昭和32年という年

 

 昭和32年という年は、弘前大学医学部30年史によると、4月1日には医学部7回生の入学者の発表があり、30年4月医進入学の56名と文理学部2年修了の者で試験による20名、計76名を迎えた年であった。

 私にとっては31年9月に衛生学の教授に昇任(年齢は35歳であった)、新たに教室を運営し始めた年でもあり、6月には早々学務委員を仰せつかい、学生諸君と密に接触し始めた年でもあった。

 年の初めの1月27日には杉山満喜蔵病院長が出張先の湯瀬で脳出血で死亡し、病理解剖に立ち会った。腹の皮下脂肪が多く、これからの日本の姿と、お子様方の将来のことが頭をかすめた記憶がある。そのあと皮膚科は帷子康雄教授になり、病院長は入野田公穂教授になった。解剖の工藤喬三教授が退官になり、水平敏知助教授が発令になった。シビ・ガッチャキの荒川雅雄教授はカシワコ−ルの南アのヨハネスブルクへ文部省在外研究で出発した。

 全国の新八(医学部がある新設国立大学が新六から八になった時代)の衛生学公衆衛生学の教授連中が、北海道の学会に行く途中7月12日に弘前に来たとき、せっかくのことだから学生諸君に一言でもよいということで講演してもらった。それを聞いている諸君の姿が衛生学教室のアルバムにあるが、記憶にあるだろうか。そのときの若い教授連中がその後の30年の日本の衛生学をリ−ドしていったのだから、そのとき喋った講演の内容は極めて歴史的にも重要なものと思われる。幸いなことに初めて教室で用意したテ−プレコ−ダ−、それも紙をベ−スにしたテ−プにしっかりと記録されている。

 8月には病院新築着工ということで坂の途中にあった動物舎が解体され移転工事が完了し、ブルト−ザ−による地ならしが始まった。

 衛生学、それもまだ公衆衛生学教室の出来る前の時代だったから、一年から四年までの講義があった。その上医進の保健体育の講義と柴田の東北女子短期大学・栄養学校と聖愛女子短大の公衆衛生の講義まで引き受けていたから、まさに月月火水木金金(海軍の言葉)であった。今思うとよくやったものだ。若かったのだろう。

 新しく進学してきた諸君に対して新しい教育方針ということで、講義より実習を主にし、なんでも手にふれる教育を展開した。設備その物は今思うと貧弱だが、基本的なところはやっていたと思う。

 そのほか衛生学自由研究と称する研究を課していたが、公衆浴場の汚染とか、血圧調査、塩味調査、離乳食についての研究などあって、それぞれ時代を反映し、また世の中を先取りするテ−マの貴重な研究が行われていた。その標題は全国に知らされており、レポ−トの資料は衛生学教室図書室に保管されている。

 教室日誌をみると、コホ−ト分析とかアルドステロンとか慢性食塩中毒に対するカリの保護作用とか、MorisのUses of Epidemiologyといった現在に続く重要なテ−マの抄読会がつづき、また入手が困難であった水素ボンベがようやく入って、各地で採取した尿中のNa・Kの分析が再開したとある。

 秋田市で開かれた第6回東北六県公衆衛生学会に”東北地方農村の血圧の高い村と低い村の比較検討”という演題を出したところ、質問に寄ってきた保健婦さんとの出会いがきっかけとなって、秋田県西目村への視察に行くことになり、村の脳卒中予防対策について実地にトライすることになった。その中心になった村民全体の血圧調査を夏冬5年位はつづけましようということであったが、それから昭和50年8月まで18年間計23回つづくことになり、延べ100名近くの学生諸君と泊まりがてらに村に行くことになった。その第1回目の調査の10日間の校長官舎での合宿が12月に行われている。

 後日国際的に影響を与えたと思われる論文(Takahashi et al:The Geographic Distribution of Cerebral Hemorrage and Hypertension in Japan)がHuman Biology にのった年でもあった。

 大学とはいうものの建物は昔ながらの小学校の校舎(総檜づくりではあったが)のあとを使っていたが、そんなことでなにかが動き出した時であり、すべて夢中でやっていた時代でもあった。

 その年の忘年会は大鰐温泉のあじゃら荘で開かれ、会費は宿泊1000円、日帰り900円で、教室からは1100円の福引き商品が支出とあった。

弘前大学医学部第7期生卒業25周年記念誌,弘道,48−49,昭61.12.31.)

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