弘前だより(その40)

          

 

 弘前だよりも40回になった。

 昭和29年「上野発夜行列車降りたときから」40数年たってしまった。知らないうちに今年平成13年1月17日で80歳の大台にのった。一応元気である。

 弘前大学医学部にスキ−部があった。学生時代にスキ−をすこしやっていた私は解剖の照井精任教授らがやっていた「コロセン」クラブへ入れて戴いた。

 大鰐スキ−場ヒュッテがあってよく通った。照井先生・板垣正太郎先生や当時学生であった水木一尹君らの努力によって寄付金を集めて建てられたものであり、学長の郡場先生の名前で感謝状がでている。そのヒュッテが新聞に報道されたように今年限りで取り壊されることになった。昔のことを知っている者にとっては残念ではあるが致し方ない。時がたつということはそんなものであろう。

 私が衛生学の教授をしていたとき、橋本功・松谷善吉・花田雅寧君らが教室へきて「ガリ」をきってこの「SPUR」創刊号を発刊した。そして今日までスプ−ルがよくつづいたと思う。

 照井先生のあとスキ−部長になり停年退官を前に眼科の松山秀一君にバトンタッチしたが先立たれてしまった。そして今加地隆教授である。

 この間「佐々木先生の来ない東医体なんて」と「ゆかりちゃん」にいわれたことがあったが、よく参加させて戴いた。

 「部長の役目はカメラマン」と言われたように、学生諸君の姿をとりつづけた。そして「弘前だより」を毎回書かせていただいた。

 私は「毎日が歴史である」という気持ちから「毎日の記録」を出来るだけ書き残したいと考えた。今NHKで「その時」「歴史は動いた」をやっているが、その時その時が貴重であり、それが「SPUR」であると思う。

 私の手元にあった「SPUR」のバックナンバ−(1−30)まで先日鵬桜会に寄贈した。そして今度「No.40の弘前だより」が発刊されたら(31−40)を贈って、筆を置こうと思う。コンパにも出ず、皆さんとの接触が少なくなったからである。

 私の「弘前だより」また「写真集」は”佐々木直亮”でケンサクすると出てくるホ−ムペ−ジに全部いれておいた。

 今年も財政困難な大鰐町のために”シ−ズン券”を買って利用したが、昨年と違って雪は多く、よく整備されていて、いつになく楽しむことができた。この姿もホ−ムペ−ジに入れておいた。 ではお元気で。(2001.5.10.)

SPUR 40,4,平成13.

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