学生諸君へ書いたこと

 

 私は弘前大学医学部で”衛生学”を担当する教員として一生の大半を送った。

 教授になってようやく自分の考えを、言葉・文字で表現することができるようになったとの思いがある。

 私の”衛生の旅”の中で、”WHO’s WHO”に”educater”として掲載されたことについての反省を前に書いたことがあった。

 弘前大学医学部のほかに、青森県内では公衆衛生・疫学・健康科学に関する講義で、東北女子短期大学、東北栄養学校、弘前大学文理学部、弘前学院(聖愛短大)、弘前厚生学院、青森県立青森高等看護学院、東北北女子大学、弘前大学医療短期大学部、弘前医師会看護学院などで講義を受け持った。県外では岡山大学、長崎大学、慶應義塾大学などで講義をしたことが記憶にある。

 講義のほかに、地域社会へ出て、各種の会合で、喋ったことが思い出されるが、その中での一言を覚えて居られる卒業生や方々にあうことがあるが、録音などに記録のあるものの他、活字にはなっていない。

 原著論文とか各種雑誌に書いたもの(記録・図書)は、どこからも文句がつけられないように書いているが、衛生の旅を読み返してみて、学生諸君には割と率直に自分の気持ちを書いたことが読みとれる

 以下学生諸君へ書いたものをリンクできるようにした。

(昭和30年以降、 掲載誌、 ”p”は衛生の旅掲載号と順番)

 

30 総合的な立場から人間の姿を    弘前大学新聞    p3 03

 この4月に京都で医学会総会が開かれたことは大抵の皆さんはご承知のことと思

32 公衆衛生イロハ            弘前大学新聞    p3 07

 イツ酸化炭素中毒というと個人衛生の問題といった方がよいかもしれない。でもこの方面の研究を長年やっている自分には、いの一番にあげたくなるのは人情であろう。

32 OVERCROWDING AND UNDERCROWDING  学友会誌  p3 08

 この題名から受ける印象では、人が大勢部屋にいて空気が汚れるとか、温度の環境が悪くなるとかいう、近頃映画館などで問題になっているような内容をさしているのでは

33 これからが勉強だ          紫苑(東北女子短大新聞)p3 31

 3月に入って毎年きまって訪れるものに、卒業試験の採点、就職問題、結婚話、更に入学試験、そして謝恩会とくる。毎日の新聞にも就職難、入学難を報じ、新しく

35 感じたままに           弘大医学部創立15周年記念誌 p3 32

 医者になって、苦痛をもった患者を診療治療してその悩みを救った時、自分が医者となった感激を身にしみて感じるに違いない。何時間もの手術のあとその患者が

36 学内ゼミナ−ルによせて      1961年弘前大学祭p3 33

 今年、昭和36年の夏には、全国の医学生や、看護学生の皆さんを青森県の八甲田、十和田、弘前へ迎えて、サマ−キャンプが開かれた。

36 保健医学研究会へ         保医研       p1 47

 今話題になっていることに、医療制度の問題と医学教育の問題がある。 医療制度の問題とは、新聞紙上をにぎあわしているところでは、社会保険の点数

36 保健婦さんへ           会報        p1 48

 保健婦、保健婦といわないで、保健婦さん、保健婦さんといいましょう。それは保健婦さんの仕事が世の中で重要だからであり、又保健婦さんが女性であるからです。

39 私の日曜日 スキ−に行こう 夏はヨットへ 弘大医学部新聞 p1 52

  弘前に住むようになって早10年、私には日曜日がある気がしない。あるのは日々である。一面毎日が日曜日のような気もするのである。

40 ヨット部報へ           溟風        p1 50

 ヨットはスポ−ツのうちで、頭脳的で、自然の力をうまくつかい、一寸貴族的で、、一寸金がかかって(これはこまるな)きれいな空気をすって、太陽をあびて、誠に健康的であることが気にいりました。

43 ひとことふたこと         北灯        p2 20

 久し振りに女文字の手紙が来た、と思ってあけたら、何と原稿の依頼でした。昨年はプロフィ−ルに紹介されただけですんだのに、今年は「諸君、衛生統計だけではなく、?を聞こうではないか!」というつもり

43 ”芽生え”へ           派遣保健婦文集   p3 34

 昨日青森で開かれた衛生部職員研究集会に行って来ました。助言者として呼ばれたのですが、皆さんの仲間の何人かの方におめにかかりました。その時私が発言したことを書き留めておきたいと思いま

 45 あたり・高血圧・食塩・りんご   学園だより     p2 23

 ある大学受験案内の雑誌に「弘前大学医学部には、循環器・高血圧・ガンの研究で権威者が多く、とくに脳卒中研究の権威佐々木教授が有名」と書いてあった。

46 保医研へよせて          保医研       p1 47

 今話題になっていることに、医療制度の問題と医学教育の問題がある。 医療制度の問題とは、新聞紙上をにぎあわしているところでは、社会保険の点数なり、医療費の検討であるようにみえるが、これは表面的なもので、その根底には、過去

47 弘前だより(スキ−)       SUPUR       p1 49

 ”SPUR””シュプ−ル”とは良い題をつけたものだと思う。昭和34年3月、橋本功・花田雅寧・松谷善吉の諸君が編集者になって第1号を出してから早や10数年、ここに第10号を出すことになったのは喜びである。

48 衛生学私は何故現在の科目を選んだのか 日本医事新報(ジュニア−)p1 59

 物心ついたとき、慶應義塾の幼稚舎へ入っていた。普通部へ進みさらに大学への道をあゆむときが、第一の選択の時期であった。すなわち、”経済”へ進むか、”医学”か

50 疫学的アプロ−チ         日本医事新報(ジュニア−)p1 67

 もしもいつか、あなたがイギリスのロンドンに行くことがあったら、John Snowの”Broad Street Pump”のあとを、見に行くことをすすめたい。

53 ”コホ−ト分析”によせて     学友会誌       p4 05

 ”コホ−ト分析”ということばが、医師国家試験の中に登場するようになった。 昭和48年の4月には、原語でcohortと、52年の4月には、コホ−ト分析とでていたが、われわれが、このことに関心をもつようになってからかれこれ20年にもなる。

54 男と女              北灯          p1 64

 たしか、「男性からみて職業婦人をどうみるか」といった題を与えられた−−−授業の終わりに−−−、北灯への原稿をたのまれたときに−−−と記憶しているのだが

54 ”コホ−ト分析”によせて     日本医事新報(ジュニア−)p1 68

 ”コホ−ト分析”という言葉が、医師国家試験の問題の中に登場するようになった。 昭和48年の4月に初めて原語の”cohort”分析がでた。52年4月には”コ−ホ−ト”分析と出ていたが、53年4月と10月には”cohort study”として出ていた。

55 健康随想・冬           学園だより       p2 41

 弘前に生まれ育った人は、ここの冬を、冬の生活をどのように考えているのであろか。とくに”健康”とのむすびつきにおいて。

56 専門課程へ進学した諸君へ     専1スペシアル     p3 37

  去る3月23日の朝のテレビに放映された一寸した会話が、私にとっては印象的であったので、このことを諸君につたえておきたいと思う。

57 ”高血圧”アンケ−トに答えて   医学祭プリント     p3 24

  1.高血圧研究のなかで思うこと 日本の東北地方に”あたり”といわれている脳卒中の本場にきて、その研究にとりくんで30年近くたってしまった。

58 世界塩の旅            弘大キャンパス・ジャ−ナルp2 31

  昨年の夏は、ボ−ナスをはたいて、モスクワへ行ってきた。第9回世界心臓学会へ参加するためである。

58 衛生の旅1&2           医学生ゼミニュ−ス   p2 42

 青森は、その名のごとく自然にめぐまれ、八甲田山あり、十和田湖あり、又弘前市にはお城もあって、昔の日本がまだある。

59 入学生に贈る言葉         ’84新歓       p3 38

 「入学生に贈る言葉」は、去りゆく人に「贈る言葉」のようにうたの文句にはならないが、「医学部入学」という目標を達成した諸君に、まず入学おめでとうという次第である。

59 再び保医研の諸君へ        保医研         p3 36

  私の「衛生の旅」には、保医研の諸君に向けて書いた小文の記録がある。  昭和36年 「保健医学研究会へ」  昭和46年 「保医研によせて」  昭和50年 「保医研の真髄」

60 近ごろ嬉しかった話        学友会誌         p4 36

 3年生衛生学最終の試験の時だった。 定刻5分前に問題の紙をかかえて医学部講堂へ入った時、私を待ち構えていたのは、巻紙を持った一戸紀孝君と赤いバラの花束を持った宮崎恵子さんだった。

61 あっという間の30年       学園だより        p3 44

  編集委員の中村幸夫君が久しぶりに教授室にやってきた。 ”退官”の特集を組むので、何か書いて下さいとのことであった。

61 昭和32年という年        弘道            p3 06

 昭和32年という年は、弘前大学医学部30年史によると、4月1日には医学部7回生の入学者の発表があり、30年4月医進入学の56名と文理学部2年修了の者で試験による20名、計76名を迎えた年であった。

62 常磐村の保健活動のはしり     十周年記念誌        p4 32

  それは私が弘前大学医学部衛生学の教授になって間もない昭和32年であった。 医学部の衛生学の教育では、教室での講義実習のほかに、学生の自由研究をやっていた。

62 思い出すこと            三二三会卒後30周年記念誌 p4 33

  いつだったか吉田豊教授がクラス会ででた話を教えてくれたことがあった。 それは私の「医事法制」の講義をただ一人聞いてくれた方の話だった。 ああそんなことがありましたね。

62 思い浮かぶこと          弘大短大30周年記念誌    p4 38

 いつだったか大分前のことになるのだが、品川信良教授らと、看護大学のような構想を話しあったことがあった。

もとへもどる