食塩覚書:その1”日本の塩の先生”推理

 

 学会で勝木司馬之助先生(九大内科)にお会いしたとき、先生は国際学会からお帰りになったあとだったか、「”日本の塩の先生はどうしていますか”と聞かれましたよ」と笑いながら私に話かけられたことがあった。

 この時「先生」という言葉を外国語でなんといって話かけられたかは聞き損なったのだが、こんなことが外国での話題になったことは嬉しかったという記憶がある。

 何故この私が「日本の塩の先生」と言われたかを私なりに推理してみると、次ぎのようになる。

 まず第一は高橋英次先生が弘前におられたころ、助教授の私と助手の武田壌寿・伊藤弘と四名で秋田・青森の地域の人たちの血圧を測り始め、現在いうところの「疫学的研究」を始めたが、その初めの頃の成果、特に日本に於ける脳卒中死亡率の地域差と室内温度環境との関係を中心に、先生がまとめられ、書かれた「The Geographic Distribution of Cerebral Hemorrhage and Hypertention in Japan」を、先生が前から「人類生物学研究の論文」を投稿されていた「Human Biology」という雑誌に掲載され(Human Biology, 29:139-166,1957.)たことによって国際的に知られるきっかけになったのではなかったかと思う。

 そしてその論文の中でその当時までに得られていた食習慣のうちの食塩過剰摂取の問題を指摘したことにあったと思う。

 またその日本に於ける脳卒中の地域差も「30-59歳」というわれわれが名付けた「中年期の脳卒中死亡率」の地域差が図の上で視覚的にはっきりと示されたことにもあったと思う。なぜなら、アメリカで高血圧と食塩との関係を追究していたL.K.Dahlが高血圧に関する国際シンポジウム(1960年)で自分の動物実験で追究した食塩摂取と高血圧発現との推論が人間にも当てはまるのではないかとの「Possible role of salt intake in the deveropment of essential hyperension」を発表したとき、その中でわれわれがHuman Biologyに示した日本の脳卒中の地域差を示した図の上に、日本における食塩摂取量に関する資料として福田篤郎先生の秋田での食塩測定値とド−ル先生自身が広島(ABCC)で測定した値と私の資料からの値を入れた図を重ねて示していた。

 

 また他のいくつかの国際的な人口集団(エスキモ−とか太平洋の島とアメリカでの)における食塩摂取量と高血圧出現率との関係を人間における関係として示した。その時に日本の東北地方での食塩摂取量が際だって多いことを世界に印象ずけ、また私の名前がでたことがあったと思う。ド−ル先生との私信と資料との交換は衛生の旅Part 1の「ド−ル先生との出会い」に書いたように1959年以来である。

 二番目に考えられることは、我が国でも循環器疾患に関する英文雑誌「Japanese Heart Journal」が創刊されることになり、編集委員長の上田英雄先生から、どのような理由かは分からないが、私に原稿を書くように依頼があった。そこでそれまでの研究を「High Blood Pressure and the Salt Intake of the Japanese」(Jpn. Heart J.,3:313-324,1962.)にまとめることができた。この論文は国際的にその後よく引用されることになった。

 例えばA.C.Guytonらが高血圧についての成書(Arterial Pressure and Hypertension,1980)を書いたとき、慢性的な食塩多量摂取が高血圧に及ぼす影響を示す点で「ほとんど反駁できない(irrefutable)証拠」として私の論文を引用している。

 またこの論文には弘前近郊のりんご栽培地域の人々には中年期脳卒中死亡率でみた脳卒中が少ないとか、実測された人々の血圧が東北地方としては比較的低いという事実を示し、またナトリウムやカリウムの尿中排泄量の実測値を示し、その解釈としてりんごによるカリウムの摂取がナトリウムの過剰摂取の害を低減するのではないかとかNa/K比との関連を考慮すべきとの推論を述べた論文であったので、その後よく引用されることになった。

 この論文がでたせいかどうかはわからないが、「Geriatrics」からも原稿依頼がきて「The relationship of salt intake to hypertension in the Japanese」(19:735-744,1964.)を書いた。これらの論文は英文であったので、良く読まれたのであろう。

 このような論文が循環器疾患とくに心臓疾患についての国際的疫学的研究を考え、実際に木村登先生らと「Seven countries study」をやられたミネソタ大学のA.Keys先生の目に留まったのであろう、手紙を戴いた。なんとその理由は分からないのだが私への宛名は岩手医科大学宛であった。

 そんなこともあって文部省の在外研究の機会が与えられたとき、1965年から66年にかけてミネソタ大学のA.Keys研究室へVisiting Prof.とし滞在・研究できた。

 この研究室は当時国際的に問題になりつつあった循環器疾患、とくにその狙いは心臓疾患にあったのだが、国際的に展開されてきた心臓病・高血圧研究における「疫学研究」のメッカでもあった。

 私は「地球疫学的」立場から食塩と高血圧との関係を、まだ当時は疫学的研究資料としては「横断的な疫学資料」ではあったが両者の関連について検討し、私の血圧論に基づく「作業仮設」を1966年大学で開かれたセミナ−で発表することができた。

 それがまた1970年ロンドンで開かれた第6回世界心臓学会の高血圧の成因に関するRound Table Sessionで「食塩因子」について私に報告するよう指名があったこととつながったことと思われる。

 世界心臓学会でのシンポジウムの2つを出来たばかりの「疫学と予防の会」(Council of Epidemiology and Prevention)が受け持つようになりその内の一つの会であり、高血圧の成因について「食塩」を日本の食塩摂取と高血圧の実情を示し、指摘した私に注目されたからと思うのである。 

 1970年(昭和45年)というと高血圧についての成因として「食塩」は一部の学者を除いては関心をよんでいなかったのは実情であったのであろう。ロンドンでの会のとき東洋からきた一学者が世界一多量の食塩摂取をしている東北地方農民の疫学的な血圧の測定値からいわゆる高血圧者が多い(私は高血圧者出現率というより、私の血圧論に基づく各種人口集団の年齢別血圧水準と分布をみるという見方で報告したのであるが)に関心をもたれたことは事実であろう。その証拠にテレビのインタ−ビュウによびだされたり、医師への教育テ−プに録音されたり、またそのためかどうかははっきりしないののであるが、Pfizer社で刊行している国際的な雑誌「SPECUTRUM:22'80」に英独仏その他の版に私への依頼論文「Salt and hypertension」が掲載されたこともあった。

 それらのことが外国の研究者の記憶にのこって、はじめに述べた「日本の塩の先生」という言葉になったのではないかと推察するのである。(1999.3.7.)

弘前市医師会報,265,58−59,平成11.6.25.

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