脳卒中覚書(名称と分類)

        

 「ことば、文字、そしてその意味」として、私が経験した「脳卒中」を例として書き留めておく。「脳卒中」が今一般的に用いられているという立場からである。

 この津軽に「あだった」という言葉があることは、昭和29年に弘前にきて初めて知った。東京生まれだったから、はじめは「あたった」と「た」をすんで発音していた。

 英語の論文にもはじめ”attata”と書いたことがあった。

 「N..Sasaki:Epidemiological studies on hypertension in Northeast Japan. pp367-377,:Epidemiology of arterial blood pressure:edited by H.Kesteloot and J.V.Joossens, Martinus Nijhoff, 1980.」に「In the northestern region of Japan, there is an expresion ."attata", which literally means "was being affected by". This is an old expression and the exact meaning of the word is unclear, but it seems to be "apoplexy", which has been observed since the ancient Greek era.」と書いた。

 津軽の方言によれば”あだり”(adari)であって、それに関連ある言葉として、”ぼんとあだる””びしっとあだる””どだっとあだる”があり、さらに”かすった””しびれる”がある。それぞれ、実際にこの地域の人々の間に見られる状態を言葉で表現したのであろう。この点 古代ギリシャで”apoplexia”と言っていたのは、語源辞典によれば、”apo=from””plexis=a stroke””ia=condition”とあり、ガレヌスの時代に用いられた”apoplessein”は”sudden loss of feeling and movement of the whole body, with the exception of respiration”をさすとあった。 ギリシャでは医学は”観察””記録”そして”考察”から”科学””医学”が始まったと考えられる。

 漢字の国中国にもこのような病状を示す言葉はあって、これを”卒中””中風””中気”といっていた。それぞれの疾病観によるものであろう。中国は”観察””経験”は積み重ねられてきたが、それを当時の中国医学によって考察されてきたのであろう。

 その中国医学が日本にも入ってきたと考えられる。

 文献(相沢豊三,堀江健吉:日本における脳卒中の歴史.日本医事新報,上中下,1978)によると中国医学の影響を考えることができるが、その証拠として、”中気””中風””卒中”が日本全国に同様に行き渡っていたことを調べてみて知ったことがあった。その土地に生まれ育った保健婦さんたちの協力によって、現在の脳卒中を何といわれているか調べたところ(仁平將・佐々木直亮:循環器疾患を表す言葉についての研究.保健婦雑誌,40,118-123,1984.)「中気・中風・卒中」が全国的に一様にゆきわたっていた。

 しかしそれとは別にそれぞれの土地には古くから言われてきた循環器疾患にあたる言葉があって、それぞれ特徴があった。津軽の「あだる」と同様にその病状をじかに見ているような、「一とき中気」「ぶらぶらになりんさった」など、その様子を表現しているようにうけとられた。また現在アメリカなどでいわれる「heart attack」のような心臓病にあたる言葉はほとんどなかった。

 昭和29年当時弘前大学医学部をあげて取り組んでいた「シビ・ガッチャキ」の研究を最初に発表された増田桓一先生から、祖父の亀六(キロク)先生が書かれた診療録を見せて戴いたことがあった。それには「シヒ」の他、循環器疾患と思われるものに「脳溢血」「脳充血」があった。亀六先生は佐倉順天堂で明治初期当時の近代医学を学ばれた先生なので、「中国医学」ではなく「西洋医学」による診断名を診療録にしたためたのであろう。「脳溢血」とは病理解剖の知識がなければつけられない病名と思う。

 そしてわが国で初めてこの種の疾患にたいして系統的な総合的な学術研究(日本学術振興会第43小委員会)が始まった時に名付けられた名称は「脳溢血」(西野忠次郎編,丸善, 1950)であった。

 わが国の脳卒中の研究は「脳溢血」の研究をされた方々の人脈をそれぞれ引き継いだ形で展開されている。弘前大学でいえば東北大学の、そして青森医専ができたとき衛生学を出張講義された近藤正二先生を引き継いでいる。近藤先生は脳溢血の成因・予防を目標に「衛生学的研究」を展開された。その後を引きついだ高橋英次・佐々木直亮は「東北地方住民の脳卒中ないし高血圧の予防」を目標に「疫学的研究」を昭和29年以降展開した。

 われわれが研究を開始した昭和29年当時、厚生省から発表される人口動態統計資料によると、脳卒中は解剖学的部位としての「中枢神経系の血管損傷」に分類されていた。

 国際疾病分類(International Classification of Disease:ICD)は「一定の基準に従って疾病の本質を割り振る分類法のシステム」であり、使用目的・分類原則がある。学名カタログ(リスト)である学名分類とは異なるものであり、死因としては「原死因」(underlying cause of death)を採用することになっている。

 臨床で命名した「病名」はどうであっても、それを統計上「グル−プ分け」にした「名称と番号」に入れなければならない。従って見たところ同じ「名称」であってもその内容はことなるのである。また「直接死因」が数えられるのではなく、「原死因」を採用して、その数が数えられるのである。また脳卒中の場合など、ほとんどその前に高血圧状態があると考えられるのであるが、「高血圧」を採用し「原死因」にはなっていない。「原死因」の採用には一定の約束が決められているので、それに従って分類されている。その約束が変われば、集計されてくる数値はことなる。最近の具体的例を示せば、平成7年に人口動態統計で心疾患が死因順位2位から3位に転落した理由は分類が変わった為であった。平成9年以後再び2位になったが。

 1853年第1回国際統計会議においてW.Farrらによる国際死因リストでの分類にあたっての基本的な考え方が反映した疾病分類が採択され、その後医学的研究の進歩に従って10年ごとに修正され今日に至っており、死因分類にも歴史的に動向がある。

 わが国でもそれをうけているので、厚生省から発表される人口動態統計資料の内の脳卒中の場合は, 1900年から1908年まで「脳充血・脳出血・脳軟化」、1909年から1932年まで「脳出血・脳軟化」、1933年から1945年まで「脳出血・脳塞栓・脳血栓」、1946年から1949年まで「頭蓋内血管の損傷」、1950年から1957年まで「中枢神経系の血管損傷」、1968年からは解剖的部位としての「中枢神経系」から機能的な「循環器系疾患」の中の「脳血管疾患」に分類されることになったが、1995年からはWHOが勧告した「第10回修正国際疾病、傷害および死因統計分類(ICD-10)」によって、脳血管疾患は、「解剖学的系統別の疾患」のうちの「IX循環器系の疾患(I00-I99)」のうちの「脳血管疾患(I60-I69)」になった。「I60」はくも膜下出血、「I61」は脳内出血、「I63」は脳梗塞」、その他「I62,I64,I67, I69」などの項目、番号がある。

 わが国の疾病統計ははじめ国際的な信頼性を得ていなかったようである。わが国の脳卒中の大部分がわれわれが研究を始めた当時の死因分類の「中枢神経系の血管損傷」のうちの「脳出血」(331)に分類されていたからである。欧米では「脳塞栓症および脳血栓症」(332)が多かった。WHOで国際比較が行われたときとか、冲中重雄先生が国際会議に出られたときに批判をうけられたが、それを納得させるだけの研究がなかったことから、文部省の班会議「日本人の脳卒中、殊にその特殊性」を作られた。その班に私が何故推薦されたかのいきさつについては「成人病から生活習慣病へ」(弘前市医師会報, 258)に書いた。

 冲中先生の班会議で始めに行ったことは「脳卒中の診断基準」であった。症例ごとに臨床症状を書いて、全国からの班員にくばり、それぞれの症例にどのような診断名をつけるか出してもらったことがあった。同じ臨床症状でもある班員は「脳動脈硬化症」ある班員は「脳軟化」「脳出血」「脳卒中」などなどさまざまであった。杉田玄白の時代ではないが、それぞれの大学の「学派」による「診断名」であった。

 丁度Millikanの分類(Neurology,8,397-434,1958.)が発表になったばかりだったので、相沢豊三先生を中心にそれをもとに診断基準を作成した。これが後に「冲中分類」といわれるものになった。青森県でも班員の一人大池弥三郎先生を中心にその「冲中分類」の講習会が行われた。しかしこの分類は「臨床的」なもので、前に述べた「国際疾病分類(ICD)」とは異なるものである。この点がよく理解されないのではないかと思うことがある。

 疾病分類またその基礎になる疾病の病名については、まだ「臨床的」それも各科別にまた「病理解剖的」にもいろいろあって、それぞれに目的・意義はあるが、国際疾病分類的(予防医学的発想による)考えがよく理解されていないのではないかとの思いである。

 弘前大学医学部30年誌を作ったとき、各科の疾病分類が各科まちまちであった。これはその科としての目的があるからそれはそれとして良いと思うが、国際疾病分類とまたそれをうけている厚生省の人口動態統計による病名とは共通の土俵では論じられないと思うのだが如何なものであろう。まだこの点がすれちがっているというのが私の感想である。(990830)

(弘前市医師会報,267,68−70,平成11.10.15.)

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