内閣「桜を見る会」

 

 内閣総理大臣橋本龍太郎から「四月十日(水)午前九時半から正午まで、新宿御苑の染井吉野が見頃となりますので御夫婦おそろいにて御来観下さいますよう」との案内状が我が家に舞い込んだ。

 ちょうど春スキ−に来ていた今度中学生になる孫が「わ−スゲ−」と言ったり、「おめでとう」と言う人もあったが、上京するとなるととんだ出費だ。

 でも「話の種」ということで出かけることにした。

 

 地下鉄丸の内線「新宿御苑前」で下車すると、すぐそれとわかる二人ずれがぞろぞろ階段をあがっていった。それについていけばと、「大木戸門」へ来た。

 本日は貸し切り。入り口の「内閣」とリボンをつけたお嬢さんに番号入りの受付票をわたして「内閣桜を見る会」の花かざりをつけてもらった。(御招待以外の方「お子様を含む」の御同伴は御遠慮願います)とあった。コ−トと鞄をあずけ歩くことにした。さんさんごご二人づれが歩いていた。車椅子の方はほとんど見あたらず、皆元気な年寄りが多かった。

 天気はよく、桜はこの日を待つていたかのようにまだ散らないで満開であったが、弘前の桜とは比べようもない。「桜を見る会」が「人を見る会」になった。

 あとで新聞でみたのだけれど「昨年は阪神大地震で中止、今年2万人に招待状を出した」とか。招待の基準は何なのか見当はつかないが、私の場合は「秋の叙勲」と考えるのが常識と思うのだが、日頃テレビでよくみかける「有名人」やタレントさんたちの顔が見えた。まさに「人を見る会・見られる会」であった。

 一番の人だかりをしている一群の中に「総理」の顔がちらっと見えた。

 その日の晩の東京のテレビには若いタレントさんにかこまれた総理とか、「国会にはいつ桜が咲くのでしょうか」とインタ−ビュウされていた竹下さんの顔も写っていたが、「住専国会」の中、ちょっとした息抜きに出てきたのであろう。これらVIPの車は御苑の中にならんでいた。

 

 静かな日本庭園の方に足をのばしたら、カメラの一群があった。

 その中に後藤田正晴夫妻がいた。私にも後藤田さんに話しかけたい訳が内々あった。

 昨年の「戦後50年への思い」シリ−ズ(産経7.8.17)に後藤田さんが「戦時の緊急造船・リバテイ船で基隆(台湾)から和歌山の田辺港に帰ってきたが、港で米兵からいきなりDDTを体中にかけられて屈辱の思いをした」と書いていた。

 その田辺に私もいたのだ。

 「新聞に書いておられましたが、先生は戦後田辺に帰ってこられたそうですね」

 反応は極めて早やかった。さすが現役の代議士である。

 「ひどかったな、あの時は。頭からDDTをかけられて」

 よほどの思いであったのであろう。

 「あの時復員収容部の検疫官で私も田辺にいました。DDTをかけたのはアメリカ兵ではなく、私です。発疹チブスの予防注射もブスブス打って」

 あの時、外地から帰ってきた兵隊さんたちが、田辺の港に上陸して「これが内地だ」といって足で大地を踏みしめていた姿を思い出した。

 あの時、検疫のためにランチに乗って中国からの船まで行って「コレラ顔貌」の患者をみつけた。とりあえずその患者だけを上陸させた−不幸にして亡くなったが−。そして「田辺には検疫場としての施設がないから、船を浦賀へ回ってもらうように」と検疫官としての責任で指示した。それが中国から日本へのコレラ情報のはしりであったのだ。気の毒なことに浦賀へ回された船に次から次ぎと患者が出て、その後1、2カ月浦賀沖で上陸を待たされとのことであった。しかし京阪神へのコレラの上陸をくい止めた陰の功労者であると自分では思っているのだが。これは喉まででかけたが口からは出なかった。田辺で一緒の働いた同級の亡き岡本享吉君の顔を頭に、一瞬の思い出であった。(佐世保で終戦を迎えたが、「本ちゃん」の海軍軍医だったのでその後復員収容部に配置換えになり、田辺引揚援護事務勤務を命ぜられていた)

 

 「ご苦労様です。どうかお元気で」「ご一緒に写真をとってよろしいでしょうか」と家内をいれてスナップした。

 「テレビではこわそうな方だが、人のよさそうなおじいさんね。奥様がすばらしい」とは家内の印象であった。

 

 昔のことを思い出していたら、海軍軍医一分隊の名古屋の祖父江逸郎夫妻にあった。(私は二分隊)

 

 茶菓接待所と書いたあったところには「おでん」に「お蕎麦」の出店、焼き鳥などおつまみにビ−ルとジユ−スをおいた机があちこちの置かれていた。樽酒のところは記念の枡(ます)をもらいためか行列ができていた。

 パチパチ写真を撮っていたらフイルムがなくなった。

 ちょうどいい場所にフィルムの出店があった。ついでに桜の前で二人ならんでシャッタ−をおしてもらった。

 「昔はもっとず−と広かったのに。周りにビルがたって」

 昔は昔、四十五年以上前、結婚前に二人して来た場所でもあるのだ。

 そのことがわざわざ新宿御苑まで足を運ばせる内々の動機であったのであろう。

 「もういいわ」と大温室を一回りみて出てきた。

 

 そのあと地下鉄国会議事堂前でおりて、キャピタル東急ホテルでの佐野ぬい壁画制作ノ−ト展・銀座一丁目ギャラリ−現での鯉江真紀子展をみて息子の宿へ帰った。

 空港では学会への往き帰りの方々と顔を合わせた。

 以前なら学会で忙しかったのに、今年は東京と弘前と二回のお花見ができた。 (8-4-12)

           (弘前市医師会報,247,68-69,平成8.6.15.)  

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