「結核」覚書

 

 「病は世につれ 世は病につれ」の中の「鳴いて 血をはく ほととぎす」で結核のことにふれたが、 私と結核についての覚書を書いておこうと思う。といっても私は「結核菌」や「結核症」の研究をしたことはないから、全く素人の自らの経験を書きとどめておくにすぎない。

 北里柴三郎先生がドイツから新しくできたばかりの「結核の特効薬」をもって帰国したとかいうことで、北里病院が門前市をなしたという話をから聞いた記憶がある。明治から大正の時代には国中に結核が広がった時期であったわけで、多くの小説にも登場するが「人はどうして血を吐き、消耗病で死ぬのか」と、ただ恐い病気であったという意識であったのであろう。「一目見たとき結核だったのよ 日暮れになると微熱がでるのよ 知らず知らずに痩せてくるのよ ねえねえ 治して頂戴ね」といった替え歌があった。安静大気療法だけであった。小さいときあの油くさい肝油が体に良いといって飲まされたり、が三井物産にいたわけか「オゾン発生器」がわが家にも入ってきて、電気を入れると「チ−ン」という音がして何ともいえない臭いがした空気が部屋にあった記憶がある。

 私が大正十年に三田綱町に生まれた時は、わが家のかかりつけの医者は近くの野上医院の野上先生で、支払いは盆暮れであった。たしか日露戦争の時、戦艦三笠の軍医をしていた方であったとか、医者にはめずらしく金賜勲章をもらった方とかであった。なんでも屋であり、開業はしても新しい技術を取り入れていた方であったのであろう、レントゲン写真もとっていた。その写真をもらって今手元にあるが、医学教育をうけるようになったとき、よくこんな写真で診断できたものだと思うような写真であった。

 私が普通部の中学生のときだったか、その野上先生から「結核」を宣言されたことがあった。

 そのとき私には記憶はないのだけれど「病気の私にもうお金をかけて育てることもない」とかいって母を泣かせたという話を後日母から聞かされたことがあった。そんな殊勝なことを言ったことは記憶にはない。

 その後「肋膜に空気を入れる」という「人工気胸」ということで通い、ベットに横になって胸に空気を入れてもらったあと少し息き苦しくなったことを覚えている。また注射すると体が急に暖かくなるという「カルシウムの注射」を受けた記憶がある。後になって結核の自然史の知識を学んだとき知ったのであるが、「ツベルクリン」による診断をやったわけではなかったし、事実私はその時は結核菌に感染したわけではなかったと思われる。結核に感染したわけではないのに当時の結核の治療を受けていたことになる。

 当時「結核」という病名は一般には嫌われていて、「胸膜炎」「肋膜炎」「肺尖カタル」「肺浸潤」などと言われていた。

 医学部専門の講義が始まって、衛生学の中で上田喜一先生から「BCG」の話を聞いて、そのあとすぐ信濃町から水道橋へいって結核予防会におられた先輩の小沢竜先生から注射、それも当時はできたての水性であったBCGを打って戴いた記憶がある。幸い潰瘍はできなかった。昭和15年であった。そのBCGの知識がいち早く弘前に伝わっていた話は「狼森」覚書に書いた。

 私は当時「ツ反応」は陰性で、BCG接種後BCG陽性の10mm程度の皮内反応がでた。

 衛生の先輩方が日本鋼管とか八幡製鉄で結核検診をはじめ成果をあげた話などあった。加納保之先生がおられた村松青嵐荘に見学にいったこともあった。

 

    伊崎・須永君 八ヶ岳にて  富士見療養所にて 昭和17.9.26−30.

 今でいう「保健活動」のはしりであったが、学友の何人かは「結核」関係の先輩方と休みに四国などの地方にいって活動していた。私自身は学生時代昭和17年夏に同級の伊崎正勝・須永寛君と三人で富士見療養所へ行ったり、八ヶ岳山麓の村を検診に歩いた。その時の写真がアルバムにあった。弘大にきて「明日の健康を求めて」学生諸君の保健活動の手助けをすることになるのだが、それも自分の学生時代の経験があったからであろう。「血沈」と「ツ反応」が武器であった。それを学生の身でありながら、どんどんやった。戦時色濃くなって医者が足りなくなったせいもあるのであろう、今でいえば「医療行為」といわれるだろう「行為」も、「教わったことには自信」があった自分としてどんどん行っていたという思い出がある。何しろ卒業したときは医学はなんでも分かった気持ちであった。事実アッペの手術も横浜済生会病院へ手伝いに行ったときハウプトでやらせて戴いた。潜水艦にでものって自分がアッペになったら困ると考えて今ならやるはずのない「ノ−マル・アッペンデクトミ−」もやって戴いて卒業して海軍軍医になった。昭和18年9月であった。卒業近く小児科へ回ったとき、病室へゆくたびに死に近かづく結核性脳膜炎の小児をみて、なにも打つ手がなかったという医療の経験もあった。

 弓術部の後輩であとで結核で亡くなった柳君を自宅に見舞いにいったのが、私の初感染の機会ではなかったかと考えるのであるが、青島(チンタオ)訓練、築地での軍医学校のあと、鹿児島の串良海軍航空隊へ配属になったとき、しばらくして「胸にさすような痛み」を感じた。胸に水が貯まってきた。それが海軍での診断名「胸膜炎」であった。一般状況は大した事はなかった。日光浴が良いと思って一人で裸になって陽に当たるようなこともした。

 佐世保鎮守府付きなり、佐世保海軍病院勤務となった。約1カ月間の待命で、履歴書には赤字で書かれている。そのあと佐病の雲仙分院勤務となった。

 島原半島の雲仙にあった旅館がほとんど11カ所も雲仙分院となっていて、佐世保管内の終末の千人以上の患者を抱えていた。外地でマラリヤにかかり帰還した兵など「第一種症」で何もしないで階級があがるので、病気はなおるはずはなかった。

 そこでは分院長軍医の下のナンバ−2の位置にあり、今思うと貴重な経験を色々したが今回は省く。旅館一番の部屋に泊まって、係りの女中がおり、朝昼晩と旅館の食事であった。シャバでは物がないのに島原半島の物資は雲仙にあつまってきていて、栄養学的には恵まれていて私の命が長らえ今日があるのではないかと「医学的」に考察する。佐世保から時々石黒中将らがやってきて息抜きをしていたようであった。

 しばらくして佐病へもどり、長崎で原爆を被曝した患者の治療を佐病でしたが、終戦になった。数日前からなんともいえない雰囲気があった記憶があり、その日は友人と配給になった酒を飲んだことなど思い出される。

 病院の石黒中将と俵大佐と佐々木大尉と三人で終戦処理をした。

 看護婦へ青酸カリを配ったこととか、佐病の米軍への引き渡しをやったことなど思い出されるが、佐世保の湾へ米艦隊が入ってきたとき、手旗信号ではなくて、ラウドスピカ−でワ−ワ−言いながら上陸してきたときは驚いた。

 戦地からの引き揚げの仕事のときのエピソ−ドは「内閣桜をみる会」に書いた。

 それからまた勉強ということで「わが駆け足時代」「三鷹での勉強時代」がつづくのであるが、体の方はいたって健康であった。

 一応学位論文もすんで、そのうちアメリカ留学の順番がまわてくることを期待しながら、公衆衛生の勉強を広くしたいと考えるようになっていた。国立公衆衛生院での短期3カ月研修の機会に恵まれた。重松逸造先生がレントゲン写真の権威で、私の胸部写真をとって戴いたとき、左肺尖に影があるのを診断された。そして排菌は証明されなかったがその場所から気管の方に通じる道があるのではないかとの「模型図」を書かれて示された。三鷹当時の自分の写真をみると食事事情がよくなかったせいか、勉強のしすぎか「不健康」にみえる。

 昭和26年結婚した。当時ストレプトマイシンが出始めで、北里研へいった内科の片桐鎮夫君に相談したりした。服薬をつづけると難聴がおこるかもしれないという情報もあったが、そうなったらそうなったで止むえないと考え、しばらく服薬したこともあった。手術でピンポン玉を入れて肺の運動を少なくして治療するという外科手術も盛んになり、考えたこともあったがやらなかった。

 そんな時期に弘前大学へ行かないかという話があった。長男を抱え上野発夜行列車で弘前へたった。次男の修が生まれた。子供達に結核をうつしたらこまるなと考えもしたが、どうにか無事に済んだようであった。

 大学で検診があるたびに古い影が指摘されることもあった。

 文部省留学生の順番がまわってきたとき、アメリカからヨ−ロッパへの計画をたて申請した。アメリカへの長期滞在者は「レントゲン写真」持参であった。松永藤雄先生が責任者でサインをした書類(内容は分からないが)と写真を密封した袋を、ホノルルでのアメリカ入国時の検疫まで持参した記憶がある。アメリカの若いドクタ−が写真をみて「OK」と言ったときはほっとした。一旦入国してしまえばあとは何もなかった。

 そして数十年たってしまった。

 糖尿病で食事を制限したら結核が出てきたという話が身近にあった。年取った医者からの「結核感染」が今話題になっているが、われわれの年齢の者が死にたえないと日本からは結核の問題はあとをたたないであろう。

 「コホ−ト分析」の立場から、日本に結核が蔓延しその中で生まれ育った人達のコホ−トには、それなりの特徴がみられるのではないか。例えば「癌」との関係があるのではないかとか、何か他の病気への影響があるのではないかと考えられるのだが、これは頭の体操にすぎない。

 人口集団における「ツ反応」の分布の特徴は、感染者と非感染者と「ツ反応」発赤の分布がことなり(柳沢謙)、これが「ツ反応」による結核感染の有無診断の理論的根拠と考えられていたが、この分布の特徴が、私が研究してきた血圧値の分布と基本的にことなるのでないかとの立場から論文(高血圧者ふるい分け検診についての問題点:日本公衆衛生誌,9,257-291,昭37.)を書いたことがあるが、これは重要な考え方であると思っている。

 この覚書を書くにあたって、昔の切り抜きを見ていたら、亡くなった岡治道先生、千葉保之先生、清水寛先生の資料があった。また昭和26年から結核予防法が施行されたが、丁度BCG接種が国会で社会問題になった頃の志賀潔先生の「BCGと私」(朝日:26.10.28.)の記事があった。「1924年カルメットから菌をわけてもらって自分が日本へ持ち帰った」「われわれの検討によると・・人体には無害である、しかし免疫性は微弱である」「2の成績をカルメットに送ったがお気に召さなかったらしい」「私の研究はそこで終わって・・その後230代まで植えつぎ現在各国で用いられている」「私は現在のBCGの問題にうんぬんする資格はない」「この有効度と有害度の統計的バランスとにらみ合わせて現在の問題が処理されねばならぬ」「以上は科学の問題であるが」「真に科学を理解する事を知らぬ役人方の頭の問題ということになる」「私の見る所では生活条件の向上と衛生知識の普及だけでも結核の被病率はずっと少なくなると思う。しかしこれは”四島国”にあっては早急には望めないことである。とすれば差し当たりBCG接種を中止する訳にはゆかない」「などなど」があった。(20000405tb)

(弘前市医師会報,272,70−73,平成12.8.15.)

もとへもどる