176歳のマ−ジャン

 

 「父が三井物産にいたこともあって、上海からわが家にパイがもち込まれたのは、昭和のはじめ、私が小学校5,6年の頃だった。象牙と竹の立派なもので、今も健在である。そしてわが家が、父、母、兄と私で、丁度4人であったので、家庭マ−ジャンは始まった。 その父が明治18年生まれなので、、今年満90歳になった。母は86歳で、共に元気だ。 横浜の兄の家にいるときは、上京して、マ−ジャンをやりに行くことが親孝行になる。弘前では、家内と4人で、卓をかこむことになる。

 今日やりますか−−−といそがしい私の前で、いい出してよいものか、思案顔する母。−−−今日やりましょう−−−と戸をたたくと、待っていましたとばかり、にこにこする。

 父は他流試合をやってきたので、なかなかの腕前だが、母は自分一人で役をつくることに専念する。もうあがれるのに、さらに清一色をめざし、それができるとご満悦なのである。

 そんなのはすててはだめですよ−−−と注意する父も、自分がそのパイであがったときには文句をいわない。そんなわけで、精算すると、いつも負け越す母は、−−−安いものですよ−−−といって部屋へひき下がる。

 こんな両親のマ−ジャンのやり方をみて、私は、父、母の”恍惚度”を判定する。90歳に86歳、足せば176歳のマ−ジャンは、一寸記録ものかもしれないと思うのである。」

 この文を弘前医師会報に書いたのが、昭和50年。父(哲亮)は去る54年4月17日、満94歳にあと1か月というところで眠るように天寿を全うした。

 昨年末、父93、母89、兄64、私57、合計303歳が最後の記録となった。

 生前、世の中の役に何も立たなかったといっていた父、医学の為に役立つものなら、と慶應義塾の医学部に献体の手続きをとっていた。

 子孫のために美田を残さず、しかし子供の教育だけは十分受けさせた、母(カアサン)はよくしてくれた、兄弟なかよくしろといいのこしてあった。

白菊会のしおり,5,4,昭54.6.)

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