私のこと記憶にないこと

 

 私がこの世に生をうけたあとの最初の記憶にのこる出来事は、大正大震災であったと書いたことがあった。

 家の外で遊んでいる時だったか足がとられた時の感覚の記憶である。家の屋根瓦がざ−と落ちたこと、夜は畳を外に出して寝たこと、芝公園の向こうの空が、ぼ−と赤く染まっていたことが記憶にある。満2歳7-8月かの記憶である。

 その前の事は私の記憶にないのだけれど、当時の私の写っている写真からのことを書いて置こうと思う。

 大正10年(1921年)1月17日が誕生日として、(哲亮)(か弥)の二男として、本籍:東京都港区(芝三田綱町)三田二丁目一番地:に記録されている。

 その家での出産であったとのことである。6つ違いのが家での出産を障子窓のそとから見ていたようでその時の話を聞いた記憶がある。

 自宅出産で、母乳で育ったのであろう。

 「直亮」の「亮」はJISにない字で、なべぶたに口ではない、上下に立棒になっている。よく高島屋の図柄にみるもので、何と表現するのかは知らないが、辞書をみると、「亮」の略字と記されている。

 父の哲亮も同じ字体であるので、届け出のときに書き間違ったのではなく、戸籍にある「字」を踏襲したのであろう。

 三男(繁)が区役所の届け出をしたとき、私の名前を「亮」と書いてだしたら、注意され訂正するように言われたと聞いたことが記憶にある。

 叙勲の時は戸籍を事前に出したので正確に記されていた。

  ただその「読み方」については記載がないからわからない。これは一般的な問題と思われる。

 「なおすけ」とよばれて育った記憶がある。父は「てつすけ」で、母は「かね」であった記憶である。

 その母からは「なおちゃん」と呼ばれていた音が記憶にある。

 「直」は「なお」とも「ちょく」とも読めるし、「亮」も「すけ」とも「りょう」と読めるので、「ちゅくりょう」と言われたこともその音として記憶にある。

 私のHPを「naosuke」にしたのは名前を踏襲したことになる。

 生後二百三十四日かの写真がある。

 自分の記憶にはないが、父の書いた名前と手形が残されている。

 家からそれほど遠くはなかった写真屋には私が海軍に入るときまで毎年のように一家で写真を撮りにいった記憶がある。

 芝三田綱町1の家は借家であった記憶である。

 今は慶應義塾の土地になっている「徳川邸」の大きな屋敷の後ろにあったが、そこの家老であったかの早川さんが大家であった記憶である。

 その家の「廊下」で母にだかれて日なたぼっこをしている写真があるのを後日見せてのらったことがあるが、私の記憶にはない。

 今兄のところにある父のアルバムにあった写真で、いつか修がビデオで写して、そのテ−プからの複製である。

 その廊下の前の踏み石に私が落ちて頭に傷をつけ、何針がぬって治療してもらって、その「あとの傷」が私の頭にあるのだが、私の記憶には全くない出来事である。

 1歳になるかならない年令の、どんな痛いつらい出来事でも「記憶」には残らないものかと思う。

 母の髪型はぼやっと記憶にあるが、「二百三高地?」」とかいわれていたかと思う。

 当時家にいた祖父に「かあさんがついていて たいへんなことをてくれた」とか言われたのですと母から聞いた記憶がある。

 早川喜久男さんと撮った写真もあった。いくつの時のものかは判然としないが、きくおさんの顔には記憶があるが「KEIO」のシャツには記憶はない。(20030410)

もとへもどる