ゲ−ムの哲学

 

「Game is over!」(ゲ−ムは終わった)とブッシュ大統領がしゃべっていた。

コンピュ−タ−・ゲ−ムの画面によく出てくる言葉である。この2月11日には「ポリテイカル・ゲ−ム」にはもうあきあきしたと「戦争」へのおすみつきを出さない国連の安保理へ向けて言っていた。

この言葉を聞いたとき、前々から考えていた「ゲ−ムの哲学」について書いておこうと思った。

 

小さいときから家には「将棋」があった。祖父が手作りしたのだとがいっていた駒があった。ちゃんと字を彫ってそこに字を埋め込んで、磨いたものであった。江戸後期の伝統か、暇がよくあったな、手先が器用だったな、と印象をもった以外、その由来については深く詮索しないまま、父が亡くなったあとわが家に残った。両親が弘前に滞在していたとき持参したままになったのだとの記憶である。将棋盤もあまり立派なものではなかったが、黄色い布が上にありその上に桐の覆のついたものであった。あったと過去形で書くのは今はわが家にはないという意味である。先日正月に三男らが車で弘前に来たとき、丁度よい機会だからと手放した。

上の二人のあと十も年が離れて三男が生まれたあと、久しぶりに「将棋」を取り出して教えた記憶がある。

高齢期出産でおまけに難産で産声がでるまで一時時間が流れたと聞いていたので、その後遺症がいつまであるのか、自分の研究とひっかけていつも気になり今も頭の中にあるのだが、一人っ子のように、元気に育ってくれて現在がある。

私は小さいとき名人戦の棋譜を熱心に読んで勉強し少しは駒の動かし方に自信があったが、子供と将棋をやったとき、私は決して「負けて」やらなかった。そばでみていた家内からは色々と批判はされたがその方が子供の為になると考えた。

 

私が育った家には「将棋」のほかに色々のゲ−ムがあった。

「マ−ジャン」は小学生のとき象牙で竹のパイが入ってきた。両親と兄と私とでの「家庭マ−ジャン」のこと、「176歳のマ−ジャン」のこと、「賭はやらないという家訓」のことなど前に書いたが、そのパイは今はの家にあるはずである。

「花札」もあった。つんである最後の札のことを「なめる」とかいっていた。「チェス」はやったことはないが、「トランプ」もよくやった。海軍のときはトランプだけは許されていた。戦後処理の引揚援護局の検疫官として紀州田辺に勤務していたとき、引揚船が入る前2か月あまり、朝から晩まで医官4人で士官室よろしく「ブリッジ」をやったことを思い出す。

 

ところで標題の「ゲ−ムの哲学」のことであるが、それぞれの「ゲ−ム」にそのよってきたる思想があるのではないかということである。その発達の歴史をたどることも面白いことだと考えるのである。こんなテ−マは一生追いかけてもつきない話題だと思いながら、私の経験した「将棋」にふれてみるだけである。

「将棋」には、「王」と「玉」があり、「王」の方が「玉」より上だと聞いたことがあるが、あとはそれぞれの駒にそれぞれの働きのきまりがあり、相手の陣地に入るとその働きに変化の可能性が与えられているというきまりになっており、王以外の駒は相手に取られれば相手の駒になるというというのが、「将棋」の最大の特徴ではないかと考える。

「ヘボ将棋 王より飛車を かわいがり」とあったが、結局は相手の王を詰めるだけである。王だけが勝敗をきめる。古代中国の政治体制との関連が考えられる。現代の世界の政治体制が国によってことなり、世の独裁体制と云われている国はそのトップが変わればその下の兵隊はどうなるのかと考えることがある。

 

「碁」は家になかったので分からない。中学生のとき弓の道場で他人がやっているのをみていただけである。そのとき碁石でできるゲ−ムを自分なりに考案した思い出だけ付けたりに書いておこう。

碁盤の目の三列だけを使って遊ぶゲ−ムである。

その三列にお互いに自分の側に1/2/3と一つづつずらして並べ、ル−ルはその石をその列だけで前後に動かすことができるが、但し相手を押しのけることはできないというル−ルだけである。結果は押されて押されて自分の側に押し込まれたら負けという単純なル−ルである。

やってご覧なさい。

いつか家にきたお嫁さんとやったら、どうしても自分が勝てないので、もうやらないと、引き下がった。意地が悪いと側から云われた。

三列以上でどうなるかやってみないが、必ず勝てる方法を考えただけである。(20030215)

(弘前市医師会報,39巻2号,294,57−58,平成16.4.15)

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