普通部時代のこと

 

 普通部とは慶應義塾の中学校のことである。

 兄(正亮)からの手紙に「普通部百年誌が出席者に貰った分と投稿者に送られてきたものと二部重なったので、もしそちらに来ていなければ送ります」とあったので「こちらにありませんので」と返事を出したら、「目路はるか」の百年誌が送られてきた。

 兄の文や知っていた方々の寄稿文を見ていたら、急に昔のことを思い出した。

 

 私は昭和8年に普通部へ入学、12年に4学年修了である。卒業ではなく修了である。

 幼稚舎(小学校)と通り一つ隔てた普通部へ移っただけであり、幼稚舎KOBの3組から上がった人と外から試験を受けて入った人と混ぜて5組になった。3年のとき組み替えがあった記憶がある。幼稚舎6年間同じクラスだったのに普通部に入るとばらばらに分けられてクラス分けされたので4年の間クラスとしての意識より幼稚舎の延長としての同級生同士の意識が強かった。でも外から編入されて来る人は試験を受けて入る人達だからよほど勉強に頑張らなければという思いと、もう一つ3年と4年での成績が良ければ医学部への推薦の資格が得られるという決まりがあったことが記憶にある。はじめから医学部へと考えていたわけではなかったが、兄と将来の進路について寝床で話し合った記憶がある。前に「何故選んだか」に書いた。私の場合はその資格に該当したのであろう、4年修了で医学部へ推薦された。いわゆるエスカレ−タであった。

 

 いくつかの記憶に残ることを書いておく。

 

 労作展

 労作展とは当時普通部で言われていた小林澄兄(すみえ)主任の「労作教育」の作品展で、年一回学校をあげて労作展をやっていた。手元に一年生のときの作品「日本産業地図」の褒状があるが記憶はない。

 「僕にとっては労作は今回で四度目となった」と4年生のとき書いている。

 「前は三度とも制作品(木彫りの彫刻)をだした。今回も作業科設置十周年記念にあたるので初めはその方面のものを出品しようと考えてはみた。然し予科に入ると一段と英語が難しくなるとの事であるから普通部在学中に一度は課外の本を和訳してみたいと前々から思ってゐたのでこの労作を機に一つ和訳をしようと決心した。そこで兄に相談してこの”Modern Europe”を出してもらった」と書いている。

 「シドニ−・ハ−バ−ト著 近代欧羅巴 1798-1914 より訳出」

 自分で原稿用紙に手書きをし、表紙をつけて製本した本が手元にある。特賞の栞がはってあった。

 「今度の労作は前回に比して非常に骨折った。そして日数もかかった」「一通り訳せた事は非常に喜しいが最初考えた様に歴史として深く考える事が出来なかった事が非常に残念である」と書いている。

一年             二年              三年

作業科での作品で、鉢カバ−を作ったとき、斜めのところをどのように削ったらよいか頭をひねった覚えがある。 

 2.26事件のこと

 昭和11年にこの事件がおこっている。3年生の時だった。なぜこの事件が記憶にあるかというと、英語の安藤栄次郎先生の三男輝三さんが、「安藤大尉」であったからである。百年誌にあるように、このことを知って何となく学校に「重苦しい空気」があったことと、先生の姿が記憶にあるが、そのあとの裁判の結果がでたときは予科にあがっていた。

 なぜ記憶があるかというと、反乱軍といわれた人達がたてこもったのが「幸楽」であったことである。「幸楽」は幼稚舎同級の雄ちゃんこと佐藤雄次郎君の母上の経営による店であったからである。人一倍印象に残った事件であった。

 最近NHKでも放映されていたようにその時の裁判記録が公開されたし、青森県田舎館村出身の青年将校の兄の思いを知ってほしいと日記などをまとめた「邦刀遺文」を自費出版したという「20世紀の記憶」の地元新聞の記事(朝日新聞,12.1.4.)があった。当時の若い青年将校の気持ちを今思い、またこの東北農村の当時の実情を考えてみたりするこの頃である。

 

 カポネ

 カポネとは主任橋本孝先生のアダナである。アル・カポネと体型風貌共に似ていたからである。受け持ちは「修身」であった。今思うといわゆる「修身」とは違った慶應流の修身はなかったかと思うが、私の記憶にあるのは自分は「道徳は不変」であると思っていたのに「道徳は不変ではない」という意味の話であったとの思いがあるが、それは「エトス」のことを喋られていたのではなかったかと今思う。

 

 体育としては「弓術部創部80年」に書いたように、普通部に入って綱町の道場にいったこと以来のことで、多くの思い出がある。

 山中湖の林間学校へいったこともあったとは、当時の写真からの記憶である。

また昭和9年荏原新響練習所から皆で合唱を放送をした写真もある。

このとき一部私がソロでやった。家にそのことをだまっていたので、「あれは直ちゃんに違いない」とあとでにいわれた記憶がある。そんなことを家にかくしたい気持ちが中学生の自分にあったのであろう。

 英語の授業をミス・ウイルスから教わったことは、私の英語歴に書いたように、発音の基本を教わった方の一人であったことは間違いない。

 授業のボイコットがはやった時だったか、級監であった時か、幼稚舎につづいて「授業の皆勤」をめざしていた自分はそれに参加しなかったことがあった。皆に同調しなかったと見られた記憶がある。

そのあとだったか前だったかがはっきりしないが、誰かが投げた木の切れに釘があってそれが私の足にあたって怪我をしたとき、先生方が色々心配されたようだった。先生につれられてこの人を知らないかとクラスごとに連れ廻されたこととか、自宅まで先生がおくってくれたことがあった。

 「ハ−レ」がはえてきた頃で、それをこっそり机の下で回したこととか、ボ−トのバック台で先輩達が練習している姿とか、応援の旗をもって隅田川にいった記憶がある。

 講堂に労作展の作品が展示されていた。後に画伯と言われるようになった駒井哲郎君のエッチングがあった。

 4年のとき隣の席にいた岡田英次君が、彼は経済に進んだが、卒業後俳優になったのを知った。結婚後劇の「どん底」をみにいったり、久我美子さんとガラス窓ごしにキッスをする話題になった映画をみたりした記憶がある。

 兄が書いていた「まなこをあげて仰ぐ青空・・・」の普通部の歌のレコ−ドの吹き込みをやっていた増永丈夫さんの格好良いレンコ−ト姿、あのとき私達は幼稚舎の歌を吹き込んだ時だった。あの時のレコ−ドは兄のところにまだあるのではないかなどなど。

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