アンゲラーの生地、サンクト・アントン教会
サンクト・アントンの郷土博物館

7)総論
 『おもちゃの交響曲』の真の作曲者は、エドムント・アンゲラーにほぼ間違いがないといえます。私は2008年夏チロルを訪れ、フィーヒト修道院では、かつてのアンゲラーの地位にある、オルガニストで合唱指導者のレジノ・シュリング修道士にお会いして、アンゲラーについていろいろ教えて頂きました。アンゲラーの様々な作品は、現在シュリング修道士の手で18世紀末の手書きの楽譜から、新しい現代の楽譜に作り替える作業が進行中です。さらに、アンゲラーの生地であるサンクト・ヨハン、玩具の生産地であるベルヒテスガーデンに寄り、ザルツブルクでは今回の文章の出典となった「モーツァルトイヤーブック」を出版している、世界的なモーツァルト研究機関である国際モーツァルテウム財団、さらにザルツブルク音楽祭の音楽関係者にもお会いして、意見交換をしました。
 そこで改めて認識したのは、18世紀から現代までつづく、音楽界の歴然とした上下関係です。つまり音楽の都ウィーンを頂点に、一段下にザルツブルク、そしてその遥か下にチロルの音楽界があります。ザルツブルクで『おもちゃの交響曲』の話題を出しても、皆そろって「アンゲラーのことも、シュタムス修道院のパルセッリ写譜のことも知ってるけど、それほど重要なテーマではない。」といいます。一方チロルの音楽界では正反対で、ハイドン兄弟やレオポルド・モーツァルト作だと思われていた『おもちゃの交響曲』の真の作曲者が、チロルの音楽家エドムント・アンゲラーだったということを、何の疑問も抱かず信じています。シュタムス修道院にはアンゲラーの名前を冠した教室があり、生地のサンクト・ヨハンでは、町の博物館で、おらが町の大作曲家を誇りに展示しています。
 この上下関係こそ、『おもちゃの交響曲』の真の作曲家探しの最大の妨げだったといえます。実は、1951年バイエルン州立図書館でレオポルド・モーツァルト作のカッサシオンの一部が『おもちゃの交響曲』と同一だということを発表したシュミットは、すぐ翌年の論文『続《こどもの交響曲》』で、チロルのシュタムス修道院の音楽蔵書にあった作品の、それまで未知であったさらなる写譜の発見を報告しています。しかし、「シュタムス修道院の手書き譜のさらなる詳しい検討はまだ不可能であった。しかし、それはこの作品の帰属先、すなわちこれまでモーツァルトの父に帰属するとしていた納得できる説明を大きく変更することにはならないであろう。」と、半ば研究を放棄しているのです。
 確かに、世界中にモーツァルトの研究家は存在し、前年に発表したレオポルド・モーツァルト作曲説は、それこそセンセーショナルな研究としてシュミットの名前を高めまたばかりでした。それがわずか一年で、アンゲラー作となることは、自らの研究者としてのいい加減さを公表することでもあるのです。さらに、世界的な『おもちゃの交響曲』のルーツが、格下のチロルの名もない音楽教師だということは、ザルツブルク、およびモーツァルト研究者にとって、必ずしも喜ばしいことではありません。
 権威ある世界的研究機関が一旦レオポルド・モーツァルトの作となった『おもちゃの交響曲』の、さらなる研究に消極的だということは、確かにアンゲラーの研究の大きなブレーキとなりました。現に世界の主な音楽書は、いまだにレオポルド・モーツァルトの作と掲載しています。
 この事態を大きく転換させたのが、ほかならないインターネットでした。チロルの研究者は、アンゲラーと作曲者と明記してあるパルセッリ写譜を画像で掲載しました。この画像が語る意味は、他のどの文献や解説よりも大きく世界の音楽ファンに語りかけます。

ザルツブルク、聖セバスチャン教会のレオポルド・
モーツァルトの墓。このお墓にはコンスタンツェ、
ニッセン、C.M.ウェーバーのお母さんまで眠っている。
サンクト・ペーター教会のミヒャエル・ハイドンのお墓
マカルト広場 モーツァルトの住居
モーツァルテウムの前で親友のザルツブルク音楽祭
音楽監督マルクス・ヒンターホイザーと共に

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