衛生学

 私は何故現在の科目を選んだか

 

 物心ついたとき、慶應義塾の幼稚舎へ入っていた。普通部へ進みさらに大学への道をあゆむときが、第一の選択の時期であった。すなわち、”経済”へ進むか、”医学”かということであった。父は実業畑にいたが、母方は代々の医家であったこと、医学部へ進むだけの成績にあったこと、人から”直ちゃん”は器用だから外科でもやったら、といわれたことなど頭のすみにある。

 小・中学校時代に満州事変・日中戦争がおこり、やがて専1になった昭和16年に太平洋戦争に入っていくという、大正10年生まれの戦中派の私にとって、第二の選択は、陸軍をとるか海軍をとるか、ということであった。福沢諭吉を”文弱”ときめつけていた陸軍より海軍びいきだった当時の塾長小泉信三先生の木曜会にかよっていたこともあり、陸軍に入っても”東大出”でない限り一番にはなれないという風説を耳にしたりした中で、極めてスマ−トにみえた海軍に入ることになり、それも卒業直前に現役としての委託学生になった。

 卒業が半年もくり上がった昭和18年9月、卒業証書を手に学窓より軍隊へと伝えた新聞記事が思い出される。青島(チンタオ)・築地での訓練期間中に、全国に多くの友を得た。しかし、その後多くの友を失ったことに胸をいためた。

 佐世保で終戦を迎えたときが第三の選択の時期であった。現役の軍医は、私のような下ったぱの者でもパ−ジになった。もしそれがなかったら、衛生行政の道をあゆんだことだろう。教職も勿論ゆるされていなかった。その上、東京へ入ることも困難な時代に、もう一度勉強し直そうと考えたことが実行できたことは幸いなことだった。身軽な身であったので、無給・アルバイトで結構やれた。

 相談の先は、母校の予防医学教室であった。草間良男先生は学部長になられ、学問の指導は原島進先生の代になっていた。学生時代から出入りしていたこともあり、補導会でお世話になった上田喜一先生が助教授でおられた。

 一酸化炭素とヘモグロビンとの関係を追求することになる。日比谷の文化センタ−に文献をうつしにかよったことも思い出される。数年間に世界中の文献をあさり尽くしてそれなりに自信もつき、学位をもらい、講師になり、ややおくれた結婚も機会にめぐまれた。 その頃、弘前大学の衛生学教室を受け持たれていた高橋英次先生から声がかかった。高橋先生の話によると、「助教授になるにふさわしい人を、当時多くの俊英をかかえていた原島先生のところへもらいにいった」とのことである。

 31年に全国でも一番若く教授になれたが、脳卒中や高血圧の本場にある大学に身をおき、またたく間に20年近くたってしまった。衛生学をとくに選んだという意識はない。しかし、コス島のハイジエイヤの像をみ、衛生学の本質にふれるとき、あゆんだ道に悔いはない。ますます衛生学の重要性が認識される世の中がくるに違いないと思うからである。

(日本医事新報ジュニア−,125,30,昭48.8.15.)

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