今、「疫学」を思う

 

 編集委員長の児玉和紀先生から「ニュ−スレタ−」への原稿依頼があった。

 「昨年の日循協総会での『日循協30年前夜の人々』の内容を皆に改めて知ってもらうのも必要と考えています」とのことであったが、その話は「日循協誌,30,141-147,1995」で見て戴くとして、折角の機会なので最近の出来事に関連して「疫学」について考えていることを書かせて戴こうと思う。

 

 第6回日本疫学会の主題が「疫学から予防へ」であったことはご承知のことと思うが、学会の懇親会の席上、富永祐民会長に「主題を英語にするとどうなりますか」と英語に堪能な彼を意識して問いかけた。

 答えは「..from..」だったと記憶しているのだが。

 なぜこんな言葉が出たか言うと、ちょうど雑誌「公衆衛生」(Vol.60 No.4.1996)の「21世紀へのメッセ−ジ」として、私は「疫学による予防へ」という題で原稿を送ったばかりだったからである。私としては「疫学」によっての「予防」に、もっと積極的な意義を持つと言いたかったからである。

 また「臨床科学」(Vol.32.No.2.1996)の「医療今昔物語」「高血圧」の中で「これら高血圧の定義の変遷をみると、次に述べる疫学的研究の成果が理解されるようになったからではないかと思われる」と書き、原稿を送ったあとだったからである。

 

 先のニュ−スレタ−に富永祐民君が投稿していた「疫学は限界に直面している」の記事の原文(Science)を図書館で見た。

 「独断と偏見による紹介」と書かれていたが、なかなかの難解な原文ではあったが、思い当たることが多かった。

 大分前のことではあるが、「水俣病の原因をめぐって」のシンポジユムについての学会傍聴記(日本医事新報,1931,24,昭36.)を書いたことを思い出した。

 その中で「もっと疫学的な特徴をいわれるべきではなかったか」とか「内容は翌日の新聞誌上の記事通りではなかったことを付け加えておこう」と書いている。

 林知己夫先生の「目立つ疫学の誤用」(日経)には「私に言わせると疫学のことを理解していない記者による報道の誤りとでも言うべきものと思います」と書いた。

 自分は「疫学者」であるという立場から「評論家の功罪」を日本医事新報(3561)に、また「疫学者の立場」(3584)を述べたことがあった。

 そんなことを考えていたら、毎日新聞(1996.4.5.)をみて頭にきたことが最近あった。

 「塩」に関する記事はいつも関心があるのだが、次のような記事が目にとまった。

 「高血圧の塩原因説は、戦後間もなく、アメリカの学者が、日本の東北地方に高血圧が多いのに注目し、疫学調査をした結果生まれた」と。

 早速「事実と異なると思われますので、次の資料(食塩と健康:第一出版など)をご覧の上、納得いただければ、訂正の記事を掲載して戴きたい」とFAXを入れた。

 すぐFAXで返事はきたが、「資料は手元になく拝見することは出来ませんでした。私の記事は日本たばこ産業・塩専売事業部の資料をもとにしました」「行数の関係ではしょりすぎて、適切な表現ではなかったかとは思います」とのことであったが。

 記者の不勉強ではないのか。

 教授になりたての頃であったが、日本医学会総会が開かれ(昭34)、翌日の朝日新聞に「高血圧は塩と無関係」と報道された時代に、疫学的な見方から「脳卒中頻度の地方差と食習慣−食塩過剰摂取説の批判(福田)の批判」を書いたことがあった。日本学術会議からの推薦をうけて毎日新聞社から「高血圧の疫学的研究」に研究奨励金をもらったことのある自分としては、その新聞社の記者の書いた記事に「頭にきた」といっても了解して戴けるのではないか。

 しかし新聞の記事はひとりあるきする。こんなことで世の中は動いてゆく。

 「みそが悪いのではなく、食塩の過剰摂取が問題だ」と述べたつもりだったのが、世の中はそうは動かなかった。

 新聞記事はそれをどう読むか。自分がその中心にあるときは特に感ずるのであろう。

 

 最近の新聞に次のような小さい記事が目にとまった。

 「疫学」に関連のあることなので書いておこう。

 「厚生省エイズ研究班の班長だった安部英・前帝京大副学長が殺人容疑で告訴されている問題で、安部氏は二十三日までに東京地検に上申書を提出した模様だ。安部氏は十七日に行われた参院厚生委員会薬害エイズ問題小委員会参考人質疑で、血液製剤による危険性を認識した時期について「製剤の中にウイルスがいると証明できたのは一九八四年五月。私が使う製剤のなかにいるかどうかは証明できない」と説明。輸入製剤を使い続けたことについて「結局は変えようがなかった」などと述べた。上申書でも、こうした趣旨を述べているとみられる。(朝日8.4.24)

 また「薬害エイズで首相が謝罪 参院予算委」「橋本竜太郎首相は24日の参院予算委で、薬害エイズ問題について、「改めて政府の責任を認め、政府として反省すると同時に患者、家族に心からおわび申しあげる」と謝罪した。首相が、明確に謝罪したのは初めて。首相は「血液製剤の安全性が確認されなければ(HIVに)り患する可能性が確認されてしかるべきだった。それが対策の遅れを招き被害の拡大を防止し得なかったのではないか」「こうした事態を起こさないために真相解明が必要で、それだけの努力をしていく責任がある」と今後の真相究明に積極的に取り組む姿勢を示した。(毎日8.4.25)

 テレビで安部参考人が「私としてはどうしようもなかったのですよ」「純粋に科学的にみて...」と発言していた顔を思い出した。

 司法がこの件(殺人容疑)についてどのような判断を示すかはまだ分からない。

 先に厚生大臣が、今度は総理大臣が「謝罪」したと伝えられるその内容がどのようなものなのか分からない。ここでいう「真相」とはどんなものなのか分からない。

 ウイルスが科学的に証明されないから、どうしようもなかったのか。

 以前学生向けに「疫学的アプロ−チ」(日本医事新報ジュニア-,148,15,昭50)を書いたことを思い出した。

 「もしもいつか、あなたがイギリスのロンドンに行くことがあったら、John Snow の ”Broad Street Pump”のあとを見に行くことをすすめたい」と。

 ”科学的”にコレラ菌発見の30年も前にコレラについて水系伝染病の概念をもち、対策をたてた「疫学者」と呼ぶにふさわしい先人、またビタミンの概念のない時に「脚気」の対策をたてることができた先人達のことを思うと、今、疫学者は何をなすべきかと思うのである。

 

 数年前裁判に関して「疫学」が問題になったことがあった。

 裁判官が「疫学」を勉強し始めたと聞いたことがあった。

 そして「疫学的に原因は...」と判決が出て、報道されたことがあった。「嬉しいような、悲しいような、ちょっと妙な気持ちにさせられた」と「I.S.生」は述べていた。

 「”原因”は裁判官に聞いてくれ」と書き留めた。

 「原因」とは何か。

 「歴史的にいえば、自然科学の辞書から因果性とか原因という文字が消える第一歩は、ガリレオに始まるといってもよい」「もし医学が自然科学と全く同じ思考過程を採用するのであれば、あらゆる医学書から原因という言葉は追放されていなければならない。それが残っているのは...医学の後進性によるのであろうか」(中川米造)という。

 「”原因”という単語は抽象名詞であり、”美”という言葉と同じように、事情が変われば意味も違ってくる」(マクメ−ン:金子ら訳)と述べられている。

 「公害裁判と疫学」の中で、「この辺の判断は、あくまでもそれを担当する裁判官、行政官あるいは政治家の責任において行われるべきものであるが、そのためにはわれわれも科学的に正確なデ−タを提供する必要があるし、またそれぞれの担当者はそれを正しく判断して、目的に応じた適切な意思決定をしてもらいたい」というのが「I.S.生」の意見である。

 その疫学者が提供できる科学的判断に参考になる正確なデ−タとは何か。

 

  世は「患者」の時代と言われる。

 「医療は患者から始まる」とも言われる。

 病気の自然史が次第に判明してきた現在医療はどうしたらよいのであろうか

 病の前の状態があり、それに対処しなければならないとしたらどうしたらよいのであろうか

 病気とか患者からの健康情報には限界があるのではないか。

 ある地域のほぼ全員からの健康情報を得た後、その中の病院・診療所からの健康情報には偏りがあり、「人々の健康情報」は計画だった疫学調査によらなければ分からないのでないかと、自らの研究成果の血圧の生体情報を例にして報告したことがあった。(日衛誌,45,187,1990)

 その前に健康問題には何が問題なのかの認識がある。それをどう認識して疫学的研究を展開しているかと。

 「色々あったが戦後50年、若い働き盛りで脳卒中で死亡する人は、この東北地方でも少なくなった。その死亡を予防することが研究の目標であったからよかった」「癌研究のほとんどは役立たないと最近毎日新聞は伝えたが、計算してみると、働き盛りの人々の癌死亡は胃癌を別として少なくなっていない」と「戦後50年」(日本医事新報、3689)に書いた。

 「成人病の文化論的意義」(厚生,2,27,昭50)の終わりに、自分が研究したことではなかったので遠慮がちに「かつてタバコが万能薬として登場して以来500年、現在最大の悪として考えなくてはならぬ時代になったのではないだろうか」と書いたのだが、後の世になって首相や厚生大臣は国民に謝罪するのであろうか。

 「疫学の巨視的立場とその総合性は将来の医療体制全般の中で重要な役割を果たしうるものと信じている」と実験治療(475,1971)の「疫学の未来」に「I.S.生」は書いている。私もそう思う。

 日本疫学会誕生の日重松逸造先生と亡き学友平山雄先生と一緒の写真を思い出しながらこの文を書いた。

 平成2年5月公衆衛生院にて

 つけたりにもう一つ。

 最近どんな訳か知らないが「Who's Who in the World」から原稿の内容のチェックがきて、自分自身を英語で表現すると「何」になるかとの判断を迫られた機会があった。

 長年国立大学医学部で「衛生学講座」を担当し、日本衛生学会や日本民族衛生学会も主催させて戴き、いろいろな学会から「名誉会員」に推薦されたが、いざ「英語」で自分を表現すると一体なんといったらよいか。 私の結論は「epidemiologist」であった。(8-4-29)

 (日本疫学会ニュ−スレタ−,No.8,1-3,1996.6.15.)

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