「患者の玄人」から入院の記憶へ

 

 謹呈「佐々木先生 こんなものを書いてみました。序文だけでも目を通して下さい。 吉田豊」と添え書きがある本を戴いた。

 「医者がみた遠藤周作」(わたしの医療軌跡から)(プレジデント社、2003年)である。

 「力作拝受 医師会での貴兄の講演を聞いたことを思い出しました。ゆっくり読ませていただきます。私は(踏み絵をふむほうです)」と受け取りの返事を書いてポストに入れた。

 遠藤周作さんのこと、そして吉田豊君のこと、またそのつながりのことが分かって興味深く読ませて戴いた。

 その中の一つに、遠藤さんが自分が患者であった経験から「患者からのささやかな願い」の原稿を「ぜひ書かせてほしいことがあります。載せてくれませんか」と読売新聞社に持ち込んだ話があった。それがエッセイとして連載され、遠藤さんによる「心あたたかな医療」運動になったこと。そして遠藤さんは「患者の玄人」であると書かれていた。

 この「患者の玄人」という言葉から、自分が患者になったときのこと、入院中に考えたことを書き留めておかなければという考えが浮かんだ。それが今日のおぼろげな記録である。

 

 私は比較的健康であったが、これまで入院した経験を思い出してみると4回ある。

 海軍軍医になって鹿児島鹿屋の近くの串良航空隊に勤務していたとき「胸膜炎」になったことは前に書いたが、霧島病院へ転地療養を命じられ約3ケ月入院した経験が初めてであった。 大気安静療法の時代であったから、カルシウムの体が暖かくなる注射だけだったか特に記憶は無い。色々な本を読んだことなど日記にみられるが、ぶらぶらしている内に「全治」と判をおされて帰隊した。「待命」となり「佐世保鎮守府附」になり、雲仙海軍病院へ行ったり、佐世保海軍病院で長崎原爆の患者の手当をしたり、終戦処理に携わったことが思い出される。

 霧島病院で入院していた時、八木国夫主任(?)がおられた。新聞のおくやみ欄に先生の名前を見たとき、あのころから「研究」に熱心であった記憶、その時の研究がみのってか米軍の新聞かに「あなたのハゲに毛が生える!?」かの記事がのった記憶、栄養改善学会かで先生に久しぶりにお会いしたことを思い出した。

 第2回目以後の入院は弘前にきたあとのことである。

 入れ歯を入れてしばらくたった頃だった。丁度英会話の練習を再開し始めた時でもあった。舌の先に異常を感じ始めた。一瞬「舌癌!」が頭をよぎった。近く予定されていた在外研究の機会もふいになる!と頭をよぎった。内科の松永先生に「舌をべろっと」出して診て戴いたこともあったが、結局粟田口先生に局麻で手術して戴いた。窓の外の冬の雪景色を眺めながら、暖かい6階に1週間ばかり入院した。その間にあった水曜会の忘年会で病理の佐藤先生が「良性だった」と報告されたとかのうわさを退院後聞いた記憶がある。

 第3回目も耳鼻科であった。

 のどにつかえた骨を全麻でとって戴いたときの入院である。スキ−部誌のスプ−ル(弘前だより31)に書いたことなのだけれど、「鯛のかぶとに」を食べ、”ぐいっ”と飲み込んだ時のあとの異常感であった。丁度新川先生が助教授であった時だったが、病院の当直におられたのが運がよかったのであろう。一つとったあとおくの方のもう一つまで取って戴いたとのことだった。

 この時の入院体験での私なりの収穫は、一週間の「経管栄養」と、その管を抜いたあと飲んだ水の「美味なこと」であった。栄養についての考え方と「自覚」について考える機会が与えられたと思った。

 第4回目は今度の入院の経験である。

 私は弘大病院に「救急車」で運ばれて・・・無事生還したが、 丁度たかまどの宮様が「救急車」に慶應病院運ばれて・・・亡くなったニュ−スが飛び込んできた。弘前大学でよかった!と思ったのが率直な感想であった。病状は違うことがあとでわかる前の感想である。

この入院の情報がどれだけ、どのように伝わってゆくものかが興味があった。「IT」革命の中にある自分としてである。ケイタイをもっていなかったので、病室においてもらった直通電話でいろんな方に電話して確かめたりした。

病人カプセル」ことを前に書いたが、その他のことを書き留めておく。

 たった一度の「かく痰検査」の成績に「M・・・」が検出されたと聞いた。そのあと急に「看護体制」が変わった・・・・。付き添いの家内にも分かるような「おかしいのではないの?!」といわれる場面もあった。

 丁度「SARS」が話題になってきた時だったので、それも「院内感染」が多いという疫学的な特徴があったので、はたしてどんなことで院内感染が起こるかを寝ながら考えた・・・。

 今度の入院体験での一番の収穫は、「自覚」ということである。

 その一部を日本医事新報に「ダイと記憶」に書いたことであるが、書かなかったことを書いておく。

 それは「臭い仲」とでもいうべきエピソ−ドである。家内に関係があることなけれど書かずにはおられない。 

 意識がもどってきたとき、家内の顔が目の前にあった。

 そのとき彼女のはく息が「くさく」感じたのである。一瞬色々心配をかけて「胃でも悪くしたのでは?」と自分は思ったのであるが、「息が臭い!」という私の言葉は彼女にとってはもっとやさしい言葉を期待していたのかわからないが最大のショックであったようだ。その時すぐ近くにいた次男に彼女が異常な臭いは無いと確かめたそうだから、これは自分が「自覚」として「臭い」と思ったのであったと理解した。「臭いと思わせる物質」がそこにあるのではなくて、「自覚的」にそう思ったのであると。

 色々の意識行動が、たとえば排尿などの意識が回復してゆく過程で治っていったのではあるが。

 同じように給食の、この献立の内容は栄養学的に考えてとても良いものであったと観察はしたものの、その「くさい臭い」はとても自分には受け付けるものではなかったのである。

 その訴えを主治医に話したら「耳鼻科」へ診察依頼された。

 人間ドックのように、入院中に色々な検査をして戴いたなかに「耳鼻科」での「臭覚検査」もあって、異常なしと診断をして戴いたが、「自覚」とは別のものであった。(20031212)

(弘前市医師会報,39巻4号,通巻296,48−49,平成16.8.15)

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