大鳥蘭三郎先生のこと

 

 兄がやっていたこともあって、幼稚舎から普通部へ上がったとき、綱町の道場をのぞきにいって、弓術部に入ることになった。それから日吉、信濃町と、医学部を卒業するまで弓をつづけることになった。大鳥蘭三郎先生には随分小さい時からみられ、又みていたものと思う。

 だから、60歳をすぎた私に、今もって”直ちゃん”(なうおちゃん)と声をかけられるのも意味のあることだ。思えば随分と長いおつきあい、いやお世話になったものだと思う。

 修善寺、山中湖、赤倉の合宿。そして学習院の大会での優勝。海軍軍医になることになって、送別会をやって戴いた時の写真など、数々の出来事が思い出される。

 弘前にも奥様とご一緒にこられたこともあった。そして日本医学文化保存会の評議員としてお会いすることもある。

 前に定年御退職記念の四矢会誌の特集号に書いたことなのだが、先生の「半生の思い出」には、やはり活字として残しておきたいことなので、ふれておきたいと思う。

 昭和17年7月30日、赤倉合宿で作った数え歌の中に、

 ”十(とお)でとうとうとりしまり 蘭ちゃん知らなきゃ もぐりだよ”

があった。これは先生の特質をずばり、いいあてているものと思う。学生時代、又卒業後、長く、深く、われわれの心の中に残るものを、先生は身につけておられ、われわれに示されたものと思う。

(大鳥蘭三郎先生記念文集,353−354,昭57.3.3.)

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