大学ネプタなど 昭和37年から40年にかけての頃

 

 写真は昭和30年に医学部長になられた生理学の佐藤煕(ひろし)先生である。

 学部長4期のあと野村学長についで昭和37年に弘前大学長になられた。

 東北大学総帥が学長になったと新聞にあった。教え子がテレビを送ったというような記事がでたころであった。

 医学部の教授になって教授会にでたら、東北大学の同窓会の星陵(ごんりょう)会の相談をしていたのにはおどろいた。それほど東北大学出身の方が多く、つい気やすさからそんなことが話題になったのであろう。その頃弘前大医学部の教授が次ぎ次ぎと母校の東北大学教授に転任されることがあって学生の某君がそのことについてどうなんだと佐藤医学部長に意見を述べたら、わらってもっと良い方を迎えるから安心しなさいと答えたという話が伝わってきた。もっとも先生自身が某大学の教授候補になったと嬉しそうに笑いながら私に話かけられたことがあった。先生が亡くなられたあと「雲想海(うんそうかい)」という回想録を息子の佐藤邦夫先生らがだされたが、先生にはそんな面があった。

 学長なられるちょっと前に教育学部に火事があった。発令前であったので先生の責任にはならずすんだのだががこのおかげか文京地区の建物の整備が一段と進んだ。

 次々と大学が整備され当時の藤森弘前市長から大した政治力だといわれたことがあった。

 後日談になるが退官あとこわれて柴田学園にできることになった東北女子大学の学長としてにむかえられるが、この時関係教授ということでお手伝いしたことは別に書いた。亡くなられたあと米田君らが医学部葬をという話があったが女子大葬であった。大池医学部長の代理で弔辞を読んだ。津軽CCのゴルフ場をつくることになる話もあるがここでは省く。

 ちょうど津軽華子様が弘前に来られることもあって弘前は歓迎ム−ドにわいたが、大学でもネプタをだすことになった。そのとき私もそろいの浴衣姿と草履をはいて街をはじめて歩いた。地域にねざす大学というイメ−ジが定着しつつあった。地方大学という言葉に抵抗を覚えていた私が地方の大学の重要性が認められてほしいと書いたこともあった。

 

佐藤 葛西 大池

当時の女性軍

 佐藤先生の娘さんの珠子さんが同級の安達実君(昭35卒)と結婚されることになって挨拶にみえたときのスナップがあった。

 その後アメリカへわたり1965年ワシントンにいたとき電話を病院にかけたらすぐ電話に出た時にはさすが連絡はすぐつくものだと感心した思い出がある。

 

 安達君が推進していたプロジェクトがアメリカの国の予算の変更で採用されなくなった時、弘前にも席はないしクリ−ブランドで開業されることになったと聞いたが、一連の苦労話があったことだろう。1986年学会でアメリカへいったとき立派な家に寄らせて頂いたが、臨時同窓会をやっていただいた。この辺のスト−リは別に詳しく書かねばとは思うが、記念の写真だけ掲載することにする。

 

 毎年夏冬年2回の西目村の調査も継続されていたが、秋田県の大森町からも話があって学生諸君と調査に行ったことがあった。大森町の病院長がかわり、町長もかわって、折角住民台帳など揃えてこれからという時に殆どふいになってしまった。それでも横断的疫学調査の論文をいくつか纏めることができたが。

 

西目村反省会(昭37.7.) 

秋田県大森町調査 (昭38.7.)

 資料の整理・統計的処理にパンチカ−ドを使った。こんな方法が当時最も進んだ方法であった。

 八戸で第1回公衆衛生大会が開かれたり、環境衛生大会が開かれた時代であった。

八戸第1回公衆衛生大会(昭39.7.14.)

 

弘前環境衛生推進大会 佐々木(昭36) 第1回青森県環境衛生大会 佐々木 中村ら(昭36)

昭和36年11月保健医学研究会のコンパもあった。

 

昭和37年夏自動車部の全国一周もあった。

昭和37年東医体スキ−(大鰐)優勝ということもあった。

昭和39年12月ヨット部の艇庫の延焼による火事もあった。

  

 昭和38年夏には衛生公衆衛生学教室共同で五所川原市民を対称に「健康水準調査」をで行ったことがあった。「健康水準調査」とはわが国では「はしり」の調査であったと思うが、その為に「健康福祉研究会」という組織を教授会で認めていただいたということもあった。報告書だけで論文は書かなかったが、主婦の労働が低減される時代で肥満が問題になる時代のさきがけであった成績であった。

 

武田・中村ら 打ち合わせ 五所川原市保健所にて (昭38.8.)

 

昭和38年医学部玄関      わが家にて (昭38)

 

           保健婦教室へ (昭38)    西田美子 柴垣和子 及川玲子 (昭38)           

Dr.Staloneの疫学 土屋ら 慶應にて (昭38)

 当時千葉大におられ後に山形の公衆衛生の教授になった新井宏朋先生から相談があって眼底撮影のテストを金屋で行ったことがあった。新しい無散瞳でとれる器械とのことであった。私は同じ眼底写真のスライドを新井教授と弘大眼科の当時助教授であった松山秀一君にもブラインドでみてもらって比較検討してみたことがあった。眼科所見の分類に諸説あったときで入野田公穂教授の班会議には報告はしたが論文を作る前に松山君を失ってしまった。

 

  

眼底撮影 金屋にて (昭39.3.)

医学部ビュ−テイ−ス (昭39)

昭和39年5月31日新装なった弘前市民会館で医学部創立二十周年(医専から数えて)記念式典が行われた。慶大草間良男教授にも感謝状がだされることになったので、私が世話係りをすることになり十和田観光も含めていくつかスナップした写真があった。

  

佐藤学長 山崎前知事 草間良男            草間夫妻 小野定男

 

 日本衛生学会総会を弘前で昭和40年に私が引き受けることにきまったのでその下見もかねて学会幹事長であった慶應の原島進先生に弘前に来ていただいたことがあった。

 「変貌する社会における公衆衛生のあり方」について昭和39年6月6日特別講演をして頂いた。

 「今日このような題をかかげましたのは、日本の公衆衛生、あえていわしていただければ厚生省の公衆衛生、厚生省でとりあつかっている公衆衛生が転換期にきているのではないか、具体的にいえば保健所活動が転換期にきている。なぜそうであるかというと、結局やはり、変動発展するという言葉を一方におきまして、もう一方に公衆衛生という言葉をつかったわけでございます。・・・そういうものとに関係を申しあげたい」と講演された。

 

 

 昭和39年京都で藤原元典教授が会長で日本衛生学会が開催されたときはじめて次期会長特別講演が行われることになった。学会長特別講演をやることは学会の準備と重なって大変だから前の総会のときに次期学会長特別講演としてやってしまって、学会の時は学会運営に専念したらというアイデイヤではなかったかと思うが幹事会の意向であった。

 私の講演の座長は原島先生がやって下さった。ノ−ベル賞の湯川先生、学会長学士院会員の藤原先生と一緒の講演であったが、私は「生活と高血圧」という題でそれまでの疫学的研究の成果を述べたが、この成績をもって昭和40年弘前での総会のあと欧米留学へ出発した。

 

 

昭和39年4月八甲田へ一家でスキ−に行った。

昭和39年10月教育の葛西文造先生から話があって日本家政学会東北・北海道支部第9回総会が東北女子短期大学で開催されたとき、はじめて「塩少々」という題をつかって特別講演をした。

大間病院に医師をという話があって蓮沼正明君が手伝うことになり大間にも行った。

外遊を前に 大間にて (昭40.7.)

医学部は建築が進み 煙突の旧校舎は姿を消し 新しい病院の建築が進む時代になったいた。

 

 

                     昭39年秋

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