7 栄養素としての食塩

 

 人の生命科学の歩みの中に今日の栄養学の源泉があり、その栄養学の基礎としては化学が最も重要であり、近代化学の進歩によって栄養素が明らかにされていくのであるが、1700年代後半から1820年頃にかけて有機化合物を純粋に取り出して分析をするという化学の進歩によって動植物の成分が分析されることになった。その結果食物の有機成分としての脂肪・たんぱく質および炭水化物(糖質)の3大栄養素が分けらた。

 19世紀になってはじめて食品の無機成分が栄養上重要なことが認識されたが、それは主として動物の餌としての塩についての関心であった。

 北米の内陸部で塩に欠けている土地において草食獣が塩に対する貧欲を示し塩水の沼に集まること、植物の灰にはカリウム塩が多く、ナトリウム塩が少ないこと、ウシの植物飼料に食塩を添加したものとしないもの比較研究などが行われ、栄養学者は飼料の中に塩化ナトリウムが必要なことを考えるようになった1)。 

 1873年ブンゲ(G.B.von Bunge, 1844-1920)は、人間有機体における食塩の意義とカリウム(K)塩の態度について考察し、自ら実験を行っている。

 「食塩が人間にとって必須の栄養素であることは疑う余地はない。ただ食品に含まれている塩だけで充分であるのか、われわれの食物に食塩をつけ加える必要があるのか。動物の中でも、草食動物だけが食塩に対する要求を示し、肉食動物は食塩に対する要求を示さないという事実を考える必要がある。それはカリウム塩の摂取という状態が、草食動物の食塩要求の原因ではないか」と推論したのである。

 ブンゲは植物性食品はナトリウム塩よりもカリウム塩をはるかに多く含んでいること、カリウム塩を摂取するとナトリウム塩の尿中排泄が増加することを説いた。

 ブンゲの展開した研究と理論は教科書(Lehrbuch der Physiol und Path,Chemie, Leipzig, 1889)に書かれた。すなわち植物から炭酸カリを多く食べるとき、摂取した食塩と反応して、塩化カリと炭酸ナトリウムが生成される。またリン酸カリや硫酸カリに対しても食塩はこのように働く。摂取したたんぱく質に含まれる硫黄は体内で酸化され硫酸となり、つねに体組織を酸性にしようとするために、それを中和するために、アルカリの摂取が必要であるといった。そしてカリ塩を排泄するために、食塩を多く必要とすると主張した。俗間にいまでも伝わっている「体液中性保持」説はブンゲの説に源をもっていると高木和男は述べている2)。

 この考え方は、その後多くの学者によって栄養学上の知識として広く引用され、とくに日本の多くの図書に書かれ、わが国の食塩摂取についての「常識」をつくってきたと考えられるが3)、最近の研究からみて再検討されるべきものと考えた4)。 

 

 われわれが日本における脳卒中や高血圧の疫学的研究から食塩の過剰摂取についての問題点5)や食塩摂取についての常識についての問題を指摘した3)昭和30年代当時は日本ではブンゲの説の流れをくむ考え方が一般的であったといえよう。

 すなわち脳卒中予防の保健活動について保健婦向けに書かれたものに次のような指導が行われていたことからもうかがわれる。

 「菜食をしますと、野菜はカリウムが多い関係で、どうしてもナトリウム、塩を欲しくなるのです。農村で塩辛いおかずを作りますのは菜食に偏っているからです。塩をとりすぎて血圧を上げる恐れは菜食にこそあるのです。」

 「野菜を減らせば塩は少なくてすみます。おにぎりに塩をつける如く菜食はカリウムが多い関係でナトリウムが欲しくなると説明されております。農村の食生活はあまりにも菜食に偏りすぎている関係で、塩辛いオカズが欲しくなるのですから、できるだけ肉類とか魚類を取り入れることによって野菜の占める分を減らさなければなりません。」

 これが昭和43年に見られた保健指導の記事6)であった。

 

 人間が食塩を食生活に取り入れた時期として人々が農耕生活を始めた時期とみている文献は多いが、はたしてこれが植物性食品にたより始め、カリウムが多く摂取されるようになったためであったであろうか。

 また昔凶作・飢きんの際、野草を食べ、カリウム中毒で死亡したと述べられていることが文献にみられるがはたしてそうであろうか。

 「けもの道」として塩を求める動物の振舞いがあげられる場合が多いが、それがカリウム摂取のためであろうか。

 人間以外の動物の例として、ブレイヤ−(J.R.Blair-West)ら7)は、オ−ストラリア大陸の草食動物が、その土地に生育している食物にのみによって、年間のきわめて塩類の不足している状態におかれたり、妊娠や授乳の場合にもきわめて塩類の少ない環境に適応して生存していることを、アルドステロンやレニン活性といった最近判明した塩類を体内に保持する機構によって体内の塩類のホメオステ−シス(恒常性)が保たれていると述べた。

 人間が塩のない生活をしていることは古くから知られていたことであったが、パプア・ニュ−ギニアの人々が塩として用いている調味料は植物の灰で、その成分はナトリウム塩ではなくて、分析の結果は主としてカリウム塩であり8)、また数千年来塩のない生活("no salt" culture)をしている人々の体内で塩類がどのように保持されているかが検討され報告になったのは 1975年になってからであった9)。

 ブンゲが食塩摂取の意義についてのべたのは、アメリカ大陸発見後ヨ−ロッパにもたされたじゃがいもが一般の食生活の中に入り込み、その結果ビタミンCが自然に摂取されることになって古くから風土病のようにあった壊血病は次第にかげをひそめていったが、また食塩も一般の食生活に用いられるようになった時代であった。労働者の賃金がそのじゃがいもに塩をふりかけるに充分であるのかといった問題がブンゲの研究の背景にあったことが論文中にうかがわれる。しかしこれらの研究はその後体液についての研究が進み、ナトリウムの出納は副腎皮質ホルモンの調節作用を受けていることが分かる以前の研究であったのである。 

 

文献

1)島薗順雄:栄養学史.朝倉書店,東京,1978.

2)高木和男:食と栄養学の社会史.第一増補版.p.287, (自費出版), 1985.

3)佐々木直亮:わが国における食塩摂取についての常識と問題点.日本公衆 衛生雑誌,9(11), 683-688, 1962.

4)佐々木直亮・菊地亮也:食塩と栄養.p.6, 第一出版.東京,1980.

5)佐々木直亮:わが国における脳卒中ないし高血圧症の公衆衛生学的問題点. 日本公衆衛生学雑誌,4(11), 557-263, 1957.

6)石垣純二:脳卒中予防の保健活動.生活教育,145-163, 1968.11.12.

7)Blair-West,J.R., Coghlan,J.P., Denton,D.A., Nelson,J.F., Orchard,  E., Scoggins,B.A. and Wright,R.D.:Physiological, morphological and behavioural adaptation to a sodium deficient environment by wild native Australian and introduced species of animals. Nature, 217, 922-928, 1968.

8)Wills,P.A.:Salt consumption by natives of the territory of Papua and New Guinea. Philippine J. of Science, 87(2),169-177, 1958.

9)Oliver,W.J., Cohen,E.L. and Neel,J.V.:Blood pressure, sodium intake, and sodium related hormones in the Yanomamo Indians, a "No-salt" culture. Circulation, 52(1), 146-151, 1975.

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