りんご覚書(その2)

 

 昭和29年8月19日弘前市近郊の狼森(おいのもり)部落民の血圧測定を行ったが、これが「りんごと血圧」との関係を考えるきっかけになった。 

 この時の結果は後に弘前医学(11巻1960年)に「 東北地方住民の血圧」の第1報として報告したが、教室(高橋英次教授・佐々木直亮助教授・武田壌寿・伊藤弘助手の陣容で)で地域住民の血圧を測定をし始めての第3番目の対象であった。

 何故「狼森」なのかは、青森医専のとき衛生学の講義にこられた東北大学の近藤正二先生と狼森保健館を創られ品川町で開業されていた鳴海康仲先生との関係、このお二人と高橋英次教授との関係を述べなければならないし、「部落」という言葉をNHKで「使わないように」と云われたことなどあるが、別の機会にゆずることにする。

 「疫学事始」に述べたように、今考えれば病院・診療所へ来る患者の血圧ではなくて、地域社会住民の血圧を測るということは「疫学の原点」であった。そしてこのようなやり方を血圧について行ったことは「日本の中でのはしりの一つ」であった(日公衛誌,6巻,昭34.)。

 「脳卒中覚書」で述べたように、脳卒中が問題であった。そして若い働き盛りの中年から脳卒中が起こり死亡することが問題であった。脳卒中の前に高血圧があることもそれまでの研究から大体見当はついていた。だから「シビ・ガッチャキ」の「口角炎」の調査で県内を歩き始めたとき、同時に集まった人たちの血圧を測定したのである。若い人も年寄りも男も女も、大半は生まれて初めて血圧を測る人たちだった。前に血圧を測ったことのある人と初めて血圧を測った人達と血圧がどう違うかなど検討した成績を報告したことがあった(日公衛誌,6,17,昭34)。

 血圧をどのように測定し、記録し、集計し、考察するかは、前述の第1報また「血圧論覚書」に述べたが、狼森での測定成績は「所謂正常範囲に入り」「東北地方にはめずらしい集団」だと考えられた。そしてこのことが「りんごと血圧」との関係を考えるきっかけになったことはたしかだが、はじめから「りんご」また「NA/K比」があったわけではない。

 私は慶應の衛生時代に「有機燐製剤による農薬中毒」を手がけていたので、弘前にきてすぐ弘前医学会(昭29.5.30.)で「新農薬中毒の予防についての一考察」を発表している。ホリド−ル中毒が社会問題化した時代であった。 狼森部落はりんご栽培を主とする地域であったから、その中毒の実態と予防について血漿中コリンエステラ−ゼ活生値・尿中パラニトロフェノ−ル排泄状況などを測定調査研究を行って報告(日公衛誌,1,400,昭29.)した。陸奥新報(昭29.6.18.)は「弘大佐々木助教授中間報告・連続使用十時間が限界か・パラチオン散布の人体影響」と報道した。

 だから「農薬」が「肝臓」にでも影響を及ぼして血圧が低いかとも考えたが、農薬に関係する人も無い人も血圧は一様であったから、その関係は頭の中で否定した。

 次ぎのテ−マはビタミンCとの関係であった。

 このことについては弘前医学(6,366,昭30.)に一つ論文を書いたが、その前に報告した「夏冬の血圧の比較」との関係もあり、血中・尿中総VitC量、VitC負荷試験、インドフェノ−ル皮内反応を行った結果、積雪期には体内VitCは極端に不足状態にあることが明らかになり、りんご部落民といえどもVitCが充分とはいえないことが判明した。だからVitCで狼森の血圧の状況を説明することはむずかしかった。VitCについては、葛西文造先生らの優れた研究があり、私の書いた「りんごと健康」の中でくわしく紹介したが、私としてはそれ以上追究しなかった。

 われわれのやった研究のことを陸奥新報の記者がかぎつけて記事にした(昭30.5.12.)。その時の標題は「健康部落狼森に珍現象・大半が潜在栄養失調・弘大の調査で判る」で、一番の「健康部落」と世に評判が高かった狼森での珍現象との記事であったが、部落民に物議を醸し出した記事であった。でもその後20年以上狼森で血圧など継続観察することができた。

 青森県内では津軽だけではなく、南部にも行った。また秋田県内にも足をのばした。

 昭和30年には近藤教授によって秋田県内で有数な壮年期脳卒中死亡率の高い村と紹介されていた河辺郡種平村へも調査にいった。 この時のいきさつについては伊藤弘君が「衛生学開講25年誌, p156」に「悲しいことに小生の郷里」宿泊した村長さん宅が「私の祖母の実家なることが解り、大いにあわてた様な一幕もあった」と書いているが、私の日記にも、「村長さんからして高血圧」と目の前の水田をながめ、「どうしてここの人たちは血圧が高いのか」と普通の血圧計で測られないような人が沢山いたことへ「何故なのだろう」との疑問を書いている。

 次ぎの問題は食塩の問題であった。

 それまでやられていた研究によって「水田単作と畑作」「野菜摂取不足」との関係が認められ、高橋教授が東北大学へうつられてから提出された伊藤弘君の学位論文「食生活と高血圧殊に脳卒中死亡率との関係」はそれらをうらづける成績であった。

 当時食塩はクロ−ル排泄量から考えられていた。戦前から副腎皮質の機能と食塩との関連を生理学的に研究しておられた千葉大生理の福田篤郎先生が秋田農村での高血圧との関連で実態調査をされ、食塩と高血圧との関係の解釈に悩まれていた話は「食塩覚書」に書いた。

 丁度炎光分析が臨床検査に用いられる時代になっていた。

 化学分析では大変困難であった「Na」の分析が可能になった、また同時に「K」も一緒に簡単に測定できる時代になった。

 私が慶應の衛生の時代に諸先輩達が苦労してCaとかKを測定しているのをみていた自分には炎光分析は大変な方法であった。

 高橋先生が近藤先生の後任として仙台にうつられ、助教授の私が教授に選任された。伊藤君は内科にうつり、武田君には講師から助教授になってもらい、前から教室の研修員で県の衛生研究所にいた福士襄君に助手になってもらった。彼は薬学出身であったので、炎光分析をやってもらった。そしてそれを野外調査に、今いう「疫学的」調査に利用したらと考えて実施した。

 東北地方で測定された血圧の高い村(秋田県鷹巣町栄)と低い村(弘前市狼森)につぃて、血圧測定と同時に提出してもらった尿資料につぃて、同時測定したクレアチニンの尿所見とNa/Kと血圧との関係を検討した報告を医学と生物学(39,182,昭31.)に速報した。「医学と生物学」という速報雑誌は慶應時代から存知上げていた緒方富雄先生らが関係していて、論文は日本語であっても、Chemical Abstractなど国際雑誌に掲載される雑誌であったからある。

 前に報告した「ミソの食塩濃度」「気温」と「脳卒中死亡率」との関係についての報告につでの速報であった。

 この時初めて(世界で初めて?、Dr.H.G.Langfordが国際学会の懇親会で私のことを他人に紹介したとき云ったと記憶にあるのだが)血圧あるいは高血圧とNa/K比との関係が考察されることになった。(991025apple2)

(弘前市医師会報,268,71−72,平成11.12.15.)

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