雪の記憶など

 

 12月珍しくこの津軽に大雪が降った。「雪の記憶」を書いておこうと思った。

 昨夜弘前市医師会の忘年会に出かけた時は大雪の中を家内に送ってもらった。

 タクシ−で帰宅したときは雪はあがっていたが、交差点で止まって始動しようとしたとき乗っていた車がスリップした。一寸した坂にも気を使っていた。プロの運転手で冬用のタイヤなのに。

 雪の性質が変化したのだと思った。アイスバ−ンではなかった。雪の性質が名付けて「カタクリのような雪」ではないかと思った。

 土地が変われば同じ雪も変わり、刻々と雪の性質が変わる。

 東京生まれ育ちの私の弘前での始めてのラジオ放送の時のテ−マは「雪やこんこん あられやこんこん ふってはふってはずんずんつもる・・・」であった。津軽へきて雪が風とともに下から舞い上がっていた。住宅の温度環境を考えはじめた時だった。

 太宰治の津軽には、「津軽の雪」として「こな雪・つぶ雪・わた雪・みづ雪・かた雪・ざらめ雪・こほり雪」と書かれている。 

 「津軽恋女」(作詞久仁京介・作曲大倉百人・唄新沼謙治)には「降りつもる雪 雪 雪 また雪よ・・・」と、「津軽には七つの雪が降るとか こな雪・つぶ雪・・・最後は春待つ氷雪」と歌われている。

 大鰐でスキ−を始めた時、毎日ゲレンデの雪の性質が変わるのを実感した。標高が低い大鰐はあまり良い雪質とはいわれないが、一番の雪は2月第1週の雪だ。3月に入って一時のザラメ雪の感覚も忘れられないが。

 蔵王へ行ったとき、朝1メ−トルもつもった雪の中に転んでもすぐ起きられた。新雪に足のうらに感ずる、抵抗がなく滑った感覚が忘れられない。

 医学部のスキ−部員と一緒に東北の各地のゲレンデを楽しむことが出来た。でも東医体のある3月末は雪質はもう春の雪になっていた。

 スキ−で外国へ足をのばしたことはなかったが、八甲田また岩木山からの春スキ−も忘れられない。

 ミネソタでの冬を経験したが、室内は暖かく、シャツ一枚で快適であった。雪が降った日もあったが、弘前とは比べられない位の少ない雪であった。弘前くらい降れば毎日休校になるのではないかと思った。普通タイヤで走っていた。道路に塩をまくので、車の下回りが悪くなって、こちらの中古の車の値段は安いという話を聞いたことがあった。

 昭和53年に青森県企画部主催で「青森県雪問題シンポジウム」が開催されたことがあった。54年には国土庁からの委託調査に協力したことがあった。青森県ではじめて「雪」問題に目が向けられた時ではなかったか。

 法律上からも全く雪は考えられていないことがわかった。例えば道路の除雪とか、家の前の除雪とかに関わる法規はないことが分かった。ミネソタでは歩道もすぐ除雪していたことを思い出した。

 弘前では、雪はふみかためるもの、農家の人は「くず」というわらでつくった上履きをはいていた。春になると日をきめて街中「雪きり」をやっていた。「雪きり」にかり出される人にとっては「雪」は「お金」であった。

 車にのるようになって、冬わが家から道路までの除雪は大変だった思い出がある。

 また雪道での「安全運転」にも多くの体験をもった。

 そのうち「スパイクタイヤの問題」が話題になってきた。毎日新聞へ投書したのは平成2年であった。そして色々考えたことをHPにいれた。

 今は市内の除雪もよくやってくれて、ほとんど雪かきの必要がなくなったのは嬉しいことだ。

 昨夜朝3時頃市の除雪車のご−という音に目がさめた。

 玄関前につみのこしていってくれる雪が気になると家内がつぶやいていた。

 除雪車の運転手の一寸した心づかいがあったらと思うものの、運転手にはまだその余裕はないようである。

 昨年まで前の家の若い人にアルバイトでやってもらっていたのに、今年は腰をいためてお手伝いできないという。

 玄関前にどっと積み残した雪をどうしたものかと家内と話し、老人にも腰をいためないで除雪することができないものかといろいろ考えているうちに寝てしまった。

 朝おきて送られてきた雑誌のカタログに、丁度夜中考えていたような電動式の手軽な除雪機があったので注文した。まだ送られてこないが、うまくやれるかが楽しみである。

 昨年末に”あい”は”あい”でもと書いたことを思い出すが、今年の一字が”愛”であるという。

 「雪国」の「暦ももうおわりですね!」と一年のまとめを書く時がきた感じだが、なんとも分からない事件があい次いでおこって、筆がすすまない。

 これが今年のまとめの文章になりそうである。(20051222)

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