My Life after the Surrender. 15/8,1945-

 

 私は何かきっかけがあると 日記を書き始めているようである。

 手元に”My Life afer the Surrender”と大学ノ−トの表紙に書いている日記がある。

 昭和二十年八月十四日付の”詔書”と「今にこそ武士の嗜」「阿南陸相らの継続論に最後の断、嗚咽にみつ御前会議」「かくて終戦の聖断降る」との新聞記事の切り抜きと一緒にあった日記の始めは「終戦の日」のことを書いていた。

 

 「雲仙を下りて佐世保へ来てより 日一日の変り様だった。

 軍機軍極秘の電報に眼をうばわれて居る内、広島長崎の原子爆弾に、佐世保へ来るのは今日だといった日がつづいたものだった。

 あの朝の定期の防空壕から出て来ていざ作業にかかろうとする時だった。妙に真剣な顔をした三浦理事生が軍医長何かうわさをお聞きになりましたかと云った。その時すでに大船団が本州に近づきつつあり特攻隊は警戒警報になって居ることは知って居たがそれ以上の何物も想像することは出来なかった。と車庫長が入って来た。軍医長本部へ行かれないんですか 准士官以上総員集合です。寸前鎮守府で所轄長会報への送りをすましたばかりの車庫長の言も何かしら緊張して居た。

 本部ではすでに会議が進んで居た。立入禁止の札も何かしら普段と違っていた。皆のこわばった顔が陽の光に光って居た。中に配給の酒に顔を赤らめて上気した顔もあった。

”無条件降伏した相です”我が耳を疑ったこの言葉が隣の兵曹長の唇からもれた。

斯かる言葉が日本にあろうか。最後の五分間の努力はこれからだ 生か死か 日本が勝か然からば死かの戦争 世界史に又とない戦争と考えて居て少しも疑いはなかった。 この日本に斯かる事実が現実になったのある」

 これが終戦の時の自分の気持であった。

 その日丁度配給になった一升瓶を友人と二人して飲み明かした事いがい記憶はない。

 

20.9.25. 京都杉山での一夜の日記から

 「此の日 僕にとっては次ぎの時代を画する一日であった。

 それは大阪の彼女を訪問した日の事だ。雲仙からの求婚状の相手それは山本の英子さんである。一介の海軍大尉としていつ出征するやもしれず英子さんを持てば安心して出征出来る気持ちがしますと率直に申し出たものだ」

 両親を二人して篠山から雲仙に来てもらった。そのときその気持ちの了解を得て、山本とし子さん宛に手紙を送ったのだ。

 「山本とし子様:

 拝啓 久しく御無沙汰致しました 皆様相変わらずお元気にお暮らしの事と拝察致します 小生もその後元気に勤務して居りますれば 他事ながら御安心被下度 

 突然の事ながら 御長女英子様 小生の嫁に致し度 先方の御気持御聞きの上 御返答相成度 小生一介の海軍大尉にて何時第一線に出陣致すやも計り難き身なれど 英子様の御内助を得れば 安心して 征ける気持ち致し居り候ば 

 右簡単ながら要件のみ 御返事を御待ち居り候    直亮」

さぞ当人達は突然で驚いたことであろう。折り返しとし子おばさんから速達便で「長崎県雲仙海軍病舎 部員室宛」返事がきている。

 日記の次ぎ行には「沖縄落ツ」とあった。

 そこで航空隊勤務の日記は終わっている。

 

 「その気持ちは男としてこの世に生を受け自分の正しい子孫を後生に残したい切なる望みであった。それがはたして個人的な単なる欲望であるかどうかそれは大いに反対するところであるが自分の子供を持ちたい気持からであった」

 「斯かる時停戦−敗戦の現実を見た日一日と過ぎ去って行って戦いは終了した。あとに残ったものは将来展開する日一日である。休暇をもらい篠山へ帰り大阪へよった次第である」

「英ちゃん それはかって僕の胸をときめかした彼女であった。それは成長しそして美しく感じた彼女だった。かつて胸にもえたものが 一日現実になって来たのである。彼女それは単なる美貌の存在だけではなくなっていた。理知のひらめきがあった。物事を考へようとするものがあった。物事を疑ふ心があった。そしてそれを全部発表するすなおさを感じた。 物事の見方が真直だった。話をして居ても何の不自然さを感じた事もなかった。自分から僕に正面からぶつかって来るものを感じた。積極性があった。それに対して僕はどうであるか。僕が父母の教育、慶應の教育 海軍の教育から体得したものからの判断をそのまま発表しただけだった。体の事 それもかまはずしゃべった 何の心配もなくまた何の心配もいらぬことを」

「英ちゃんの顔 体をみて これが将来の自分の一生の妻となるのだと思ふと 何か幸福感を感じた。 しかしそれは瞬間的な肉体的なものではなっかた。今迄終戦以来だらけて居た僕の体は精神に大いに緊張感を与へ 将来への光明となり将来への力づけとなって居ることは否定することは出来ない。そしてそれをしみじみと感じ身のひきしまるのを実際に感じた。これから大いに勉強しよう」

「一切のでなほしだ。一生の問題 一生の研究 勉強の連続」 と書いている。

「終戦後 二ケ月 経過せり 今日の頭の中」について書いている。

20.10.25.

 「三度訪れた雲仙宮崎の一室で・・・二千数百年の日本の一大悪点であるという。一方米国は再び日本の門戸をたたきあけた。めざめるのは今日であるといふ・・・」

20.10.31.

 「昨日東京から帰へって来られた出仕(俵中佐)の話では、自分は九月六日付け予備役編入された相である。」

 「1 自分の希望は学校へ帰って勉強したい」「2 篠山へ帰りしばらく家に居て勉強しようと思う。まずは英語である」「3 米国へ行きたい、のぞいて来たい」

20.11.16.

 「九州佐世保をあとにする」「22日田辺着 大阪復員収容部に着任する」「福沢選集を繙く」「先生の考え 今に至るに生き生きとして頁上に舞う」「今日の日本を先生は如何に見るか」「独立自尊の精神」「一身独立して一国独立する事」「独立の気力」「現在の田辺の生活 不明な点多し」「我ら若者 無為にして日々を過ごす」

 

「昭和20年11月30日 予備役被仰付 海軍省」

「昭和20年11月30日 充員招集ヲ命ス」

「昭和20年12月1日 国立鳴尾病院ノ事務ヲ嘱託シ月百三十五円ヲ給シ高等官6等ヲ以テ待遇スル 厚生省医療局」

「勅令第686号ニ依リ第2復員官(高等官6等)ニ任セラル 年俸2150円」

「昭和20年12月1日 官房人第509号ニ依リ大阪地方復員局出仕ニ補命セラル 充員召集を解除ス 第二復員省」

「昭和21年2月20日 田辺引揚援護局事務ヲ嘱託ヲ嘱託ス」

「昭和21年5月20日 月手当百五十円ヲ給ス」

「昭和21年2月26日 願ニ依リ国立病院医療事務嘱託ヲ解」

「昭和21年6月15日 昭和21年勅令第322号 海軍将校分限令廃止」

「昭和21年8月30日 田辺引揚援護事務嘱託ヲ解ク」

「昭和21年10月25日 慶應義塾大学医学部助手ニ任ズ」

「昭和22年11月28日 官報号外ヲ以テ旧海軍正規将校デアルトイフ理由デ 仮指定ヲ受けク」

「昭和23年3月22日 官報号外ヲ以テ仮指定に対スル異議申立ガ認めメレタ(16年12月以降委託学生ニ採用サレタ者ナル事由ニヨッテ)」

 

20.12.3.

 「昨日曜日白浜に遊ぶ」

20.12.11.

 「最近の新聞に太平洋戦史(米国のみたる)が連載されて居る」

20.12.25.

 「田辺の街はとにかく 店を開いて人通りが多い 物が目にみえて高いのは共通な事実だ」

20.12.26.

 「大阪着 山本家を訪れる。翌朝 一松の叔父様(定吉)に初にお目にかかる」

 「私は人権擁護と憲法改正の問題で再出場せばなるまい・・」「自分の仕事の目的とそれに対する情熱を感じるほど幸福なことはないであろう」

「英ちゃんへ 僕の一言」「僕の云いたいことは結局お互いにかくしのない自分をさらけだし お互いの心を通じさらに建設的なものを生じればよいと思う」

20.12.29.

 「渡辺の裕君の墓を妙福寺に詣でる。”裕もこんなところに入って”と墓に水をかけるおばさんの言も篠山のお寺の凍るような空気の中にしみ込んでいった」

 「アンドレモロウの結婚・友情・幸福から・・・」「恋いする人々が相手を信頼し切った平等感の中に隔意なく生きるとき それは最も純粋な最も完全なものになる・・・

21.1.7.

 「昭和二十一年の正月は明けた。1月5日篠山発山本へより翌6日南海廻りにて田辺着」「昨年末21日付け英ちゃんの手紙を見る。何回も何回も繰り返して読んだ。その返事は7日早速出した」

 「僕は一体何という男だろう」「英ちゃんの云うところは結局お母さんを何か苦しい立場にたてるのではないかとの心づかいから親類である僕をさけようとしているとしか思へない」「僕は英ちゃんの心を束縛はしないが又し様と思っても出来ることではないと書いた」

 「世の中は日一日変わってゆく。田辺を離れるときは ・・日本はこれからどほなって行くのか」

 「ヘ−ベルの婦人論より・・・

21.1.8.

 「君等は一体日本が滅亡してよいと思っているのか・・・」

 「自分は今岐路に立っている。即一つは学問への逃避であり、一つは現実への戦い 実生活への体得である」

 「然し如何にして社会的に国家的に自分を生かすかは将来にかかっている」

ヘ−ベルの婦人論より・・・」

21.1.18.

 「今日ほど各人が自分の食うために家族の為に職業を選んで居る時はないであろう」

「今日の新聞に元陸軍特攻隊長が純真をふみじられたことを感じ日本人民の為に国民の為国家を愛するが故に共産党に加入した」

 「人民の搾取の上に立つ日本が今までの日本であったのか」

21.1.21.

 「新聞に全世界を覆った戦火が消えて半年−平和と自由への建設がすすめられているが、アジヤの各地は自治と独立を求める諸民族によって激しく揺り動かされて居る。最近のタイム紙はかろうして・・・連合国に対して勝利は再征服なのかそれともほんとうの解放なのかと質問しているのであると表現している」

 「久ぶりに”日本ニュ−ス”を見 東京の様子にふれる。日本の中心東京はやはり時代の動きが切実に感じられる。一方自分が田辺ぼけをしたのをかんずる」

21.1.22.

 「千浦君から葉書あり。弟さんを病と戦争で失ったそうだ」

「俸給日 俺が五百円もとる様になった。恐ろしいことだ。職のある者とない者の差が数とう甚だしくなる。失業者恩給生活者は如何にして生活して居るだろう」

21.1.25.

 「渡辺大尉が復員して由良から出てこられた。とたんにに現在の心境から将来への考えの交換が始まった」

21.1.26.

 「英ちゃんはやっぱり僕のみた英ちゃんに違いなかった。今までの何かさびしい気持ちはさっとはれ喜びの情にゆりうごかされたのを感じる。率直な所涙が出てそれも嬉し涙の喜びの気持ちがわいてきた」

21.1.29.

 「重い病人を見ると医者として患者をみているといやになる。どういうわけか。充分つくせない薬手当。将来への不安。病気に対する自分の無知」

21.1.31.

 「科学的にsystematicでなくてはいけない。・・・とどのつまりはtecknicだけですぐ判断を下そうとすることは少々僭越であり大いに間違っている」

21.2.3.

 「往診して純科学者と医者との相違を考えさせられた」

21.2.7.

 「雲仙の千綿さんから最近の様子の手紙あり」

 「岡本君顔を見せる。早速検疫所員として働いてもらうことにする」

21.2.12.

 「篠山帰宅」

21.2.15.

 「田辺帰着」

「今日この頃程落ち着いた雰囲気で勉学にいそしみたい気持ちにかられることはない」

ヒルテイ幸福論から・・・」

21.2.16. 

 「千綿さんから便り 踏み台について・・男と女とは各々の持つて居る力の方向が少々違って居るのではないでしょうか・・・・・」

21.2.18.

 「田辺活発に活動開始する」

21.2.23.

 「明24日は田辺に引揚げ第1船が入港する。数回に亘り引き受入れ会議により一通りのヘッドワ−クが行われた」「然し仕事ははりのあるものでその仕事をなしとげて行くことは楽しいことである」

21.2.25.

 「24日基隆より引揚船を迎える。一般邦人から順次陸揚を開始する」「水先船−連絡船−上陸−検診−税関−DDT消毒−通貨交換−入浴−DDT人体消毒−種痘−通貨交換−現金交付−兵舎  一連の作業が始まった」

「顔、顔、何を考えているのか顔、何をみるのか顔、心にわく感激をひめた無表情に近い顔がならんでいる」「検疫所の作業は皆の努力によって順調にいった」

21.3.15.

 「毎日いそがしい仕事が続いて日記を書くひまがない」

フイヒテ著ドイツ国民に告ぐを読む・・・・」

21.3.23.

 「続々入港し正に仕事におはれて行く」

21.3.31.

 「交代の休暇をとり篠山に帰る」

21.4.20.

 「ここ援護局に僕に心をよせて居る者があるという。そして本人の言によれば相当真剣に考えているといふ」

21.4.22.

 「英ちゃんから便りあり」「箕面の散歩の時を思い出す」「若さの特徴は追究である、前進である」

21.4.29.

 「白浜へ遊ぶ」

21.5.3.

 「はや五月である」「だが一向に頭の中はふらついている」「一体何が頭の中をかけめぐっているのか」

21.6.

 「スランプ」

21.6.26.

 「潮の岬へ遊ぶ」

21.7.7.

 「東京出張より帰る」「30日 紀伊田辺・大阪・品川列車急行」「1日. 大船・久里浜検疫所見学・東京田町・綱町・千浦一泊」「2日 厚生省検疫課長・・・浦和久米泊」「3日 信濃町大鳥蘭三郎先生上田喜一先生 浦和久米泊」「4日 久里浜検疫所」「5日 青山墓地・・・同級生ら・・夜行」「大阪着 大阪府庁痘苗 山本」「7日 田辺着」

「この一週間を整理してみる・・・」

「三年ぶりの東京 思い出の家々が残って居れば居るほど懐かしさをきんじえなかった」

「上田先生にお会いした 君は将来どうされるのですか といわれた」「僕は と今色々の意味からの自分のなやみをいふ 僕という人物が今いふ職業軍人に含まれるのか 追放令に該当するか否やにかかっている 勉強・これはいつまでも続けなければならないものである。大学の研究室に帰ること或いは衛生行政 これは厚生省のお役人になることを意味する 或いは私立の研究団体のいずれをえらぶべきなりや」

21.7.9.

「自分が正しいと信じかく行動すべきだと考へたことを行って来て居た」「今日それが間違いであり正しくないと云はれ それではと考え直し反省し再出発し様とする時その行く手が阻まれて居るには何といふ矛盾であろう だがその反省にあたってそれが本当に真実に間違ってあったかどうかといぐことには未だ割り切れぬものがある気がする」

21.7.25.

「篠山に帰る 田辺も受け入れ業務を中止し 廃庁の準備をとる態勢となる」「その後に来るべき問題は生活の目標である」「引き揚げが終了し田辺が閉鎖になるといふことは前々から分かっていたことではあるが 来るべきものが早くきた感じである」「終戦後一ケ年間早や経過した一ケ年であった」「この間僕は一体どんな頭で生活してきたのであろう」「僕の人生観・世界観又生活の目標にまよって正になりきたりの生活に終始して来て遂に来る所まで来た感が深い」「兄が浦賀に中支上海から上陸したという便りがあった。六年目にお会い出来ると父母宛に書いてある」「久しく離れて居た肉親が今た内地の土をふんで居るのである」

21.7.30.

 「一週間目に田辺に帰る この週日は僕にとって精神的活動に於いて一期元をかくしたことになろう」「27日篠山口では帰ってきた」「”直亮”との声に兄はそこに立って居た。6年半前品川駅で送った顔 写真でみて居た顔が又そこにあった。口もとをしめながらそれで居てかくしきれないうれしさがお互いの目の中に輝きあった。態度・言語・応答につい先日まで軍人生活があらはれて居た。それは自分が一年前迄やっていたに違いないものだった。そしてここ一年の生活で失われつつあるものであったが又あるものを刺激するのに充分であった」「省営バスに乗り誓願寺前にて降りる 家の前でのスナップ との対面”おお”との声に涙ぐんで手をとりあって居られたが そこに山本の叔母様が居られなかったら母はとびついてしがみついて声をあげてでも泣かれたろう それほど母の兄を待つ気持は切なるものがあっただろうと思ふのである」「終戦前今より一年前に兄より家に着いた三通の書留郵便は兄の生涯の人となるべき人に関したものだった」「それに関して父の意見は従来の姻戚関係によりする将来への打算に関することが主であった」「母は兄の純心純粋さに感激して居たので或る漢口といふせまい又外地のかぎられた環境に選び出され或いは好意をよせられた女性を得たといふことは”本当は一つの愛”と僕の妻となるべき人との関係にあった。したがってもっとすばらしい人が外に居る気がしてあの話は忘れられるものなら忘れてほしい(前例もあったそうだから)という気持ちであった」

「それに対して兄の気持ちは普通のものであった。僕がみとめたのです だから親としての目で本人及び家族をみてほしいのです と」

「兄のつとめ先は帝国銀行東京支店にきまった」

21.7.28.

 「在篠山の親類一堂に会し母の心づくしの馳走」「若き者のそして兵隊帰りの者の集まりで自然話題は軍隊生活に終始してより根本的なものにはふれなかったが 親類のそれもお互いに何か共通のある気持ちのあった愉快な会であった」

21.7.29.

 「篠山を立つ 母は僕にしきりに兄に話をしろという・・・」

「石橋の駅で山本の叔母様に突然次ぎのような質問を発した」「僕が英ちゃんを頂けるとして将来どれだけの経済的な援助があると考えて居てよいですか・・・と」「この問いはあまりにも突然であった」「今経済上の変動の多い世の中で・・・」「あまり期待のほどではありません」「英子は卒業後のことなのでまだはっきり考えておりません」「結局は本人同士の理解で近代的なのですが この話の進行しないのも仲人の居ないせいもあるでしょう」「英子をもらっていただければ将来のこともあるし又今が大切な時ですからしっかり勉強していただきたい 大学の研究所へ帰られるといはれていますが どの位掛かるのですか」

「理性的な顔 英ちゃんの感情はどんなものだろう」

21.7.30.

 「田辺にて 北里柴三郎”愛の先覚者”をみる。となりの岡本君のsisterのうちわにあほられながら」

21.8.1.

 「田辺引揚援護局は業務を停止し残務整理に入る。総員写真をとる」「看護婦それぞれに思い出を一筆づつ書く・・・・」

21.8.3.

 「拝啓 先日上京の節は色々お世話になり有り難くお礼申しあげます。・・・上田喜一先生宛・・・・」

 「思ったより早く閉鎖の運命にあり早速将来への問題が起こってきました・・」「この一年考えてきたことは根本的に立ち直り出直さねばならぬといふことでした・・・」「私が海軍に志願した時の考えを・・・・」「それが敗戦です・・・」「生活学問への信念自信をつけてくれるものはなんでしょう それは勉強にちがいないと思うのです」「それで私も場合は学校の教室にもどらせていただくのが最上ではないかと思うのです」「小生の側の条件として・・・両親のこと兄のこと経済的には変動の多きいゆえ将来までははっきりいえないにても相当苦しいことは覚悟してやってゆきたい・・・」

21.80.10.

 「紀伊田辺沖縄県人診療の為岡本・寺井・三宅君と出張する」

「その朝牧落より便あり」

21.8.15.

 「敗戦一年。於篠山。毎日新聞”日本文化のために”長與善郎を読む 民主主義の大事な事は・・・・」

21.8.21.

 「那智の滝へ。車中山本五十六元帥の娘とかいう人おり」

21.8.27.

 「田辺引揚援護局解散の会食あり」

 

 佐世保で終戦処理をしていたとき外地にいる方々を引き揚げるには現有の船では数十年かかるという計算だった。それが引揚援護局がでできて上陸用舟艇などによって比較的短期間に引き揚げができることになった。その一つが田辺であった。二十万位の方々を迎えたのであったが具体的にどなたであったかはわからないし記憶にはない。しかし後日書かれたものをみていて分かった方々がいた。 佐々学先生も、後藤田正晴さんも、長男の義父の山下広蔵さんも。そして「コレラ」の第1船を浦賀へ廻した話などがあるが日記には書いてない。

 

21.9.5.

 「教育するといふことは その人にあるものを良い方に導き出すことである」

21.8.13.

 「兄東京より帰る」「要は将来の人について両親の正式のお許しを得るにあるといふ」「父はさらによい候補者があるといふ」「母はお願いだからこの話はあきらめてくれといふ」「兄はお願いだから許して頂きたいといふ」「自分は一般的にはさらによい候補者があるだろうといふことはいえるだろうが、兄の決めた人に対しては順応して行くといふ」「長坂の方の様子を聞き それにより将来への進行をすすめるといふ点で落ち着いた」

21.8.14.

 「英子さんよりの手紙田辺より転送さる」「内容はいつもながら本当に素直に物事を考え判断して居る所が表れて居る」「僕が英子さんを選んだことについて考えてみよう」「僕が前から或る好感をもって居た事は事実だ 然し大人になってから本当に交際したことのなかった自分には直ちに本人を貰いたいと申出たことは或る意味では非常な危険をおかしたものといへないことはない」「それは自分のにらんだ目を絶対的に信じ将来その本人が自分のみとめた人であることを事前に信じてしまった点である」「良い家庭で育った事 教育を女として充分受け境遇環境に育った事」「結婚生活というものはお互いの生活の中にさらに建設されるべきものであろう」「出来上がったものの展開ではないはずである」「こう書いてくると兄の動機を考へずにはおられない」「兄は信じて居るのである」「自分の判断によって相手が自分に好意をよせているといふことを感知し自分の一生の相手に投げ込まうとさせるそのものは恋愛の本質的なものであろう」「これはスタ−トである」「これから問題となるものは結婚への過程である」「兄の場合その過程をふんでしまったものと考へてよいのか 或は又過程をふむべきだといへるものか」「自分の場合現在はその過程を一歩一歩ふみつつあると考へて居るのである」

「過程とは何であるか」

21.9.24.

 「東京から便りの来ぬままに今日迄篠山に居る」 

 「ナチ戦犯裁判の収穫」

 「文学者の責任」など

21.9.27.

 「東京へ出る前 牧落の山本家を訪問する」「あなたにいつまでもはっきりした事を云わないで居りましたが 英子も何回聞いても大丈夫らしいので ふふつかな者ですが いつまでも可愛がってやってください とは叔母様のお話」「お互いになっとくいくといこまでいってこれなら二人できずいて行けると考へたとき 結婚するのは幸福です」「この話がはじまった時一番乗り気だったのは母一松でした。結婚は富とか地位とかいふものではありません 結局その人の人となりです」「私は主人を早く亡くしたのでこの娘の相手の第一条件はまず健康でした むりをなさらない様に 英子は私の傑作です」「英子さんはそばでほほえんでいた」「いつだったか心にきめて居ればといったあのひとみが思い出された」

21.10.1

 「キュ−リ婦人伝を読む

21.10.8.

 「篠山発上京する」

21.10.9.

 「早朝東京着 高円寺銀行寮に兄の所による」

21.10.10.

 「午前中上田先生のお宅を訪問する」「教室の話 内職の話 将来のことなどお話をうかがってお昼を御馳走になる」「三鷹の新校舎の土地を見に行く」

21.10.13.

 「東京千浦宅へおさまる」「東京新生活第一歩である」

21.10.14. 

 「初出勤」「古川から電車で信濃町へ」「研究生活の第一歩」「あらゆる事に気をくばりなっとくの行くまで勉強実行して行くべきである」「6時起床 7時出発」

21.10.24.

 「帰って部屋に入ったら机の上に手紙が置いてあった」「英子さん女子大最後の生活をひたむきに進んで居ることがよく分かる」

21.10.26.

 「昼食時戸の隙間からちらっと英子さんの顔が見えた」「要件は兄のことだった そちらの話は決まっているのですか・・・」

21.10.27.

 「久米清治君の農学博士になられそのお祝いの会食が浦和であった」

21.10.28.

 「教室抄読会にて原島教授より 日本の博士号は科学の発展に寄与したものに対して与えられるに対して米国などでは独立して研究し得る将来性のありものに与えられることになっている。皆さんは自分で自分の問題を発展し解決して行く態度であってほしい。それは教授の考へに一致せんとするのでなくて一向差し支えない。その方をむしろ歓迎する。そしてその出発点はメトデイクにあってほしい」

21.11.2.

 「早慶野球第1回戦をみる」「久し振りの神宮球場もなつかしく」「英子君と連絡があってえびす逓信大臣官舎を訪問する」「中なか立派なお家の中大阪の友人壺井家のにぎやかな中に楽しい一夕を送る。お風呂をいただいて帰る。立派な家、ご馳走、設備の中に楽しめることは気持ちのよいことにはちがいないがやはり若輩の自分にはぴったり来ないものがある。それは本当に自分から出来上がったものでないからであろう」

21.11.3.

 「英子君友人井爪さん二人をつれて早慶二回戦を見る。外野の壁に腰掛けてみることは始めてであった。」

21..11.17.

 「小雨の中を十時半大泉の壷井さんのお宅を訪問する」「帰り英子さんと二人をえびすの官舎まで送る間 現在の心境について具体的に語った」「生活の楽しみは働きを土台としてその中にあるのではないかと」

21.11.22.

 「近頃宿へ帰って室に入ると机の上に手紙が置かれてあることが楽しみとなった。英子さんから篠山から友人から・・・」「英子さんからのは先日の話のことであった」「それは夫婦といふものは精神肉体共完全でなければならないものだと返事に書いたが それをどうとったか 今頃読んでいるだろう」「父からの手紙に・・ぱらぱらと”うたひ”の稽古初めの広告だった」「読んでいくたびに何となく嬉しくなった」「それは何故か 両親があの篠山に居て とにかく生きんとしている姿がよみとられたからだ」

21.12.1.

 「12月に入る。教室の三鷹移転が始まっている。先週から本当のムスケルアルバイトである」「インフレといい来年には物価が三倍になるという」「生活と勉強の両立 これが可能なりや」「一人ではどうにかやっていけるみこみはある。然し二人で一応人間並みの生活を希望すれば将来の見通しはない」「一体どう考えたらよいのであろう」

21.12.7.

 「兄に寮による。例の問題が未だはっきりならないので兄は相変わらずといふがいささかしょうもうしていた。この様なことを認めないものにはあくまでも対抗しなくてはならない と」「家庭生活から産児制限から社会制度云々と発展した・・・」

21.12.10.

 「実験医学序説から・・」「彼は科学者である。己が追究するところの科学的思想に専心没頭しているところの人間である」

21.12.15.

 「カサブランカをみる。その意味するところがはっきりつかめない」「映画から帰ってみたら机の上に英子君からのはがきがおいてあった。一年前のことを思い一転回?とあった」「?のマ−クをつけたところに意味があるようである」「勿論僕にとっては一転回はない そのままである」

「大根を生で塩をつけてかじる うまい うまい。生ものと食欲の問題が頭を持ち上げてきた」

21.12.22.

 「飛鳥白鳳天平合同の会を幼稚舎で開く」「文芸春秋11月号佐野学:新憲法批判

21.12.26.

 「東京発牧落篠山 昭和21年を送る」「除夜の鐘を聞きながら大阪へ手紙を書く」「内容は二十六歳の青年二十七歳の春を迎え 学問への道生活への道結婚への道への悩みを書きつづり これは一人にては解決を得べきものはなし 二人の恋が本当のものなら二人が解決すべき問題であろう と書いた」

22.1.6. 

 「上京に前にして 英子さんの所による」「叔母様はじめ皆留守で英子さん一人留守番であった」「あの手紙をどう読んだであろう」「お書きになって居ることはもっともだと思ひます」「一口にはどうで云えないけれど・・・そほやってお互いにやって行くことがかえって楽しみではないかと思ふの」「その言葉は絶対であった」「僕があの時の僕でなかったら英子さんをだきしめ あつき唇をもらって居たかもしれなかった」

「いきずまる様な沈黙の瞬間がつづいた」「”ピアノ奏きましょうか”」「あのピアノを奏く手は英子さんの感情のはけ口ではなかったか」

22.1.13.

 「綱町の千浦さんのお宅をおさらばする」「三鷹の寮には入るのである」

「夕食ご馳走になる。結婚は結局人生観如何ということになる。”君みたいな元来きようだから臨床の方に行ったらよいと思うのだが”」「僕として臨床をやることは簡単にいうとうそをたうけないと思うことから非常に苦しい立場においやられると思う。・・・臨床家が皆乗りこえて来たと思うが・・・」

「岡本君から手紙あり。田辺文里津波で全滅と。実にあんたんたる気持ちになる」

22.1.27.

 「室は明るくなければいけない。暖かくなければいけない。又食事が充分でなければいけない。これでななければよい考えはうかんでこない」

22.2.2.

 「映画にんじんを見る」

 「アンドレ・モ−ロワ”愛に哲学”より・・・恋愛・情熱・信頼・結婚・・

 「夜中3時 第三次世界大戦の構想・・・」

 「病気について・・・」

22.2.7.

 「自分には今三匹の馬が居る。恋愛結婚人間の馬。医学を通しての学問の馬。そして政治経済社会の馬。 そしてどれもが一心にかけている。そして自分は一体どれに乗ったらよいのであろうか。それが別の道を行かうとして居るかもしれない。又それが馬車立の様に一緒になってはしって行かうとしているかもしれない。敗戦前後というスタ−トから一心にかけている。途中で彼女を乗せて そしてどれにむちをうって進んで行けたらと思っている」

 「高津正道著”ソ連の勝因ドイツの敗因”海洋社1945

22.2.11.

 「上田先生宅辰沼氏と共に御馳走になる」

22.2.12.

 「沢田謙著後藤新平・・・

22.3.8.

 「英子君 我が寮に来る」

「現実をよく見 現実を知り わたしわからないわではすまされないものを感じとったろうと思う」

 「ピエル・キュリ−伝より・・・

22.3.15.

 「一松さんの所にて英子君に会い 先日の感想を聞く」

22.3.16.

 「兄の下に行く」「要するに現金収入を妻にたよるわけだね と」「僕として一体どうしたら一番よいのだろう」「生活能力なき男としてでなく、今一人の生活を維持しることさえ毎日働いてかせいで居る時代に さらによけいに いわば自分のすきなことをやること(それが自分には今必要であると思ふ)が 二人の生活の中でゆるされるであろうか」

22.3.18.

「手紙出す 最終段階について」

22.3.20.

「衆議院を見学する」

ピエル・キュウリ伝より・・・

22.3.21.

「長坂行き」

22.4.16.

 「生活と勉強と結婚と解決つかないままに日々すぎて行く」

22.4.20.

「現在自分の場合今勉強して行く為に責任をもって結婚の申出ができない。然からば結婚したくないのか。僕の場合明らかに学問への逃避である様である」

「兄は篠山へ最終的申し合わせに家へ帰った」「両親は反対のようである」「清水の叔父様は親が反対だから君はあきらめるべきだといふ」

”自由”とは”必然への洞察”である。必然といふものそれがよく理解されざる限り盲目である(エンゲルスの言葉より)

22.5.10.

 「家より手紙来る。兄の件両親可をとることに決定したと行って来た」「兄もおおやけに出発できるのだ」「同時に小生の問題については山本叔母様が篠山へ来られて英子の件はお断りしたい意をもらした相だ」「これはまた一つの段階を示した手紙であった」「山本叔母様へ家へ手紙を出す」

22.5.11.

 「壷井の叔母様のお宅へおじゃまする。色々とお話をうかがった」「今回の問題の根本となって居るものは小生の側からみれば本当に独立出来る資格のない人間は恋いすべからず結婚すべからずということが認められるか それが真実のものであればその点の両者の理解によって達成され得るものであるかといふ点である」

22.6.15.

「森下君追悼会」「上田先生の御病気が何といっても気にかかる」

22.6.28.

「家よりかやの小包来る」「レ−ニン:プロレタリアの国際主義

22.7.25.

「山本トシ叔母様英子さんより小包来たり 朝手紙来る。実に複雑な感情にとらわれる」

「新しき出発」と書いている。

22.10.8

「丁度1年前東京へ出てきたわけである」「又今日は英子君の誕生日でもある」

22.12.9.

「日響定期第九を聞く」「いつかこれが二人して聞けたらと思う」

22.12.27.

ルソ−は社会契約論の冒頭に”人間はすべて自由に生まれた”しかるに人間は到る所で鉄鎖に繋がれている。どうしてそうなったのか

23.1.25.

COをやりだしてからまたたく間に半年を経過した」「VanSlykeをいじりだして文献を読み・・・日比谷にかよう

23.6.16.

「一松建設院総裁の官舎へ・・・英子さんは結婚されたのですか・・との僕の最後の問いに対して それは現在までの一切を終了させる瞬間であった」

「いずれにしてもさらに勉強して立派になることだ」「今迄の自分の道 将来への道を思い決して間違っていないと思っている」「ただ三年間に亘る僕の第一の恋愛の経験(愛を公表した)は実をむすばずにおわったよいふだけである」

「増山先生の話」「私のいう推計学は こういう歴史的発展段階にあると思う と」

資本論から」「適当な利潤があれば資本は極めて大胆である。1割の利潤が確実であれば資本はどこでに於いても充用され得べく 2割の利潤があれば活発となり 5割の利潤があれば積極的に活発になり 十割の利潤があれば人間の定めた一切の法律を蹂躙し 三十割の利潤があれば如何なる犯罪をも考慮せず 所有者が死刑に処せられる危険をも辞さない

23.10.15.

「高円寺兄の家で 二人ずれの女の声がした」「こげ茶のドレスに身を包んだすらっとした姉さんと目白にもいっているという妹さんだった」「兄から何も聞いていなかったからいささか僕も動悸がしたことはかくせなかった」

23.10.25.

「それがことはりに来たことがあとから分かった」「背の高いことが第一条件でまげられぬということだった」

 ここで私の日記は終わっている。

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