自動車・テレビなど 昭和33年から36年頃

 

 昭和31年に下白銀町の教授官舎に入ってから数年「月月火水木金金」と忙しい日々を送った。

教室の新年会や西目に一緒にいってくれた諸君との会食を官舎でやった。

 

下白銀町官舎 つきあたりは時敏小学校

 

佐々木 修 成田 福士 武田 悦 武田長女滋子 三橋 章 柴垣 (昭33.1.)

 

山田 菊池 柿崎 栗林 武田 ほか

その頃街で大阪屋の建物 かくはの前の菊池薬局の看板が目についた。

  

 旧制学位制度に乗り遅れないようにと大勢の研究生と研究論文の仕上げを手伝った。

 弘前大にも大学院設置が許可になり、教授の俸給は3号俸で文字通り3等教授であったがどうにか生活に余裕ができた。

 自動車の免許を取りたいと思った。

 教室の福士襄君と成田尹君とで教習所へかよった。丁度小型ダットサンで割と簡単にとれるときだったので、教科の方はほとんど自習であまり費用と時間を取らないで合格した。すぐ限定解除の特例で普通免許になって今日におよんでいる。

佐々木 福士 成田 (昭35.11.10.) 

 自動車を欲しいと思った。たしか20万だったかでコロナの中古を手に入れた。

 車庫もないままに庭の空き地にいれた。ここへバックで入れるのに苦労した思い出がある。

 遠出で岩木にいったときの写真もあった。青森への道で大釈迦の峠はまだ砂利道でなかなかこせずエンストした思い出がある。

 学校での駐車も自由でどこでも留められた。

 教授会の第1号はたしかレントゲンの篠崎教授で大きな黒塗りのクラウンで体の大きい方は大きい車に乗るものだと思った。

 何時だったか下り坂で急にブレ−キが全く効かなくなってキモをひやたことがあった。その理由を考えるひまもなく「中古だから」と考えた。次ぎからは「新車」を買うことにきめたが、次ぎの車は名前を公募していた「パブリカ」の新車にした。空冷の国民車といわれた車であった。空き地に車庫をつくった。もうこの時には子供達も幼稚園から小学校への年になっていた。

 

   

昭和37年                       昭和39.1.1.

 テレビも家にはいった。昭和34年の皇太子ご成婚と一般のブ−ムと同じであった。NECのテレビであった。

 指導教官制度ということで学生に官舎にきてもらったことがあった。整形にいった水木君などの顔がみえる。その背景をみると当時の自宅の様子がわかる。

 

 はじめオルガンを買ったが「タッチ」が「ピアノ」と違うので「ピアノ」にしなければと考えた。それがわが家で実現したのは昭和34年であった。

 福士君が家にきて、家にあった私が小学校のとき使ったことのあるバイオリンと今音楽をやっている修と音合わせリズムをとっているスナップがあった。

 

 昭和34年2月健康優良学校審査のために下北の東通村の猿が森中学校へいったときの子供達とテレビの風景のスナップは忘れられない。

 ここは北海道に近いためにチャンネルが弘前より多かった。講堂にテレビが一つ置かれそれを食い入るように眺めていた子供達をスナップした。

前にまわってシャッタ−を押したとき誰一人私のカメラに気が付いた子供がいなかったことが印象的であった。

  

 スキ−を大鰐スキ−場で始めたが解剖の照井精任先生や歯科の板垣正太郎先生らやっておられた「コロセンクラブ」に入れて頂いた。「コロセンクラブ」とはスキ−で転ぶ専門と聞いたことがあるが弘大大鰐ヒュッテの募金に中心になって動いた方々でヒュッテには郡場学長からの感謝状や寄付をされた方々の名前がかかげられていた。

 

コロセンクラブの方々(昭35.1.)

 

 

 昭和34年2月岩木山に皆でスキ−で登ったときの写真があった。

 昭和36年に酸ヶ湯にとまって八甲田へスキ−にいったとき、山の素晴らしい空の青、山の景色に印象ずけられた。

  

教授会として野球チ−ムがあって、「OIRAKUというユニホ−ム」があった。

女子三共レッドソックスというチ−ムと試合をしたり、秋田や黒石へ遠征したりした。

昭34年

昭和33年は熊本で日本衛生学会が開かれて「高血圧の疫学的研究」を発表したのであるが、その時の研究が「りんごが高血圧に効く」と全国版また海外まで報道された。

 

 昭和33年に公衆衛生学教室が認可になり、昭和34年4月長崎から中村正教授が着任した。教室開講記念に赤石教授らと呼ばれたときの写真があった。その年の忘年会は大鰐で合同でやった。

中村正教授着任 弘前駅にて(昭34.4.) 武田 佐々木 中村 赤石 臼谷 (昭和34.11.)

衛生公衆衛生合同忘年会 大鰐あじゃら荘にて (昭和34.12.26.)

昭和35年になって秋田沖の海洋油田掘さく作業の労働衛生に関する調査に佐藤学部長中村教授らと秋田市へ出張したことがあった。

  

                                臼谷            中村 佐藤 

昭和36年夏 八甲田で医学生サマ−キャンプが開かれた。学務委員をやっていたので一緒に楽しませていただいた。 そのころは自衛隊の援助を得られた時代だった。解散は弘前公園で丁度岩木山が雲で隠れていたので、卒業したら又弘前へきて見て下さいと挨拶した。

 

教授になって農村医学研究のなかの「血圧研究班」の世話をしたが、その代表者ということで千代田生命社会厚生事業研究助成基金から研究補助金を昭和33年に頂いたことがあった。挨拶に来られた小泉信三先生が「墓堀は人が死ぬとほほえむのに、健康の為にお金をだされたことの祝いを」述べられた記憶がある。その後「東北地方の脳卒中ないし高血圧予防研究」ということで継続助成を頂いた。またこの懇親会の席上真向かいの方が脳卒中の発作を起こされたのをみたことも印象に残った。

昭36

昭和36年4月徳島で第31回日本衛生学会が開催されたが、日本医事新報(1931,昭36)から学会印象記を書くようにいわれたので特に記憶にのこるのだけれど、「水俣病の原因をめぐって」のシンポジウムが開かれている。このスナップはまた雑誌の記事も歴史的に意味があると思う。またこのとき寄生虫の山口富雄教授の特別講演「四国の風土病」のスナップもあった。

徳島医学部寄生虫山口富雄教授

昭和36年5月みちのく銀行の大坂さん教室の鵜飼・福士・町田君らの努力で青森県ヨット連盟が発足した。私はかつがれて会長になったが、青森にかよう車は手に入ったがヨットまではおよばなかった。でも連盟ができたので国体に出られることになった。大学にもヨット部をつくったが部員の大半は医学部学生であった。

福士 鵜飼 佐々木 青森造船所にて (昭35.5.)

昭和34年から36年にかけては忙しかったが、なにやかややった。ヨットもスキ−も西目・金屋・狼森の調査・保健活動も、日本全体も豊かになりつつある時代であった。武田助教授に復帰前の沖縄で学校保健の指導をするように文部省から依頼があって出張することになった。

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