19世紀のリトグラフ、左下がフィーヒト修道院
2)フィーヒト修道院(Stift Fiecht)とその音楽教育
 エドムント・アンゲラーの音楽活動を解く上で、当時のフィーヒト修道院の音楽環境を探ることは重要な意味があります。
チロル州立博物館所蔵のゲオルグ・レッテンビヒラー著『ウンターイン渓谷に見る伝記および年代記的メモ』(1850 年頃)には次のような記述があります。
「18世紀の末近くには・・・フィーヒト修道院は、学問よりもむしろ芸術によって知られた存在であった。サンクト・ヨハンのエドムント・アンゲラーのような音楽芸術にすぐれた修道会司祭が5人も,またゼルのダークン(Dagn)3兄弟そして、ライエンのマルティン・ゴラー(Martin Goller)がいた。」
 さらにもう一人の修史家、オーストリア帝国政府顧問ベネディクト・フォン・ザルダニア(Benedikt von Sardagna)は、フィーヒト修道院をきわめて高いレベルの音楽教育機関であると詳しく描いています。
 「この修道院には、何人かの少年たちがラテン語初等教育を受けるのみならず、歌唱やオルガン演奏まで習っていた。役に立つ教科をないがしろにしているのではない。フィーヒト修道院は州のオルガニストと学校教師の養成所といってよいだろう。というのは、シュヴァーツ郡にはたった18名のオルガニストと学校教師しかいないのだが、それらはみなフィーヒト修道院で教育を受けたのだ。この人数には町や修道院やこの郡以外に住んでいる人たちは入っていない。 このような第一級の音楽家養成所の成功の大きな要因は、その音楽教育家エドムント・アンゲラーに負うところが大きい。」(『インスブルックならびにウンターイン渓谷郡およびヴィップ渓谷郡における研究学校機関とその補助施設についての歴史的統計的報告,この地方の研究者および芸術家についての若干の報告付き』fol.87v 1790年頃 チロル州立博物館所蔵)
 上記の資料からは、エドムント・アンゲラーが、チロル地方の中心的な教育者であったことがわかります。
残念なことに、フィーヒト修道院の度重なる火災により、アンゲラーの自筆譜は消失しています。

シュタムス修道院
図書館

3)シュタムス修道院(Stift Stams)と P・シュテファン・パルセッリ(P.Stephan Paluselli)
 エドムント・アンゲラーを作曲者と明示している『おもちゃの交響曲』の楽譜は、1790年ごろ、シュタムス修道院のパルセッリ修道士が書きました。シュタムス修道院はインスブルックの西約30kmに位置し、1273年マインハルト2世によってチロル地方の領主たちの墓地として建設されたチロルの中心的な修道院です。特に当院の音楽蔵書は重要で、18世紀、19世紀を中心とする、約3000作品の楽譜が保存されて、チロル地方の文化の源ともいえるコレクションです。この音楽蔵書の基礎を築いたのがP・シュテファン・パルセッリ(1748-1808年)です。パルセッリはシュタムス修道院の音楽教師であり、聖歌隊の指揮者でした。つまり、エドムント・アンゲラーの同業者、あるいは同僚という訳です。実際、アンゲラーはしばしばシュタムス修道院を訪れ、自作を演奏したり交流を計っています。またパルセッリの大きな業績が音楽蔵書の整理でした。これはパルセッリが1791年に聖歌隊指揮者に就任したときに始めたもので、1804年までパルセッリ自身の手で継続しました。 パルセッリはこの書物に見事な熟練さをもって他にはない豊富な修道院の楽譜遺産を、たとえば作曲者、ジャンル、歌詞の開始部分、取得日を登録し、識別を明確にし、楽器編成を表示するために、それぞれの曲にその開始部分を付しています。その中には、作曲者不明の場合はN.N.と表記されます。またミヒャエル・ハイドンなども同様に整理されています。つまり当院で発見された、アンゲラー作曲と明記された『おもちゃの交響曲』の写譜は、パルセッリが確信を持ってアンゲラーを作曲者と記載しているといえます。上記の事柄を総合的に判断して、シュタムス修道院で発見された『おもちゃの交響曲』の楽譜は第一級の資料といえます。


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