衛生学教室のアルバムから(その30)

          

 平成5年10月11日NHK総合TVで「肥満・高血圧・ストレス」を話題にした健康番組が放映された。

 「高血圧の研究で全国で知らない人がいない位有名な・・・

というナレ−ションが流れたあと、青森は津軽のりんご地帯の風景が写し出されたことを覚えておられるだろうか。

 その内容は「高血圧に食塩が悪いのは今は常識になっているが、もう一つりんごが血圧のコントロ−ルに有効だ」と「弘前大学の研究成績によれば」という昭和30年代からの研究の紹介があった。

 私の名前が出ることを「期待していたのに、出ませんでしたね。でも血圧を測定しているのが先生だとはすぐ分かりました」とは、フアンの方からの電話であった。

 NHKには「健康プロジェクトチ−ム」というのがあって、弘前まで取材にやってきた。

 「先生が研究しているところの写真はないでしょうか

 秋田・青森と地域へ出ての研究だったから、実験室で白衣を着た写真など無かった。研究開始当初は私が血圧の測り屋であったが、自分の姿は写せない。唯一の写真がアルバムにあった。それをTVカメラで複写していった。それがほんの一瞬TVに流れたのだけれど今の息子の姿をみる思いがした。それが写真1である。

写真1 血圧測定風景 弘前市裾野地区にて 昭30.7.17.

 昭和30年7月高橋英次先生らと弘前市の裾野地区の調査をしたときのもので、後ろの眼鏡をかけているのが当時助手であった武田壌寿君かと思ったが良くみると一緒に調査に参加した学生の高世光弘君(昭和32年卒・3回生)ではないかと思う。

 

 もう一つ撮って戴いた写真があった。それが写真2である。

写真2 講義風景 昭35.4.23.

 昭和35年、4年生についての私の講義風景である。階段講堂であった。

 テ−マは「脳卒中についての公衆衛生学的問題点」であり、日本公衆衛生学雑誌に投稿したばかりの論文のことであったと思う。

 黒板に「∫」と書いてあるのは、人の健康問題は「多要因疾病発生論」であることを示したと思う。「丸」が書いてあるのは「診療所・病院」へ来る「患者」を診る「臨床的」とは違った「疫学的」な見方が必要ではないかと述べたと思う。100グラムに0.1グラムとあるのはりんごの中のカリウム量のことである。

 「高血圧と塩は無関係」と日本医学会総会のあとの新聞記事(昭和34年4月4日朝日)に出るような時代であり、「カリウム」についての見方は正にはしりの話題であったと思う。

 この写真を撮って下さった方に感謝したいと思う。だがその方の名前は思い出せない。

 

 もう一つスキ−部の人達と一緒に写っているのが写真3である。

写真3 スキ−部の人達 猪苗代みすず屋にて 昭50.3.18.

 昭和50年3月、第17回の冬の東医体のスキ−大会が猪苗代で開催された時の宿舎みすず屋でのものである。このときはセルフタイマ−であったかな。

 前列私の隣から「安藤・小沢・菅野、竹森・岡部・八木・康井・伊沢・向井、加賀・山根・橋本・石原・下山」とアルバムにあった。皆どうしていることだろう。

 スキ−部誌の「スプ−ル」を出して見ていたら「モギ試験 問答つづく 夜の九時」〈卒業式にも出ないで参加した四年の伊沢・石原両君を相手に二・三年生が模擬問題を出し最後の仕上げをする〉「広島の彼女 八木さん”いてる” と声をかけ」とか「閉会式に お化粧をして出る みだしなみ」とあった。

 石原(公子)さんとあるのはすでに石原修君(昭和47卒・18回生)と結婚されていたのかしら旧姓駒木さん、当時はやった言葉の「コマキスト」が思い出される。女子は一番うしろに控えていたが、加賀(英子)さんは翌年富良野での大回転で優勝して「向井千秋さんを負かした女(ひと)」(弘前市医師会報236号)であり、高橋修一君(昭和47卒・18回生)と結婚され、現在「ダブル・インカム・ファイブ・キッズ」で、弘前市内松原で開業されている。私が仲人をした康井制洋君(昭和51年卒・22回生)は横浜で元気、結婚式に四国は松山までいった橋本治久君、「華麗なるスキ−」の下山則彦君は病理から今函館か、「アルペンは 何年ぶりかで 入賞し」とあった菅野裕介君(昭和52年卒・23回生)は苫小牧にいたと思っていたら「枝幸町」で「すがの医院」を開院されたと挨拶状を戴いた。

 皆日本全国各地で活躍されていることと思う。20年も前の「ナツメロ」ならぬ思い出の一コマである。 

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