「ハ−バ−ドがんちゃん」のこと

 

 「ハ−バ−ドがんちゃん」とは新潟大学名誉教授渡辺厳一先生の書いた本の題名である。

昭和57年に新潟日報事業部から発刊された時の帯紙に「これは面白い随筆集」「”ハ−バ−ドがんちゃん”は愛称である。老練な医学部教授の綴るウイットに富んだ外国生活のいろいろ、にやにや笑いながら読み進うちに、いつか、かなりのもの知りになっている。不思議な本!」と紹介してあった。ベストセラ−になったとも聞いた。

 この中に「日本の循環器疾患の疫学」に関する歴史的に重要な、また興味ある話題があったので、再掲させて戴き、渡辺先生に関する私の記憶を書いておこうと思う。

「脳と心臓の突然死」の章の中に次ぎのような話が紹介されていた。

 「さてハ−バ−ド大学名誉教授のホワイト先生は、心臓病の大家であった。アイゼンハウワ−元大統領が倒れたとき、医師団の長をつとめたことで、日本にもその名を知られている。ホワイト先生は、スク−ル・オブ・パブリック・ヘルスで、年一度心臓病の疫学について講義して下さった。曰く。

 「日本は、工業国家として、著しい成長を遂げているにも拘わらず、心筋梗塞の死亡率は、アフリカのバンツ−族(最も未開な土民)なみである。諸君は、このことをどう考えるか」

 いうまでもなく、心筋梗塞の頻度と国の先進度とは、大概ね平行している。

 級友の何人かが手を挙げた。

 学生A「脳卒中も心筋梗塞も、ともに突然死をする。日本の医師は、突然死をみな脳卒中にして仕舞うのではなかろうか」

 学生B「同意見である。bad diagnosis(誤りの診断)に起因するものと思う」

 そこでホワイト先生は、いつも最前列中央に席を構える私に向かっていわれた。

 ホワイト「これに関しては、当然、渡辺博士に意見がなくてはならない筈である」

 私はすかさず立ち上がった。

 渡辺「日本人は動物の油、とりわけ牛や豚の油をとることが少ない。魚の油や植物油を多く摂取するため、その中に含まれている不飽和脂酸がコレステロ−ルと結びつき、エステルをつくって血中へ流れる。そのため冠動脈(心臓の動脈)へ、コレステロ−ルの沈着が少なく、心筋梗塞の罹患率が低いのである。決して診断が悪いのではない」

 ホワイト「諸君は、渡辺博士の説で納得したか」

 笑みをたたえながら、先生はクラス全体をみ廻した。

 さきに発言したBが立った。

 学生B「それでは渡辺博士に尋ねるが、日本では死亡の際、すべてを病理解剖に付しているか」

 渡辺「残念ながら、大学病院を中心に、一部しか行っていない」

 学生B「では診断の誤り説を、反駁する根拠がないではないか」

 こんな調子のやりとりが一通り終わったあと、ホワイト先生は、壁にかかげた南欧の地図を指差していわれた。

 「イタリ−の本土には、心筋梗塞が可成り多い。しかし、長靴先端のメッシナ海峡をへだてたシチリヤ島の住民には、それが少ない。シチリヤ島のオリ−ブの樹が多く、その実から採る油を、ふんだんに食用に供している。渡辺博士のいうように、不飽和脂酸が豊富だから、コレステロ−ルが冠動脈の内膜下に沈着しないのである」 

 私は”bad diagnosis”に、心のはり裂ける思いであったけれど、ホワイト先生の言葉で、若干溜飲を下げることができた。

 その一週間後、この話に追い打ちをかけるようなことがあった、と。

「東京の帝国ホテルで急死した特派員の診断名が−−向かいの部屋に米軍医が泊まっていたので死因は心筋梗塞と分かったけれど、もし日本の医師が診断したならば彼の病名は脳卒中になったであろうと新聞記事にでていた」と。

 「如何に突然死とはいえ、脳卒中死と心臓病死の区別ができない医師は、日本にいないはずである。しかし、日本の医学に対する当時米国の平均的評価が、この程度であったとは、実に情けないといおうか、むしろ屈辱的である」と渡辺先生は書いていた。

 先生がハ−バ−ドへ留学されたのは1957年(昭和32年)である。

 1957年という年はPublic Health Rep.誌上T.Gordonによって日本人の循環器疾患に関する特徴が指摘された年であり、高橋英次先生らの論文がHuman Biologyに掲載された年でもある。

 そのような時代背景を考えるとハ−バ−ドでのホワイト先生の講義での話題は、循環器疾患に関する疫学上の話題として歴史的に重要だし、興味があるのである。

 また大正5年に生まれ、海軍軍医として経験を持つ先輩としての渡辺先生の、当時のアメリカでの日本に対する見方への反発が文面の随所に読みとれる。

 

 昭和34年新潟で日本公衆衛生学会が開催されたときであったか、慶應の連中の為に一席もうけて下さったとき、外山敏夫先生のされた挨拶が記憶にある。

 「厳一さんとは、小学校(幼稚舎)も同じ、中学(普通部)も、大学(慶應義塾大学医学部)も、卒業後も同じ教室(予防医学教室)へ入った。彼は海軍、私は陸軍だが、・・・死ぬのも同じ・・」と外山先生一流の諧謔をまじえて挨拶されたのである。

 その外山先生と渡辺先生も私にとっては良き先輩であるが、ヒポクラテスの箴言といわれる言葉に全く異なった解釈をされていることを書き留めておかなくてはならない。

 渡辺先生の「ハ−バ−ドがんちゃん」には「Ars longa, vita brevis」の章がある。

 先生はハ−バ−ド大学の病理学教室の壁面にあったヒポクラテスの箴言の5行の言葉を紹介し「しかしよく考えてみると、これはギリシャの医師ヒポクラテスが、医学を志す弟子へ向かっての教えの文句なのである。(生命は短かし、されど芸術は永遠なり)では、あとの文句へうまく続かない。したがって、これは明らかに誤訳だ、といわなければならない。むしろ中学時代に習った論語の中の文句(少年易老学難成 一寸光陰不可軽)が、前の三行を完璧にいい表わしているように思われる」「”道遠し”と訳さなければならない」と。

 一方外山先生が大正12年幼稚舎入学から退職までの60年を慶應義塾で過ごしたことを「さわやかな箴言によせて」と三田評論(823,昭57)に書かれた中に次ぎのように述べられていた。

 「定年は長いようで短く、まさにvita brevisである」「学部に留まって一生を学問に打ち込もうとする者にとってars longa という句は耳に痛いことであろう。医学の研究では創造性のある価値のある原著業績を後に残すことが唯一の生き甲斐であると信ずる。公衆衛生の分野では現実的な技術がそれに伴なわなくてはならない。政策に関連した研究はとくに内外の専門仲間による厳しいチェック、つまりpeer reviewというものに耐えるものでなければならない。価値ある業績は、ある期間の潜伏期を経て永く光りを残すものが多い。自分はどうであろうか。あえなく消えてしまう線香花火のようなものばかりではなかろうか」「この20年くらいの間に外国の著書や教科書に引用された数は3,40冊程度に過ぎないが、更にどのくらい価値の寿命がつづくかと考えると心細いことである」と。

 共に尊敬する先輩の言葉であり、それぞれ意味があると思うが、これを読んだことがきっかけでヒポクラテスの言葉の解釈について「ヒポクラテスに聞いてくれ」と書いたことを思い出すのである。。

 

 戦後の慶應の衛生の研究室は元中島飛行機工場のあとに移転していた

 私は近くの学生寮の舎監をしていたが、その時代渡辺先生が三鷹の駅から運動場を通って教室まで歩いて通って来られる姿が記憶にある。それもあのダンデイな先生が襟章をはずした 海軍の、当時ではネ−ビ−ブル−の一番良い生地であったことは確かだが、その軍服を着てさっそうと通学されていたのだ。

 私にお見合いを勧めて下さったこともあった

 先生は新潟大学の衛生の助教授として赴任された。

 東大の豊川先生と競争になったとも聞いていたが、教授に当選されたニュ−スが入った。

 私が弘前へ赴任するときは、丁度東京に居られたときか、奥様ともども上野の駅まで送って戴いた記憶がある。

 学会には特別講演などでよく呼んで下さった。そして新潟美人との席もあった。

 アメリカから帰国された後だったか、教授室へ伺ったら、「どんと」大きなゴルフバックが置いてあった。

が 先生曰く「日本では接待ゴルフになるから やらない」と言われた記憶がある。

 

渡辺厳一先生 (昭和52年 弘前にて)

 衛生学教室の日記(No.42)に、1977.10.14.新潟大学医学部長の忙しい中、1,2年合同特別講義をやって戴いた記録がある。

 題は「先天異常の疫学」であった。

 そして日誌には「精子は75日で新生し、卵はできてから十年から数十年かかっている」と述べられたとあった。

 そして私事ではあるが3男誕生が40歳の高年齢出産であったことについて「よく決心したね」とささやかれたことが耳にのこっている。(20010225)

弘前市医師会報,277,53−55,平成13.6.15.

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