「ピ−ポ−ピ−ポ−救急車」体験記

 

2002年11月18日(月)午後3時半過ぎ「ピ−ポ−ピ−ポ−」と救急車のサイレンの音がわが家に近づいて来るのを耳にしていた。私はその時玄関の踏み台のところに腰を下ろし靴もうまくはけず立ち上がろうとしても力がなく立ち上がれずにいた。そのうち頭をうなだれ(重力の関係と思うが)ほほに手をあてていたので丁度ロダンの考える人のように丁度頭を支える格好になって動かなくなっていた。それをみた家内が約束していたS先生の医院に行くことは自分の力ではどうにもならないと考えS先生に連絡しようと考えたがその前に私の頭から毛布をすっぽり被せ、S先生に電話した。S先生は私が大学の方に話をつけるからとりあえず「119番」に電話して下さいとのことだった。家内は「119番」に電話した。「火事ですか病人ですか」「病人です。場所はこれこれ」といってそれから約4-5分で救急車が玄関に近づいて来たのである。 「119番」は弘前消防署に直接繋がってそこから救急車がでたとのことであることがあとで分かった。

玄関に着いた救急隊員2名はすぐ酸素マスクを私に着け救急車に乗せた。私の意識はそのへんあたりからまたはっきりとして、すぐ前に家内の顔、頭上での電話の声やりとりその内容は理解できなかったが声はきこえていた。窓ごしに風景はみえた。2-3分して車が動き始めた。その間何があったかあとで聞いてみると、こうであった。救急車が消防署を出るときはどこが受け入れてくれるかわからない。日中なら夜間ならどこそこと決まっているそうだが、その中に大学病院の救急部はないそうである。家内の頭には大学があったが救急隊長はすぐそおうとはいかない。その間S先生と大学2内と話がついたらしくS先生は一緒ではなかったが直接大学救急部へゆくことに話がついて車が大学へ向けて動きだしたとのことであった。どの道を行くのかと私が考えている内に大学の救急センタ−に到着した。すでに何人かのドクタ−達が出迎えてくれたとのことであったが、私には見えなく、ストレッチャ−で運ばれて行った途中で私の記憶は全くなくなった。

家内は私が運ばれて行った救急処置室には入れず一時間位外で待機していたが、そのうちICUに移された。駆けつけたS先生が来たこと、またH先生から暫く眠らせて置きましたと言われたとのこと、またかなり重症で家族に知らせて下さいと言われたという。

家内はよろしくお願いしますといってハイヤ−で自宅へもどり、自分だけに留めて置きたかったとのことだが云われたとおり、子供3人と私の兄に電話したそうである。

翌19日朝家内は車できたがICUに移され口を大きくあけて管をあてられた老人が呼べど答えずということでその儘自宅へもどった。

昼頃東京から飛んできたKさんと一緒に病院にきてKさんが「おとうさん」と声をかけてくれたそうだが私にはまったく記憶がない。その日の夜は家内とKさんは自宅にもどり泊まっていった。

翌20日朝家内は病院に来たがかわりがなく自宅へ戻り、もう一度Kさんと二人で病院へきて声をかけてくれたそうだが私には記憶がない。Kさんは東京へ帰っていった。

18日付けで「集中治療に関して行われた説明と同意」の書類を家内が書かされたとのこと。また18日付け主治医の書いた「入院診療計画書」には「病名:重症肺炎」とあり、病名は現時点で考えられるものでと断り書きがあり、色々治療計画が書かれていた。

レントゲン・CTを19日の午前やったそうだが記憶はない。

その内私の意識がもどってきた。

目を開ければ広い部屋にベットがいくつか白衣の人何人かいた記憶がある。目の前で胸のレントゲン写真で何やら説明している風景、昔胸膜炎で水が溜まったときみた写真のこととだぶっているが真っ白な真っ黒な胸の写真の記憶がある。

そのうち1病棟7階第2内科病棟に移されることになり運ばれた。

耳にはモニタ−のアラ−ムの音が鳴り続け、胸には心電図のための導線がはりつけられ、尿道には管が、首手足には何本かの管、片鼻には何か詰め込まれ(タンを除くための管を入れるためとか)、記憶はないがとくに首の絆創膏がかゆがっていたのか皮膚科処方の(レスタンミン軟膏)、瞼を閉じれば次々とフラッシュバックのように画面が展開し、古いものはモノ、最近のものはカラ−で、厳密な意味では昔見たものとは同じではなく、色々な組み合わせで、色々なデザインの図柄が次々と、また次々と色々な考え・アイデイヤ、瞼をあければ目の上に点滴のバッグ・栄養注入のバッグの管、酸素マスク・管また鼻を通しての栄養の為の管、体温測定、血圧測定、脈拍測定、指を何かで挟んで(酸素飽和度と脈拍を示すとか)、静脈からの採血、指先からの採血、夜中にはハルンの量を測りにくる看護師さん、体をひやす頭用のまくらまた脇の下に入れる冷たいもの、などなど、意識がもどってきたあとのことは鮮明に覚えている。

じょうだんに「しらぎく会(献体)の門がしまっていてもどって来ました」とか、日一日と回復する様子を、「人間再生のドラマの今は何幕目でnaosukeの役柄をどうやったらよいか考えているところです」と言ったりしたが、12月10日退院できた。

今こうして「救急車体験記」として「おさわがせ記」「スト−リイ−」をHPにのせるまでになったが、こうなる前に何があったのか、話せば長くなるし、病人として入院生活中色々考えたこと、また新しく経験した諸検査のこともあるが、今回はこれで筆をおく。

多くの看護師さん達に世話になったことを感謝したいと思う。

最後に私の命を救って下さった弘前大学医学部第2内科の先生方を紹介したいと思う。

弘前大学医学部第2内科の奥村・林・高梨・友常先生方

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