ハイドン兄弟は『おもちゃの交響曲』の作曲者か?
ヨーゼフ・ハイドン
ミヒャエル・ハイドン

フランツ・ヨーゼフ・ハイドン(Joseph Haydn)(1732-1809年)
 ヨーゼフ・ハイドン研究の先達であるカール・フリードリヒ・ポール(Carl Friedrich Pohl)(1809-1868年)は、すでに19世紀に《こどもの交響曲》を度重ね研究して、それを1788年ごろのヨーゼフ・ハイドンの作品であると推測されると発表しました。それ以降もっぱらヨーゼフ・ハイドン作曲説が定着していました。また、『おもちゃの交響曲』の最初の出版にあたり、フランツ・ヨーゼフ・ハイドン作曲と記されたことは事実です。しかし、これは出版社の都合によるものとされています。確かに商売上は作曲者不詳とするよりも、交響曲の父として104曲+αの交響曲を作曲したヨーゼフ・ハイドンの名前を使う方が有利です。ここでの一番大きな疑問は、ヨーゼフ・ハイドン自身の作品目録に、この『おもちゃの交響曲』の記載がないことです。また、当時すでに「ベルヒテスガーデンの音楽」として有名だったローカルな音楽様式を、わざわざ音楽の都ウィーンの頂点に位置するヨーゼフ・ハイドンが書く必要があったか疑問です。さらに、仮にヨーゼフ・ハイドンの作とするならば、同じ時期のヨーゼフ・ハイドンの交響曲第90番や第91番と比較して、あまりにも相違点が多いことからも、ヨーゼフ・ハイドンの作曲とする説は、甚だ疑問を感じます。実際このヨーゼフ・ハイドン作曲説は、当初から嫌疑がかけられていました。


ミヒャエル・ハイドン(Michael Haydn)(1737-1806年)
 ヨーゼフ・ハイドンの5歳年下の弟であるミヒャエル・ハイドンは、1763年から亡くなる1806年まで、ザルツブルク宮廷楽団のコンサートマスターや大聖堂のオルガニストをつとめるなど、ザルツブルクの中心的な音楽家でした。またモーツァルトファミリーとも親交があり、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトが尊敬していた、数少ない作曲家でもありました。
 低部オーストリアのメルク修道院蔵書から、ミヒャエル・ハイドン作と記された『おもちゃの交響曲』が発見されました。この写譜は、ミヒャエル・ハイドンの親友である P・ヴェリガント・レッテンシュタイナー(ベネディクト派)修道士が作成したものですが、いくつか興味ある事実があります。まず弦楽器の編成が、一般に普及している「2ヴァイオリン」ではなく、「ヴァイオリンとヴィオラ」だということです。また、「おもちゃ」に関する詳細な指定はありません。
 ミヒャエル・ハイドンの作とすることは、ヨーゼフ・ハイドンよりは信憑性がありそうです。なにより、ベルヒテスガーデンはザルツブルクからわずか15kmほどに位置し、「ベルヒテスガーデンの音楽」にも、いわゆる土地勘があったはずです。
 しかし疑問点は、やはり他のミヒャエル・ハイドンの作品と比較しての相違点、さらに重要な問題は、ミヒャエル・ハイドンの作曲という楽譜が出てくること自体、当初のヨーゼフ・ハイドンの作曲ということが、元々懐疑的であったという証明なのです。また、本当にミヒャエル・ハイドンの作とするならば、出版の際にもあえてヨーゼフの名前を使う必要はありません。ミヒャエルだって、『おもちゃの交響曲』には十分な「ハイドンブランド」なのですから。
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