「金屋」覚書

 

 「金屋」(かなや)とは青森県尾上町金屋のことであるが、弘前市狼森と秋田県西目村(現西目町)に次いで住民の血圧測定が約20年間観察出来た部落について記憶に残ることを記そうと思うが、その前にわれわれが昭和29年から33年にかけて行った「東北地方住民の血圧の集団的観察」(日公衛誌,6,496-503,昭34)についてふれておきたいと思う。

 この報告を論文にしたのは、東北地方の住民の脳卒中による死亡率が若いときから著しく高いということから、その根底には住民の血圧が関係があるのではないかという考えがあった。住民の血圧について当時までに知られていた資料は生命保検医学上の資料と診療所とか病院での資料に限られていたから、実際に生活している人々の血圧を知りたいと思ったのである。これが今になってみれば「疫学」の原点と考えるのであるが、その考えをうらずける成果が横断的疫学調査ではあったが得られたことの記録を公表したかったのである。個々の測定成績の結果は弘前医学に発表した。

 何故「集団的血圧測定」であったのか。

 それは昭和29年当時弘前大学医学部をあげての研究課題が「シビ・ガッチャキ症」であって、臨床各科とは別に「衛生学」では、「生活調査」と子供達を含めての大人までの「口角炎」の観察が研究方法の中心であった。

 東北大学近藤正二教授の流れをくむ高橋英次教授・武田壌寿助手による「死亡率の検討」「生活調査」と、慶應のどちらかというと生理系の原島進教授の流れを持つ佐々木助教授が「血圧」を測るという形が出来上ったのであった。青森県内の津軽また南部、また秋田県まで足をのばして歩き、集まった人達の血圧を測定していったのである。

 血圧だけについていえば、昭和29年から33年末まで、測定対象数延べ62、実数40例、観察人員数延べ18029名、実人員12173名に達した。この結果を纏めて報告したのである。

 「血圧論覚書」にも書いたが、当時「高血圧か高血圧症」かの問題があった。例えば最高血圧150mmHgの限界線を引いていわゆる高血圧者が何%いるかというのではなく、(市販の血圧計の150mmHgのところで背景の色が違う血圧計もあった)測定値そのものの性別年齢階層別にみた血圧分布として整理することが必要だと考えた。また夏季と冬季の差も考え、測定時期も明記した。

 細かいことでいえば、国際的また国内でも種々検討されていた血圧測定方法を検討した上で測定方法は一定の方法(弘前医学,11,704,昭35)を決めて行った。

 部落民に集まっていただいて、しばらく安静にしたあと、りんご箱でつくったこともあったが簡単なベットの上に仰臥させ、右上腕についてまず上腕囲を計測、ついで水銀血圧計を用いて触診法で1回測定、次ぎに聴診法で数回測定して、その最高血圧値が最低を示した時の最高・最低血圧値をとった。最低はスワン第5点をとった。何故最高血圧値が最低の値をとったかというと、一般的にいって血圧が測定の初めは高く次第に低くなる傾向があったので、このように最低の値を記録しても東北地方の住民の血圧は高いのだということを示したかったのである。

 この測定が行われるとき、とのように記録するか、整理するかにも問題があった。

 われわれは血圧値を末尾偶数値でよんだ。学生が測定した時の末尾の読みを各個に度数分布をとってチェックしたこともあった。

 普通の血圧計で測定できないような260mmHg以上ある例もあったが、分布としてはそれは260mmHg台にいれた。最低血圧の血管音が0mmHgまで聞こえ、第5点が把握しがたい場合には「0」と記載し、分布の平均値の計算には入れなかった。末尾を2mmHgごとにきめたので、血圧10mmHg区間の度数を数えたうえ、その区間の代表値をどこにきめるかも問題であったが、われわれの場合には中央値5を用いて計算した。算術平均値、標準偏差σ(シグマ-)、標本誤差m=σ/√N 、および最高血圧150mmHg以上、最低血圧90mmHg以上の出現率(%)を計算して表示した。

 「集団的」と考えるのは、日本で行われ、成果があったと考えられた「結核検診」の経験があったからだと思う。かつて「人類学調査」また最近の「人類生態学調査」などに見られる血圧測定成績、これはミネソタへ在外研究で滞在したとき、国際的な資料について可能な限り検討したが、それらにみる形であり、諸外国での初期の疫学調査の報告にでも伺われることであるが、ある地区に入りこんで「みせびらき」して、物珍しそうに集まってくる人から資料を得るということから始まっているようである。

 海軍での高木兼寛の脚気の研究も「軍隊だからこそできた」とい批判もあるが、「失敗したら腹をきる」といった話も読んだことがある。

 ミノソタでの経験「わが愛するモルモット諸君へ」のことも思い出されるが、われわれが出かけていって「血圧」を測ることは、「物珍しさ」も手伝って、地域社会に受け入れられたようであったし、よく集まって下さったと思う。

 後の話になるが、「尿」の採取、また「髪の毛」の採取にもそれぞれ思い出もあるが、「血液」採取までやっては、継続観察は無理と考えた。また採取後の資料の分析について当時学問的に方法論が確立しているとはいえない状態であったので、しばらくは「血圧だけ」ということになった。 

 東北地区住民の集団的観察の結果のは次ぎのようであった。

 1)青森県・秋田県内の住民の血圧は、わが国の他の地方の住民の血圧と比べて一般に高値を示す。

 2)住民の血圧が高いのは、成人の血圧が高いばかりでなく、子供の時から高いと思われる。

 3)血圧の性差については明らかでない。

 4)東北地方住民の血圧は一様に高いのではなく、対象によってかなりの差があるのではないかと思われる。

 5)青森地方においては月平均気温が10度C以上を示す5月から10月の間に測定された成績と、10度以下を示す11月から4月に測定された成績と比べると、明らかに低温期に住民の血圧は高値を示す。

 が本報告の要旨であった。

 以上が横断的疫学調査の成績であったが、ここで得られた「手がかり」を縦断的疫学調査で検討していかなくてはならなかった。

 その為には同じ住民について継続的に血圧を観察していかなくてはならなかった。

 結局東北地区3地域の方々についてそれができたのであるが、「継続」するには、地域での人間関係が一番ものをいったのではないか。

 「継続観察」を考え、住民台帳までそろえて、いざ観察という段階になって「町長」がかわり、「病院長」がかわり、報告出来なかった例も過去いくつもあった。

 多くの地域の中の尾上町金屋の例を考えてみると、昭和33年2月から50年8月まで夏冬年2回ないし1回、合計20回30歳以上の住民の集団血圧測定による資料が得られたのである。

 金屋地区は津軽のりんご栽培を主にした昭和37年人口1401名の農村であるが、そこの30歳以上の全員を測定対象にした。

 この地区が選ばれた理由は黒石保健所長の高松功(つとむ)先生のご紹介であったと思う。高松先生は高橋英次先生らと「予防医学懇談会」をつくられた方で、衛生学教室は後々までお世話になった。また尾上町長は後日衛生学開講25年記念の公開講演会でも話をしていただいた葛西秋雄さんであったことも関係していると思う。しかし一番の人は、村人のすみからすみまで覚えていた 保健婦の小野チエさんであったと思う。

血圧測定にあつまる方々(金屋にて・昭32.8.)        (昭33.2.)

血圧測定風景(昭34.2.)     小野チエさんと(昭47.8.)

 狼森も金屋の場合には教室から近かったせいもあるが、検診日の昼飯は出して戴いたが、学生アルバイトなどの費用は科研費などでまかなった。

 血圧測定は夏冬約20年継続同じ方法で観察・記録はしたが、その他循環器検診についての種々な方法を検討するための協力が得られた。「血圧測定におけるマンシェットの幅の検討」「自動血圧計の試作品テスト」「心電図」「眼底撮影」「検尿についてのNa・K・クレアチニン測定、濾紙法の検討」「毛髪のミネラル検討」などなど、それら最新式の検診方法の検討のフィ−ルドになった。このような新しい検査器具テストへの協力はよく行われてきたと思う。

 この金屋を含む尾上町でも昭和58年度保健文化賞を戴いた。祝賀会を行い、私も講演をしたこともあった。

 丁度西目に調査にいっていた時だった。NHKのテレビで尾上町金屋のことを見た。司会が鈴木健二さんの「奥さんこんにちわ」で、婦人会の会長さんと小野チエさんと保健所長の小野淳信先生が出演していたのを見た記憶がある。血圧が生活改善で下がった話とかりんごの話も出た記憶がある。

 小野チエさんが退職したあとハワイへ旅行して帰ってきて教室へよったとき、「フィルムが何もうつっていなかったの」といっていた声が耳に残っている。(2000202kanaya)

(弘前市医師会報,271,81−83,平成12.6.15.)

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