情報・情報についての記憶のつづき

 

 私の衛生の旅の中で「情報」という言葉をつかったのは、「生体情報としての血圧値」であった。丁度「言葉のもつ意味」を考え始めた時であったか。

 「窓を開ければアイコンが見えるよ」を「戦後50年」を書いてから早10年、今年は戦後60年がテ−マである。

 「覚書」を書き「記憶」を書いてきたが、最近は「情報・情報」が気になってならない。何が正しい情報なのかと。

 わが国ではラジオ・TV・新聞・コンピュ−タと情報は溢れている。

 青森という一地域のこと、東北地方のこと、日本のこと、アジアのこと、世界のこと、いずれも分刻みで情報が伝えられている。

 その中で「日本の9.11」はどうなるものかとか、「イラン・イラク・北鮮」のことを考えている。

 「情報・情報についての記憶から」のつづきを書いておこうと思う。

 近く6か国協議が開催されるという。「北鮮」のまた「イラク」での原子力の平和利用にアメリカは”うん”といわないようにみえる。

 それで思い出すのは、敗戦後の佐世保海軍病院の米軍への引き渡しのときに、建物以外全部外へほおりだしたのに、原子爆弾のせいかとも思われたが、「放射線科」で使っていら「ラジウム」について厳重にその取り扱いに注意された思い出がある。

 わが国で「原子爆弾」でも作られたらかなわないなと考えたのではないかと推測した。

 私は佐世保海軍病院にいて長崎の原爆の火傷患者の手当をやっただけだった。

 広島・長崎へアメリカの調査団がすぐやってきた。また後にABCC(原爆傷害調査委員会)ができた記憶がある。ABCCへ先輩の槇先生を訪ねたこともあった。

 その予算でDr.Dahlが広島へやってきて「日本における経験」のレポ−ト(内容は食塩摂取に関するものであった)を書いた。それを読んだことを思い出す。循環器関係でも貴重な研究が行われたことも記憶にある。ハワイのDr.Kaganが”The Japanese Three”の”NI-HON-SAN Study”と”日本さんstudy”を聞いたのもABCCでの研究がもとになった。 重松先生が日本側の理事長になったことも思い出される。

 広島で開業していた慶應の弓の後輩Y君が戦後色々研究した成果を公表出来なかったと聞いた記憶がある。

 東大の今泉先生だったか講演のとき、「放射線をあびてもいいが、それにみあうだけの危険手当をよこせ!」といった会場からの発言があった記憶がある。

 エネルギ−のない日本で、原子力発電などなかなかゆるされなかったのではなかったか。

 日本は無条件で降伏した国であったから、GHQの命令は絶対的であったのであろう。

 そのうちわが国でも原子力発電がやれるようになったのも、アメリカから日本が”信用”されるようになったからではなかったか。

 でも原子爆弾の洗礼を受けた日本では”原子力”にアレルギ−ができてしまった。今や軍艦の動力が原子力の時代になったとはいえ、新しい軍艦のわが国への寄港が認められないのはアメリカとしては痛しかゆしの気分ではないかと推察する。

 敗戦の記憶のない国はどんな体制でも独立した国としての気概をもつのであろう。

 ”平和利用”に文句はつけようもないが、いつ原子爆弾のような兵器への転換ができそうな場合には”うん”とはいわないのであろう。

 人の云うことを信用するということは、どういうことなのであろうか。

 個人的なことはその個人同士の関係であるが、「国」というものになった場合はどうなのであろうか。

 「独裁的」という言葉が今も使われているが、「独裁的」といわれる国の意思は何によってかたちずくられるものかと思う。

  日ロの関係が今後どうなってゆくものかと思う。

 「我判断をあやまてり!」で国の運命が左右されてしまうのはどうしたものかとも思う。

 日本の9.11に向けて舌戦は盛んになったが、「本当の情報は何か?」の疑問はつきない。 (20050828)

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