SPUR弘前だより1−10

 (昭和34年−47年)

山は呼んでる(1)

 写真 大鰐スキ−場 昭和31.2.

 久しくご無沙汰致しました。お元気のことと思います。

 弘前へ29年に来ましたからかれこれ5年になります。北国の運動といえば、スキ−・スケ−トということになりますが、本場の大鰐が電車で30分のところにあるので、目下スキ−を猛練習中といったところです。

 一昨年からスキ−をはじめたのですから今年は三冬目です。この年といっても今年38才になったばかりですが、スキ−を始められるのも、学生時代にやったことがあったからで、手軽に又はじめられたのでしよう。もっと色々なことを学生時代に手がけていれば、社会にでてから簡単にやることができるものだと思っています。これは一面の真理なので、機会あるごとに学生諸君に話していることなのです。

 でも本場ではやはり本場のことをやるのが一番でしょう。この北国にいて、熱帯病の研究ができないのももっともですが、研究もやはり本場の「あたり」に熱をあげているしまつです。「あたり」といっても、食中毒のあたりではありません。脳卒中のあたりです。これからの世の中は成人病とかいって、脳卒中の問題がうるさくなることが考えられれます。目下その本場で研究中ということです。

 成人病といえば、癌と心臓病も浮かんできますが、この心臓病の予防という面からも中年以後の運動がぜひ必要という研究もあるのを読みましたので、冬のスキ−にせいがでるというわけです。         中年以後の医者が、患者におわれ、体を適当に動かすこともなく、贅沢な食事をとることになって、早死しているという成績がでてくるのをみると、われわれの問題として切実なことになります。そんな理屈をぬきにしても、すみきった空気に中で、雪の山々を眺めながら、スピ−ドとスリルを楽しむのは、何ともいえない気持です。でも少しでもうまくスキ−を楽しむようになりたいのは人情の常。そこでこっそりウイ−クデイにもぬけだして、電車で大鰐までかけます。時々さぼった学生諸君と顔をあわすのも楽しみです。

 こちらはスポ−ツ医学の研究とか、スキ−と疲労の研究、スキ−と外傷の研究等々いくらでもテ−マをつけることができますが、授業をさぼった学生諸君には、そんな理屈がつかないのがかわいそうです。それでも電車の定期を買って通いつめる学生君の顔をみると、こんな人達は将来きっと衛生学的にみると長生きできる人ではないかと思うことがあります。同じ教授の中でもすごく熱心な方がいて、一冬五六十日というスキ−日記をつけ、顔の黒さがうりものになっています。小生もそれに近かづこうと努力はしていても仲々おいつけません。それでも女の子の教室に出ると顔が黒いので、わあ−、とくるところからみて、効果は上がっているのかも知れません。その先生にある日手ほどきを受けました。まずレッスンよりリフトのただ乗り。スキ−上達の早道ということになり相です。次は、体を谷側に思い切ってなげだすこと。重心がうしろにかかっては回転がうまくいくはずがないから当然でしょう。今はそこの要領を何とかものにせんと練習中といったところです。

 昨年、「有楽町で会いましょう」という流行歌をすこしもじって、「あなたと私の合い言葉、大鰐スキ−場であいましょう」といって大分うけましやが、さしあたって今年のテ−マは、「山は呼んでる」というところです。いずれ上達したら写真などお送りしましょう。さようなら。お元気で。(34.3.4.)

 

弘前だより(2)

 

 スプ−ル創刊号に「山は呼んでる」という便りを書いてから早3年たちました。おの当時はやった流行歌「有楽町であいましょう」をもじって、「私とあなたと合い言葉、大鰐スキ−場であいましよう」とかえ、「河は呼んでる」を「山は呼んでる」とうたいかえてから、毎年テ−マはかわりました。昨年は「上をむいて歩こう」だったから「上をむいて滑べろう」とかえ、今年はきっと、「わかっちゃいるけど、やめられね−」といったところでしょう。

 この3年間色々なことがありました。スプ−ル創刊号をつくてくれた人達は、今や医局の新進ということで張り切っているようだし、東日本医学生スキ−大会には優勝するし・・・

 ところでお前のスキ−はすこしはうまくなったかて・・・

 そうそう昨年の冬スキ−用具一式あたらしくしました。5年前にととのえたのは大分いたんだし。それは予備ということにして、靴も「角田」で注文し、セイフテイ−のついたのを買い、ストックも何とかいうスエ−デン製のにしました。軽くて丈夫のようですね・・・。道具のことではないよ。八甲田のあの大岳の斜面で、ずうっと斜滑降でいったきりになっていた時代にくらべて、すこしはうまくなったのかね・・。うん、まあね・・・すこしは。キックタ−ンをしなくて、大鰐の上からおりてこられるようになりました。先日リフトの頂上から下までどのくらいでおりられかと思ってタイムをとってみたら、自分の時計で2分30秒でした。東日本医学生スキ−大会の大回転の20位のタイムらしいからまあまあといったところでしょう。

 医学部の冬の運動会ということで、先日矢捨山で一日楽しく遊びました。八甲田のサマ−スキ−に行きたいと思いながらついいそがしく、いけずじまいです。 最近の学生諸君はもっぱら土曜日、日曜日にいっているようですね。前のように、ウイ−クデイにあうことはなくなりました。それでも合宿などして、皆はりきっています。来年も是非札幌?で優勝させたいものだと思っています。

 教授の方々も仲々熱心のようですが、わけても熱心なのは、その奥様方のようです。昨年度の実績でいうなら、トップは大池夫人、第2位は中村夫人といったところでしょうか。そのほか東野夫妻は大鰐に宿をとってやっておられるし・・・うちのは昨年はすこしさぼったようです。子供達もようやく、自分でスキ−をかついで登り、手がかからなくなりました。今におやじ達をすうっとおいぬいてゆくことになるでしょう。

 冬のスポ−ツは当地では何といっても、スキ−です。やっぱり「わかっちゃいるけど、やめられね−」といったところです。(37.7.7.)

 

弘前だより(3)

 

 「VACATION たのしいね きらきらとかがやく」これが今年のテ−マです。

 今年の冬はよく滑りました。

 おかげで益々黒くなって、新学期に短大の女子学生にわらわれることでしょう。

 年末に家中で大鰐に合宿し、講習を受けました。小生は中の上、家内は中の下、子供達は初級の講習を受けました。ここから今シ−ズンはスタ−トしたのです。

 一月下旬、あの大雪の最中に蔵王へ出かけ、あのすばらしい粉雪を楽しんできました。−10℃という寒さ、人影もない朝8時だというのに、パラダイスロッジの近くのリフトがもう運転を始めたその商売熱心さには驚きました。一寸風が吹き、雨でも降ると「運転休止」と札をかけ休んでしまう大鰐はもっと勉強しないととり残されてしまいますね。

 あのふわふわとした、又気持の良い雪質を足の裏に感じながら、すこしは滑り方も上達したような気がして帰ってきました。

 今年の目標はパラレル。これもその導入の仕方に各人各様の意見・教え方があるようですが、8ミリなどで姿を分析し、うまい人と自分との差をちじめようと努力しました。

 「あなたなどはすこしうまくなったからといって、8ミリなどとりたがる」と家内に「皮肉」をいわれていますが、スキ−部でも一人一人撮って研究すれば進歩は早い事でしょう。進歩が早いといえば、子供達は随分上達が早いようです。今にスイスイと追い抜いてゆくことでしょう。

 又来るべきシ−ズンを目標に、日頃のトレ−ニングをおこたりなくつづけるつもりです。 では又。(38.6.20.)

 

弘前だより(4)

 

 今年のテ−マソングは「こんにちは赤ちゃん」といったところです。

赤ちゃんをそっと家において家において、スキ−に出かける若夫婦もあると思いますが、赤ちゃんをおんぶして山にくる人もよくみかけるようになりました。子供ももちたし、スキ−もやりたしでは、男性はいざしらず、女性にとってはつらいことの一つでしょう。

 うちでも、上の子が幼稚園、下の子がまだ幼稚園に入る前の頃、大鰐へつれていったことがありました。自動車ももたず、バスも通っていなかった頃の話。あの坂道を電柱一本一本を足をとめてようやく登ったのは今も昔。その子供達が今年は小学校5年と4年になりました。

 ここ2,3年大鰐できたえてもう大丈夫だろうというわけで、今年の4月12日八甲田へつれて行きました。弘前スキ−クラブの大人達の中に、こっそりのっけてもらったのです。もっともバス代は払いましたがね。一家そろっての八甲田行きは又格別でした。そして子供達のうまくなったこと。あの地獄沢の登りも先頭で、帰りの林間もスイ、スイとパラレルで下ってゆきました。おやじ顔まけといったところです。

 昨年の蔵王行きの宣伝がきいたせいもあって、今年は私に是非というので、家の奥さんが出かけました。おかげで私は子供のおもり役。子供が大きくなった中村夫妻は二人そろってお出かけとか。今年は女性群優勢でさぞにぎやかったことでしょう。どうやらやみつきになりそうだといったのが、今年の話題です。では又(39.)

 

弘前だより(5)

 

 富士の高嶺にふる雪も、大鰐スキ−場にふる雪も、雪にかわりはあるじゃなし、とけて流れば皆おなじ、といわれた大鰐スキ−場の雪も、今年ほど調子の良い年はありませんでした。

 あまりドタ雪がふらず、従ってヤブができず、それでいてブッシュがかくれる位につもって、寒波襲来というわけですから、大鰐ではめずらしく、充分たんのうしました。

 その上弘前大鰐間の道路がよくなって、教室を出て、自動車をとばせば、パブリカですが、ほんの30分で日景のヒユッテの上までいけるんですから、やめられません。ウイ−クデエイにいって電車で顔をあわすこともなくてね。

 今年コロナの中古を買われた照井教授は、ご自分の腕に自信がないのか、自動車を大事にされるのかは知りませんが、ハイヤ−を大いに利用されていました。あの最後の坂をのりきるには、相当の腕と、自動車のエンジンを痛めつけてもよいという覚悟がなければなりませんね。スキ−の話にもどりましょう。

 大鰐スキ−場での今年のニュ−スは、覆面の女性群があらわれたことでした。スキ−は滑りたし、といっても顔も黒くなりたくはなし、ということで、そろいの覆面を注文し、スイスイとパラレルですべってゆく姿は大鰐ならではのことでしょう。もっとも、あんなのをかぶっていれば、教えてやらないと某指導員にいわれたほど男性にとってはつまらないものですが。

 しかし、女性群の要求のぶつかるところは、一つの解決法が、女性特有のきれいな顔をみられ、といって、あまりどす黒くならないように、皮膚科の先生方に研究を望みたいところです。

 岩木山にリフトが出来たのもニュ−スの一つでしょう。もう一つ上にリフトがほしい。すこしゲレンデが狭すぎて、といううわさは聞いたものの、スキ−をあっちこっちやるのがめんどうで遂に一回も利用しないうちに春を迎えてしまいました。

 来年はといいたいところですが、来年の冬はアメリカですごすことになりそうです。では、アチラからの便りをお待ちください。(40.11.10)

 

弘前だより(6)

 

 アメリカからスキ−の便りをお送りしょうと思ってあちらに行ったものの、私の留学先のミネソタは山一つ無い所、折角の冬の生活もスキ−なしで過ごしてしまいました。

 もっともウイ−クエンドには、近くのウイスコンシンの山々で過ごすというプランもありましたが、同じドルで、もっと日本では楽しめると思ってやめ、もっぱら大学構内にあるスケ−ト場やゴルフの練習場で過ごしてしまいました。

 オスロ−のジャンプ台も夏景色。スイスの山々も冬の生活を堪能された法医の清水君の話などで聞きながら冬の景色を思い浮かべるだけで終わってしまいました。次の機会には、世界のスキ−場巡りとでもいった旅に出かけたいものだと思いました。

 帰ってきましたら、一冬休んだお蔭で、スキ−は家内の方がうまくはなるし、中学生になった子供達も、もうお父さんは相手にならぬとスイスイと行ってしまい、下の子などは中1で1級をとり、もう大学生迄はやることが無いとうそぶいているという始末。照井先生のニイチャンに俺に続いて大学に入れと、指導を受けているといったところです。

 子供が幼稚園の頃、大鰐のあの山道を電柱一本一本に休みをとり、橋本功君におぶって貰ってスキ−の味を覚え始めた頃の事などはもう昔話になってしまいました。

 どうやら、山の駐車場も大きくなり、安心して登ることが出来るようになりましたが、百沢への道などは、まだ相変わらずの一本道。対向車が来たらどうしようかと心配で、気安く行く気にはなりません。

 今年八甲田山にロ−プウエイが出来るとか。八甲田の山々に新しいスキ−の楽しみがふえることになりそうです。(43.9.16)

 

弘前だより(7)

 

 今年の春、東日本の試合に出た諸君の中に負傷者が続出したのには驚きました。整形に2人入院ということで、アイスバ−ンの中に敢闘した選手の様子がまのあたりにみえるようでした。東野教授や医局の方々の世話で、今はもう元気でやっているようでよかったと思います。それにしても大変な試合だったとか。

 八甲田のロ−プウエイにのっての春スキ−は何といっても今年の話題でしょう。子供達や家内が3月末の樹氷のある中をすべってきた話に、私もすこしおくれて出かけましたが、楽しみがひとつふえたといったところです。

 もうひとつニュ−スを。家内が一級をとりました。昨年中学2年の次男が一級をとり、まけじと足をみがいていた家内も大鰐で試験をうけるのははずかしいといって、金木のスキ−場へ出かけてとってきたのです。昔女学生時代にすべったことがある思い出の土地でもあったのです。帰り道五所川原のサンケイの永井さんのところによって一休みしていたとき、ふすまの向こうで今日の試験官連中が、弘前からうまい女性が一人来ていたというのを聞いて彼女は大いに気をよくしていたとか。

 9月からはじまった本部封鎖の紛争の処理に、あいにく8月から評議員になったばっかりに、学生諸君からつるし上げをくらっています。

 今日10月12日に岩木山の頂上に初雪がみえています。来週ストに入るとか入らないとか。とにかく大学はゆれています。(44.11.7)

 

弘前だより(8)

 

 昨年の暮れでしたか、基礎の教授連が助六で忘年会をやったときでした。

 「おれはもういやになったよ 教授をやめたくなったよ」とその理由は言われなかったのですが、それが本当になって、照井先生はこの4月に学校をやめられ、今ならやれると、診療所に新しい人生をふみ出されました。人の一生は仲々予測できません。中村勉先生が亡くなられ、そのあとの弘前保健所長にひっぱり出されることになったのですから。

 弘大医学部のスキ−部の育ての親でもあり、ささえでもあった先生を送る会が、5月17日駅前の白樺で開かれました。丁度めずらしく加地君がきていて、北海道の話や、相沢講師と東日本に優勝した時の話にわいたものでした。それにしても今の連中は、これからは、大いに頑張らねばならないでしょう。

 ついでに、あの東日本に優勝した時の数々のカップを前にした写真のアルバムは6階の衛生の図書室にいつもおいてありますから、見にきてください。

 「今大学はどうなっていますか」「静かですか」とこれが最近、人にあったときに受ける挨拶のはじめの言葉です。昨年は弘前大学も大いにゆれ、そのあとどうなっているかとの意味にとれるのですが、本質的に色々な問題をかかえている(と私は思うのですが)医学部では、表面的に静かにみえても、まだくすぶっていると思われます。

 私自身も、大学全体の改革委員会設立準備会の委員に引っ張り出され、おまけに委員長をやらされ、冬から春にかけて15回の会合、数十時間の討議のまとめ役をやったので、スキ−どころではありませんでした。どうにか「案」をまとめ今大学全体の檢討を受けているところです。医学部内でも、ストのあと、医学部問題檢討委員会が発足し、東野教授が委員長になられましたが、44卒が委員に入る入らないで一寸足ぶみをしました。近くその機能を発揮してくることになると思います。

 とはいえ、スト以来、どうも出席が悪くなったものだと、もっぱらの評判なのですが、どんなものでしょう。一向に学校に顔を出さない方など何をしているのでしょう。一方衛生の自由研究に相当のエネルギ-をつぎこんで、学位論文顔まけの報告をまとめる方もいるといったところです。

 昔のように冬になれば、ウイ−クデイに大鰐への電車の中で顔をあわす人も少ないというのが現代の学生風俗です。

 医局へ入った先輩も、どうもスキ−もやるひまもないようですね。勉強はよいとしても、あまりかせぐにおわれず、自分の体のことを考えたほうがよいと思います。

 先日、9月にロンドンで開かれた第6回世界心臓学会議の「シンポ」によばれて、いってきました。「高血圧の成因」の中で「高血圧における食塩因子」について話せということで、諸君はよくごぞんじの今までの仕事を話してきたのですが、食塩と高血圧との関係は、国際的にも再認識されてきた印象を強くして帰ってきました。新聞記者やTVカメラのインタ−ビュ−を受けたり、私の英語がどれだけ通じたものか。

 虚血性心疾患の疫学・予防・リハビリテ−ションでも、最近は運動に注目されており、すでに悪くなった心臓をいくらとりかえてもと、一時脚光をあびた外科方面の話題も、今度あたりは反省の意見、そして日頃の食生活とか運動に又注目されてきたといったところでしょうか。毎日きまって運動をすることの大切さは、やはり忘れてならないことでしょう。こんな時、運動ずきの皆さんのいのちは保証されていることになるでしょう。私のスキ−の目標は1級をとることではなく、少なくとも70才まではつづけてやりたいという方向へ変えました。ナセルの突然の心臓死を聞きながら、又あらためてこの問題を考え直しているところです。

 照井先生がやめられたあと、スキ−部の部長をという話で、他のもっと適当な方がおられるといったのですが、お引き受けることにしました。財政方面ではとくに先輩諸兄におすがりすることが多くなると思いますが何卒よろしくお願いします。(45.10.5.)

 

巻頭言:シュプ−ル10号によせて

 

 ”シュプ−ル”とは良い題をつけたものだと思う。昭和34年3月、橋本功・花田雅寧・松谷善吉の諸君が編集者になって第1号を出してから早や10数年、ここに第10号出すことになったのはよろこびである。

 この間、文字通り、スキ−部のシュプ−ルがついた。これは照井先生はじめ、多くの先輩方の努力のたまものである。

 今、衛生の図書室に、大きな優勝カップがおかれていることを皆さんにお知らせしておかなければならない。これは多分、第1回東北地方大学高専大会でのリレ−の優勝カップであると思う。思うとは一寸無責任のようなことを書くのも、シュプ−ル第1号の西村先輩の記事をみての私の推理であるからである。大会長は丸井学長であった。学部長に保管(?)されたと書いてある。本部ができたとき、旧朝陽小学校の校長室の学部長室は、衛生の高橋教授の部屋になった。私が29-年に来たときにはすでにカップはあった。そして今、新基礎校舎の6階の衛生の図書室にあるというのである。この時代は、丹内先生の部長の下に、青森医専スキ−部全盛時代であったという。総合優勝を示す優勝旗はどこにいったか手元にはない。

 次の全盛時代は、昭和37年1月第3回東日本医学生スキ−大会(大鰐)で優勝した時の頃であろう。沢山のカップを前にとった記念写真等、数々の思い出の多い写真をおさめたアルバムは衛生の図書室にある。

 そして今年46年3月、八方尾根でリレ−第2位になった時の小さなトロフィがかざれることになった。

 医学部が続くかぎり、わがシュプ−ルがつづくことをいのっている。

 

弘前だより(9)

 

 お変わりありませんか。

 弘前は静かなうちに、すこしづつ変わっています。

 まず建築の方では、臨床大講堂が別にたち、病院研究棟、外来部門の完成で、昔の市民病院はあとかたもなくとりはらわれました。

 第3内科に後藤教授を迎えたのち、今年は脳神経外科、第2生化学、そして定員120名となることになりました。基礎校舎の残りのウイングも増築になることでしょう。

 大鰐のヒュッテは照井先生がやめられてから、あるじなしの状態ですが、それでも、石炭スト−ブが石油スト−ブと変わりました。

 弘前だよりはこのへんにして、今回は八方尾根だよりをしたいと思います。

 部長になった手前もあり、久し振りに学生諸君との合宿の希望もあり、うわさにきいた八方尾根に、一週間足をのばしました。

八方尾根でのアルバムはこちら

 3月の春スキ−は、皮膚には極めて悪い影響をあたえ、すぐそのあと開かれた医学会総会では大分話題になりました。 ここで一週間を共にしたスキ−部員の横顔を、エピソ−ドをまじえて紹介したいと思います。

 〇「下りでぬかれたのは はじめてです」

 ワックスで苦労したデイスタンスの本山君。30kレ−スなら優勝まちがいなしのスタミナの通り、ビ−ル、ウイスキ−、お酒ちゃんぽんと、懇親会のあと北大によばれ、何時に宿に帰ったかは誰もしらぬとは。

 〇「安全第一」と「今年は棄権します」と裏方の苦労をした医進1年の康君。

 〇「ソコドケ ソコドケ ドケ!」と8kの決勝点近く必死の頑張った伊沢君。2秒差で5位に入賞し、北大の完全入賞にまったをかけ。

 よせなべの夕食がでたとき、君はあっちの席へと、けいえんされたのは馬鹿食いのせいか。「あれが腹に悪かった」とぼやくことぼやくこと。

 〇「わたしは皆さんのように、お年寄りではないんです」といったのは、懇親会に来た信州の専1のお客さん、あのカワイコチャンのタイムはと、他校での関心のまと。

 〇女子回転で一回目おしくもしりもちをつき、入賞は失したものの、2回目は金子、鈴木についで3位のタイムでゴ−ルイン。来年のホ−プ駒木さん。

 〇懇親会場での人がきをかきわけ遂に目ざす彼女(リラちゃん・慶應・女子大回転優勝)に声もかけられなかったのが、何としても心残りの芹沢君。心のうちをうちあけるには、来年卒業試験のあとくることだね。

 〇金をかけたわりにはちっともやけなかった中村幸夫君。リレ−のアンカ−の大役をはたし、2位入賞に気をよくし、試合終了後一気に第1ケルンまでのぼってきた。それもデイスタンスのスキ−のままで。

 〇試験のキモンをようやく通過し、女子回転競技の前夜合宿入りできた橋本一枝君。帰り支度をしている人を前にして、目をくるくるさせ「私もっと、ここで楽しみたいわ」

 〇第5走者で、リレ−チ−ムの入賞記念写真の撮影に仲間入りした黒川純君。

 〇リフト代に4万円もつかったわりには、成績のふるわなかったアルペン群。東邦の斉藤がリレ−に好タイムを出したのに印象づけられ、アルペンもきたえがたりぬと本山君に一かつ。

 〇三冠王になった東邦の斉藤のスキ−が3本だったとは。女の子のことだけ観察しているのかと思ったら、いたってこまかいところまでみていた1年の岡部君。アルペンのホ−プか。イタダキマス、ゴチソウサマとキャプテンの号令でうごいているのに、「オレ めしもうおわったんだ」と腰をもぞもぞ。

 〇1才につき1秒のハンデイがつくというのに、入賞できないね。せめて50才以上なら入賞確実と部長。スキ−を楽しむためには、普段の訓練が大切と、朝かけあしをしているとか。

 〇北はアリュ−シャン列島から南はガダルカナルまで。アマゾンの原始林。48日48時間48分。四大特長。替え歌かずかず。

 医大でてから14年 今じゃ内科の大権威(オ-ソリテイ)

                 さわったマンマが5万けん

            婦人科の・・ おろしたエンブリオが・・

            精神科の・・ つくったきちがい・・・

            衛生の・・・ つくった公害・・・

            整形の・・・ つくったビッコ・・・

            眼科の・・・ つくったメクラ・・・

            耳鼻科の・・ つくったツンボ・・・

 〇ギタ−の名手、賀来君(昭和大)。どんな歌をうたっても、すぐ調子をあわせ。

 〇明日の試合に勝つように、お赤飯をたいてくれたものの、「マ− 人工着色!」とは、さすが女医さんの卵の福田さん。

 〇「慈恵の本部でのまされてね」「マウントから岳望荘へ帰るのは15kよりつらかった」とは伊沢君。

 〇寄付あつめに苦労した豊野君。他校の運営費にくらべわが部はとためいき。

 〇一同そろっての記念写真に惜しくも入れず、南田猛君残念でした。

 〇蔵王の骨折が忘れられず、次の関門がみえない位のフォッグの中、アイスバ−ンをカリカリいわせてゴ−ルイン。「ア− 生きていてよかった」といは今年最後の滑降にかけた竹越主将。

 〇やや事務的にすぎた運営。ゴ−ルについて息もたえだえの選手に「ゼッケンをかえしてください」。せっかくのカルピスも一度空気をのんでからでなければ口に入らない位にしかついでくれなかったとは。

 〇もくもくと15(6)+4合計28kをはしりぬいた石原君。弥三郎節でしぶいのどをきかせ。    以上

 来年は赤倉とか、楽しみにしています。(46.9.30.)

 

巻頭言:シュプ−ル11号によせて

 

 シュプ−ル11号は次の時代への第一歩であると思う。

 医学部もそうであるように、今迄のシュプ−ルの中には、多くの先輩方の残されたものがつみ重ねられていった。

 部員はそれぞれの年度に、新しく入り、又卒業してゆく。

 同じ釜の飯を食べるという言葉がある。合宿に、試合に、コンパに、生活を共にした友人はいつまでも心に残るものである。

 こういう小生も、学生時代に弓の部にいて、生活を共にした友人が何人もいる。

 卒業後30年近く、全く会う機会のなかった友の一人に、実は赤倉の大会で会ったのである。彼は東医体会長代理として出席していた。

 顔を会わしたとたん、一瞬にして時は逆もどりし、”直ちゃん”と呼んばれたりした。

 彼からもらったはがきには、次のような文句が書かれていた。

 ”想い出しても楽しい写真をお送りいただき有り難うございました。30年近いブランクを感じない出会いをえましたことは、「クラブ活動」の賜と大いにその意義を感じ、学生との接触の一つの拠り所となりましたことを喜んでいます”と。(47.12.25.)

 

弘前だより(10)

 

 お変わりありませんか。

 台風のあと、久しぶりに秋晴れの日を迎え、岩木山はくっきりと、上の方から紅葉がはじまっています。

 脳神経外科(岩淵隆)、第2生化学(佐藤清美)、病院検査部教授(工藤肇)ときまり、数の上では一流校になりました。内容をととのえ、研究、教育に頑張りたいと思っておりますのでご後援下さい。

 昨年の八方尾根に引き続き、赤倉の大会に一週間参加したときのことをお知らせしましょう。

赤倉でのアルバムはこちら

 ”赤倉で大いに花をさかせよう”とは、色々な意味で語られたことなのですが、綜合第2位がその結果の一つです。

 ”銀メタルはいらない”ほどのファイトのないのがまだまだの部ですが、一度は”金メタル”を手にした伝統のある部ですから将来を期待したいと思います。

 いくつか赤倉名言集を紹介しておきましょう。

 〇これで、閉会式を終わります(開会式にて)

 〇5キロで5分おくれるとは何だ(本山)

  ハツ。・・・内心・・・来年は優勝してみせるぞ(下山)

 〇「イッパツヤレ・ヘ−ゼルワイス・オタツクナ」

 〇電話「福田さんがテイビヤをおった!」「ハ? テイビヤって何ですか」(医進じゃ無理もない)

 〇「頭を下に、足を上に! イタイ!」(てきぱきと指図する彼女。兼平さんと共に”経験者”は良い女医さんになることだろう)

 〇スノ−ボ−トでおろされる途中の長かったこと、人生で一番長い日。

 〇赤倉から横浜まで、300キロ、カロ−ラスプリンタ−運転の佐野君ご苦労様でした。

 〇「立つまでに おしっこを忘れないように」(部長)

 〇「今日タイム係りだったので 弘前の方にはすこしおまけをしておきました」(秋田館主人)(おせじにしてもうれしいね)

 〇「”赤倉温泉”だけはいけない。”新赤倉温泉”と入っていなければ」地元には地元の理由あり。

 〇「オリンピックなら1回転んだらすぐ棄権するのに、3回ころんでも最後まで頑張った精神に感心した」(アルペン委員長)

 〇アルペン杯が東邦と慶應へ。ノルデイック杯がないと北大ブ−ブ−。

 〇「総括」「死ね」今年はやった言葉。実際は「自爆」が多かった。

 〇「女だてらに色々文句が多かったでしょが、無事終了できて本当にうれしく思います。(閉会式にて)(47.9.22.)

次ぎはSPUR弘前だより(11−20)(昭和48−56年)

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