8)空想『おもちゃの交響曲』(多分ほんと!)
 エドムント・アンゲラー(1740-1794年)修道士は、1758年から、チロル地方のフィーヒト修道院で、当院の音楽教師、オルガニスト、合唱指揮者をつとめる一方、ミサ曲やジングシュピールなど様々な作曲をしました。
 フィーヒト修道院では音楽教育が盛んで、地域の子供や、チロル地方のあちこちから音楽を志す若者が集まり、日々修練していました。フィーヒト修道院の位置するシュヴァッツはザルツブルクからインスブルック、ブルンナー峠を越える街道沿いに位置し、当時ヨーロッパ全土に広まっていたベルヒテスガーデンを中心とする木製玩具の行商人たちも、頻繁に立ち寄りました。
 1770年ころ、30歳になったエドムント・アンゲラーは、修道院の子供のオーケストラのために、木製玩具を使った、ミニ交響曲、『ベルヒテスガーデン音楽』後の『おもちゃの交響曲』を作曲したのです。『おもちゃの交響曲』はあっという間に人々の心をつかみ、チロルのあちこちで演奏されるようになりました。アンゲラーが親交のあるシュタムス修道院のパルセッリ修道士を訪れた時、アンゲラーは、この『おもちゃの交響曲』の楽譜を渡しました。パルセッリ修道士はその几帳面な性格から、チロル最大の所蔵を誇る、シュタムス修道院の蔵書に加える際、自分の友人であるエドムント・アンゲラーの名前を、当然のことながら明記したのです。
 一方、すでにチロル全土で演奏されていた『おもちゃの交響曲』は、玩具の行商人たちにより、さらにチロルの外、ザルツブルクやウィーン、あるいはドイツ、イタリア、フランスなどにもたらされ、全ヨーロッパに瞬く間に広がりました。このごく初期の段階で、エドムント・アンゲラーの名前は楽譜から消えました。というか、フィーヒト修道院の外に出た段階で、すでにアンゲラーの名前は消えていたのかもしれません。作曲者の名前がないことは、別な意味で好都合でした。つまり、楽器編成を自由に変える、あるいはレオポルド・モーツァルトがそうしたように、自らの楽曲に取り込んでしまうといったこともよく起こったに違いありません。さらに、『おもちゃの交響曲』の楽譜を出版するとき、出版社は、売上向上のために、交響曲の父ヨーゼフ・ハイドンの名前を勝手につけたのでした。ちなみに、ドイツ語のタイトルは『子供の交響曲』(Kindersymphonie)で、『おもちゃの交響曲』は英語圏での名前(toy symphony)に由来します。かくして『おもちゃの交響曲』は、ヨーゼフ・ハイドンの作曲として世界中に広まりました。
 『おもちゃの交響曲』は今日無名の作曲家エドムント・アンゲラーの発想と作曲により、これからも世界中の子供と大人を魅了しつづけます。
フィーヒト修道院のオルガン
シュタムス修道院

後記:
2006年秋、ふとしたことから目にしたドイツのホームページで、『おもちゃの交響曲』の真の作曲者がエドムント・アンゲラーという全く無名の作曲者だと知ったときは、大きな驚きでした。そして四半世紀も前にザルツブルクで討論したことを、あたかも昨日のことのように思い出しました。そこで、このことをまとめた文章を現代の文明の利器であるインターネットに掲載しました。それから一年ちょっとで、再び大きな驚きを経験することになります。それはこの文章の要約が、光栄にも小泉純一郎元総理の著書「音楽遍歴」に掲載されたことです。そこで、折角紹介して頂いたならば、ここはチロルに出かけ、自分の目で確かめたいという気持ちになりました。インスブルックの空港に降り立った時、両側にそびえる山々と、そこに挟まれた谷の印象は強烈でした。これはアンゲラーが暮らした200年前と何も変わっていません。私は同じオーストリアのザルツブルクに8年近く暮らしましたが、当時から、ウィーンの音楽を語る人はいても、チロルの音楽を語る人はまったくいませんでした。そしてそのことが、アンゲラーの研究を遅らせたことを、今回の旅で知らされました。しかし、その上下関係を崩したのもまた、インターネットだったのです。チロルの研究者がインターネットに掲載したシュタムス修道院所蔵の楽譜は、200年の歳月を越え、私たちに真実を語りかけています。

出典:
・国際モーツァルテウム財団の『モーツァルトイヤーブック1996』で掲載された、ヒルデガルト・ヘルマン=シュナイダー(Hildegard Herrmann-Schneider)著『チロルのフィーヒト修道院ベネディクト派修道士,エドムント・アンゲラー(1740−1794)は「こどもの交響曲」の作曲者か』の論文
チロル州立博物館フィーヒト修道院シュタムス修道院サンクト・ヨハン市の各ホームページ
上記の文章、ならびに一部の写真はMaestroSasakiこと佐々木 修の著作物です。転載をご希望の方は、事前にご連絡ください。

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