母のこと

 

 母(かね:戸籍上では「か弥」となっている)は昭和59年6月5日午前3時94歳で亡くなった。明治22年7月22日渡辺家の5女として生まれている。渡辺家は代々兵庫篠山での侍医で、父(鉄三郎)と母(央)(儘田)の間に生まれた子が7人、上6人が女で末に男(立)が生まれ、医家をついだ。若くして両親を亡くし、長女(まき)が親代わりに家を切り盛りしていたので、母はそれをいつも感謝していたし、姉妹弟はとても仲がよかったと記憶している。

 私の父母が亡くなったあと「満開の桜」(衛生の旅part4)を書いた。

 「父が亡くなったとき、明け方までそばで寝ていた母が、冷たくなりかけていた父に気がついたものの、朝までじっとしていましたという話をきかされたとき涙がでた」「その母も亡くなった。死ぬまでぼけていなかったようだ。なにしろあすはお迎えがくるのではないかと、下着一切きれいにしていたというから」

 重複はさけたいが、母のことで記憶にあることを書いておこうと思う。

 

 母の若い時や父との結婚の時の写真を見ると、小柄だがとてもかわいい美人である。東京生まれ育ちの父(佐々木哲亮)と関西生まれ育ちの母がどうして結婚することになったかは聞き損なったが、私の育った子供の頃によく親戚のつきあいをしていた祖父(佐々木和亮)の姉達の嫁ぎ先の「吉野」さんとか「山本」さんがその口利きをしたことが推測される。

 父が勤めていた三井物産の新しい勤め先の台湾の高雄行きが新婚旅行となったと聞いた。父のアルバムにはこの頃の写真が沢山ある。どこか散歩についていったとき、「もうここまででいいだろう」と父からいわれたと母が話していた。すべて父に従う母の姿が読みとれるが、ここで兄(正亮)が生まれている。

 

 東京にもどった父母達が住所を構えた場所が「芝三田綱町一番地」(現三田二丁目一)である。もと伊藤博文の家で生まれたと聞いた父の土地勘か、一人の妹(郁子)が久米治平・長男清治と住んでいた場所に近かった為か、深川に(祖母清子死亡後別の方と)住んでいた祖父(和亮)と離れて住むことになった。そこで私(直亮)が大正10年に生まれている。大正13年9月1日に大正大震災がおこったが、父は深川へ祖父を探しに行って、ようやく川で死体を見つけたという。この大震災がこの世に生を受けた私の最初の記憶に残った。祖父については家の欄間に飾られていた祖父の写真の記憶だけである。その前に縁側から私が落ちて台石に頭をぶつけてひと針位の傷をうけ、その傷は頭に今もあるが、私の記憶にはない。ただ母が祖父から「かあさんがついていてとんでもないことをしてくれた」としかられた話は聞かされた。

 すぐそばにあった慶應義塾幼稚舎(小学校)に兄も入っていて私も入ることになった。そのあとだったか前だったか、道路を母と連れだって歩いているとき「おかあさんは こちらがわ」と私が母を「守っているように言ったのですよ」とよく母から聞かされた。親として子からそう言われてことは驚きでもあったし嬉しかったのではなかったか。

 しつけの厳しかった父と違って母からしかられた記憶は殆どない。「直ちゃん」のやることに、全面的に信頼をよせていた母が思い出される。学校の成績も良かったし、私もそんなに悪いことはやらなかった、良い子であったのか。

 その母が父の女性関係にはひどく気をつかっていたという記憶がある。身近の人のことか、親戚の人のことか、また当時の世間一般の普通の出来事であったのか、男と女の関係が、推測の域を出ないことではあるが。

 わが家にもお手伝いさんとも言うべき女中がいた。それも小さい時からの父の乳母とかわって若い女中がきたときは、そろそろ年頃になってきた私達男の子二人、また50歳前後の父にはとくに気をつかっていたようだ。

 母が「明治の女」として和歌山女学校の教師を何年かしていたことがあり、日本に普及し始めたキリスト教の洗礼をうけることをすすめられたときになって「心に姦淫するものは罪をおかす」というくだりに「おお−こわ」と言ったと聞いたことのある母ではあったが、自分の本心はどうであったのか。ひたすら父につかえていたと思う。

 兄が召集のあと中国の漢口の病院に入院していたとき、今の義姉との運命の出会いがあった。兄が戦地から彼女との結婚の意を両親に伝えたときは、我が家では一大問題であった。両親が疎開して住んでいた篠山での借家で話し合ったことが思い出される。戦時中特殊な場面での息子と女性との出会いは母にとっては「正亮がかわいそうだ」ということであったと記憶している。兄が戦後復員して帰国後もその意志は変わらず結婚することになるのだが、私も一役かった。

 年老いた両親、戦後のインフレで計画が狂ってしまった両親の世話は子供達二人がみることになったのであるが、母の長男に対する思いは強く、親は長男がみるものと頭からきめつけていたようだ。だから弘前に滞在しに来たときもいつまでも弘前は仮の住まいであった。両親の世話、父の死亡するまではなんとか兄夫婦がもちこたえたようであったが、その頃まだ私も現役で母の世話を弘前でみてもと思い考えたこともあったが、母はうんと言わなかった。そのあと兄が退職し、横浜から清里へ新しい生活に入ったあとは、近くではあったが結局出来立ての特別養護老人施設に入ることになったときの母の気持はどうであっただろうか。それでも施設では皆の模範になるようなお婆さんであったようだ。門前の小僧よろしく父から習った謡曲を皆の前で披露したりなどして。

 孫達が結婚するときへのお祝いということで私達の子供達の為にわずかではあったが「郵便貯金」を積み立てていた。その額は昔と違って貨幣価値は少なくなったが、その気持が子供達に分かってもらえるだろうか。

 ただひたすら父につかえていて、父が献体の手続きをとったときも何もいわずそれに従い、大学の解剖学教室から、季節季節にお見舞いの毛布などを送ってくると、早く来い来いといっていると笑っていた。生前の思いのたけを家内へと便せんに何枚も書いて渡していたがまだ見ていない。

 献体もすみ、芝の増上寺での解剖慰霊祭のあと、青山の梅窓院の佐々木家代々の墓に納骨されてはいるが、私にとっては母はいつまでも「生きて」いる

 篠山に疎開したまま住んでいたときだったか、昔の先生の80歳の母をかこんで70歳くらいの婆さん達が会をもっていたことが思い出される。 (9-11-11)

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