「一日一考」をうちこんで早や一年たってしまった。

 はやく出さないとの思いが頭をかすめた。一冊分の原稿もたまった。

 いま大阪に住んで音楽で飯を食べ始めた次男の修が帰ってきたものの、長男の義父の山下廣蔵さんが亡くなったという電話がきて、家に30分もおられず、急遽家内と一緒に青森から空路上京していった、その短い間の会話である。

「いっちゃ悪いけど、衛生の旅Part4がまた送られてきて、ぱらぱらとめくり、読んでいませんよ。また同じことを、もう結構です」「身内だからいえるのです。僕なんかも、一人で生活していると、もう何もいってくれる人がいないので、気がついたらいって下さい」

「何故こんな本をだす気になるのです。あなたはろしつきょうです。自分のことをさらけだし、ひとが傷つき、めいわくしているのも気がつかないで」

「そのことははしがきに書きました。でもあの本がほしいのですけど、どこで売っていますか、わけて戴けませんかという人もいるのですよ」

「おせいじですよ」

「参考文献に衛生の旅を書く学生もいるのです。衛生の主張は、考え方、そして私なりの考え方は書いて残して置かなくてはと思うのです」

「衛生の旅のはじめにに書いたように、私はそんな気持から(疫学者としての一例報告的な)旅の随筆は書く気はなかった。こんな話を原島進先生の前でしたとき、”でも君、君も他人に知らせる必要があるよ”と。随想は私の心のうごきである。この心のうごきを活字にのこし得たことを、いつか感謝する時がくるだろう、と書いたことがありました。

「ぼくの墓場は祖父が東京の青山墓地に造ったところの一角をもらうことに兄との口約束になったいるけど、私に会いたくなったら、国会図書館へくればよい、コンピュ−タ−に<sasaki naosuke> なり<ササキナオスケ>でもいれると出てきますよ。先日できたばかりの国会図書館の”ロム(CD−ROM)”でためしてみたら、「食塩と栄養」「人々と生活と」を含めて6冊でてきました。「弘前大学医学部衛生学教室業積集」は別に入っていますけど」

「それでは1冊でよいでしょう。わざわざ人に押しつけることはありません」

そばにいる人はなかなかきびしいものである。 ・・・でも。

 衛生の旅 Part 5 を出したのが平成3年12月だったので、早や3年経ってしまった。もっとも「また紙屑をふやして」「もっと世の中に為になることをしたら」という批評も身近にあったからではあるが。この間「りんごと健康」「食塩と健康」を第一出版から、また「解説・現代健康句」を津軽書房から出すことが出来たし、東北女子大学を退職したいまなら、衛生の旅 Part 6 を出しても良いだろうと考えた。 

 「前回「一日一考」をテ−マにワ−プロに打ち込むことを計画したが、本の原稿書きに時間がとられ、今回はそれぞれしゃべったり、書いたりしたもの、記録を主にした。

 関連の図書館への寄贈を主に考えたのだが、「衛生の旅 Part 1」をようやく古本屋で見つけて揃えることができました」という有難い話をしてくれた方もあったので、部数の許す限り送らせて戴いた。

 ひまがあれば読んで戴いたあと、「紙屑」といえば「紙屑」だから適当に処分して戴いて結構だと思う。」                                          

これが「衛生の旅 Part1」から「Part6」まで出したいきさつである。

「トップレス・ボトムレス そしてペ−パレス」の時代はいつくるのであろうかと書いてから大分時間がたってしまった。

そして国会図書館では将来の「電子図書館」構想が今論議されはじめたと伝えられている。私の生きている時間の中ではどうなるかまだ分からない。ホ−ムペ−ジを開いている修はもう電子の世の中であるという。それもうなずける話ではあるが。

30年も前にワシントンへいったとき「Archives」と名前のある大きな建物があり、それはアメリカの古文書館であったのであるが、病理学の雑誌に「ア−カイブ」とあったことの意味が分かった気がした。

文字がつくられ、印刷がはじまり、本の中の本が「バイブル」だとのことであったが、人間のつくりあげる「思想」「考え方」はどうなるのであろうか。それが世にいう「科学的」の場合には。

私には「科学的」の論文は一日一日積み重ねられてゆくものだと思う。しかしそれもその時代時代の人が考えたことである。「絶対的」なものではないと思う。だからこそその時代時代に生まれ育ったことからのがれることはできないと思う。だから「科学的論文」とは別にその背景にあるその人なりの「考え方」が示されていたほうが、人々のために将来のために必要であり良いことではないか、と思うのである。これが私のたまたま歩んだ道・衛生学の教授として生活でき・子供も育ち・今年金生活者としての私の残された人生にとって意義のあることだと思うのだが、いつまでつづくものやら。(98.09.23)

「衛生の旅 Part 7」 謹呈の口上に書いたこと

 将来の「電子図書館」への納入を考えて、インタ−ネットのホ−ムペ−ジを開設したので、もう「衛生の旅」を印刷することはありませんよ、という意見もあり、先輩がいわれた「所詮は自己満足」といこともあるかとも思いますが、

 国会図書館など関係図書館への納入を考えて最小限「衛生の旅 Part 7」を印刷しましたので、謹呈いたします。

 おそらく「衛生の旅」の印刷はこれが最後になるものかと思いますが、私が「津軽で学んだこと」また「疫学事始」を印刷・出版して記録に残せたことは、将来社会の人々に少しはお役に立つことになるものと信じております。

 満78歳の誕生日に、まだ頭がぼけてはいないと自己診断している時に、印刷・出版できたことを喜んでおります。

 これから書くものは、また以前のものもホ−ムペ−ジに入れようと思っておりますので、ご覧下さい。(99.1.17.)

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