プロロ−グ「三内丸山の顔」

 

 それは「救急車体験記」の3日前の夜中のことだった。

 そばで寝ていた家内が数日前から私には聞き取れなかった気管支炎の寝息の音が気になって13数えたところでハタと呼吸が止まったというのだ。

 「あなたどうしたの」とたたき起こされた。

 そのときの夜の電灯の下での私の顔が「三内丸山の土偶の顔」とそっくりだったというのが本題の由来である。その時のイメ−ジはそれは穏やかな良い顔であったということであったとか。

 「無呼吸症候群というのがありますよ」「いびきのときも同じことがあるといいますよ」「・・・顔といえば・・・大昔から”人が死にそうになったときの顔を”ヒポクラテスの顔貌”といっていましたよ」と答えは「医学を学んだ者」の至って冷静な答えであった。

 このできごとが今回の生還劇のプロロ−グであったのかもしれない。80歳をこして少し鈍くなった自分にとって。

 朝大学への散歩道を歩いていったとき、いつになく足が重く、通り過ぎて行くタクシ−を呼び止めて家へかえろうかと考えたことも思い出される。でも普通通り図書館へ行き新聞を読み、コンピュ−タ−でサ−フィンし、家に帰り、普通通り朝飯といってもパン食とサラダだが、食後の黄粉・ゴマかけヨ−グルトにカナダのメ−プルシロップで甘みをつけて美味しかったといってごちそうさまという本人に異変が進行中とはご存知ないのも無理はない。

 翌日の夜家内がこれを話題に奈良に行かれたK先生の奥さんと電話をしていた時先生が出られて「一度胸の写真を撮った方がよいですよ」と云われたとか。

 頭越しのこの電話のやりとりを聞いていた自分も一度ちゃんと見て貰った方がよいのではないかと”ちらっと”考えていた。でもどの先生がよいかなとも考えていた。近くの「僕の死亡診断書を書いてくれたまえ」といっていたA先生もいるし、数年前市の総合検診を受けたとき「ちょっと血圧が高いようですよ」「HbA1cが6で・・・」と成績が出たあと「血糖負荷の試験」をやっていただいた。その後「体重管理」」「食事管理」「運動管理」と生活習慣の改善にまず努力しようと心がけてきたことなど思い出された。

 また近くで便利なところにS先生夫妻もいる。義姉のF先生が入院中だし、丁度「DDT様々」を出したすぐあとだったこともあり、若い人より少しは昔のことを知っている人が良い。「弘前の三秀才の一人」と聞いたことのある同窓のS先生に診て戴いたらどうかと考えるようになっていた。このことが今回の生存劇のKEY−PERSONになったとは知る由も無かった。

 翌土曜日は弘前市医師会員の作品展が開かれる日であった。

いつも通り大学の図書館により、土手町の駐車場に車を入れ寒風の中を久しぶりに土手ブラをデネガの会場に歩いていった。受付での記帳の際、書く筆が悪かったのか筆がうまく進まなかった記憶がある。「筆跡鑑定」で「脳卒中の進行度を鑑定する」文献をみたことを思い出した。あの時の私の筆跡は前触れとしての物的証拠になるかも知れない。

 丁度0先生夫妻が来られてお元気な姿をスナップし、自分の出品した「思い出のスナップショット」をデジカメと普通カメラで撮った。コ−ヒ−を御馳走になり、帰りに工藤写真屋さんにより、「出来は月曜に」ということで普通通り帰ってきた。

 翌日曜日は久しぶりに天気が良かった。車が少しよごれていたので、家内と二人で近くの「カ−・ウオッシング」へ行った。「今日は500円で・・・」と洗剤・塗油までやった。ミストが顔にかかるのが気になった。同じ500円ならスタンドでやらした方が良かったのが印象であった。洗剤にしろ油にしろあのミストは気にいらなかったとあとで「主治医」に云ったことを思い出す。

 翌月曜日17日が「事件当日」である。

 学生時代ヨットをやっていてたまたまそれが縁でとの思い出のあるT先生が亡くなったその火葬の日であった。

 新聞広告を確かめたら11時とばかり思っていたのに10時とあった。時計は9時半を示していた。急いで支度をして車で出かけた。もう火葬場に一行は着いているかに見えた。

入ってにると知人はおらなかったが、名札にはT先生に名、お棺の前に立つ喪服の姿はTさんだった。ちょうど先日マ−ケットで家内がお会いしたWさんが来られて、「ああT先生の・・・」と確認できた。

 「お顔」を拝みに上がったとき何か悲しいものがこみあげてきた。

 先日キャッスルの喫茶室で久しぶりにTご夫妻に会ったとき、今度ゆっくりと声を交わしたこと、特徴のある独特の意見をいうT君であったこと、学生時代まだHといいていたTさんを復帰前だったか沖縄旅行を計画されたときN航空の支社長だかをしていた幼稚舎同級のJさんを紹介したことがあったことなど、急に思い出されて悲しくなった。

 昔親戚の80歳をこしたおばあさんが孫が亡くなって2日後特に悪いところのなかったおばあさんが亡くなったことを思い出した。

 出口で二言三言Tさんと挨拶を交わし、小雨ふる長勝寺の道を車を運転して帰宅した。 そこまでは普通であった。 ただ買い物に一緒に出かけるのは何となくその気にはならず、家で休むことにした。

 家内がその日にかぎって姉のところによらず買い物袋を抱えて帰宅した。

丁度その一寸前であった。私は咳き込んでいた。その上「嘔吐」の反応がでてきた。

 「やばいことになったな」と思って、台所へ立っていた。ちょうどそのとき家内が帰宅した。

 「すぐS医院へゆきましょう」がその時の判断であった。ズボンを変える余裕はなかった。普通ズボンに入れるカ−ドと小銭をコ−トに入れ、玄関に立って靴をはこうとしていた。その時「事件」が起こった。

 ここ2,3年のことを考えてみると、昭和29年に弘前へ来て以来の古い資料を2階から持ち出し、いちいち目を通し、必要なものはHPに入れてきた。

 家内が「裂織(さきおり)」で古い布で織物をしていた時、「慢性気管支炎」のような症状がでた経験があったことと同じかも知れない。

 だから昔のほこりだらけの資料は見るな!と厳命され2階にはまだあがれない。

 この記録の纏めは私の救急時の診断名は「重症肺炎」であり、2内に入院・精密に検査した結果心臓の一部に「不全状態がある」とのことだが、臨床症状が起こり、救急車に助けられた状態になるまでには、「多くの要因」が関係していたに違いないとの印象であり、結論である。

 見舞いに来られたある方は「鬼の霍乱(かくらん)」ともおっしゃった。「あんなにお元気だったのに」ともいわれた。「年をとられるとにぶくなるものですよ」とも言われた。 臨床経験の無い自分ではあるが、「医者・看護師など医療関係者の教育にたずさわった者」として、少しでも彼等の役にたつことがあったらなと入院生活を送らせていただいた。(20030105)

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