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内田家の起源
伊藤八兵衛の出身家である川越内田家の菩提寺は、瑶光山最明寺(ようこうさんさいみょうじ)です。その最明寺の五輪塔は鎌倉時代、和田合戦(1213年5月)で滅亡した和田一族(和田義盛)を鎮魂する目的で、鎌倉の和田塚(鎌倉市由比ガ浜3〜4〜7)から分霊したものと伝えられています。歴史書「吾妻鏡」には、義盛の三男和田義秀が和田合戦の際海路、安房の国(千葉県南房総)に落ち延びたと記されています。義秀は安房国朝夷郡を領地としていたことから、朝比奈義秀と名乗った。鎌倉の「朝比奈切通し」を一夜で切り開いたという伝説の武将。義秀は部下を安房に定住させ、自らは武蔵国三芳野の里豊田村(埼玉県入間郡三芳町)の豊田源兵景快に身を寄せていた泉小次郎こと泉親衡(いずみちかひら)と合流しました。泉小次郎は1213年2月、源頼家の遺児千寿丸を擁立し執権北条義時を打倒しようとして失敗、三芳野に落ち延びていました。泉小次郎は隠遁して戸泉氏を名乗ります。戸泉家には最明寺の縁起(起源)の写しが伝えられています。和田義秀は川越小ケ谷(おがや)に定住、隠れ苗字の内田を名乗ります。和田一族は三浦半島(現在の横浜市金沢区六浦)にルーツがあり、元の苗字は六浦庄内和田であったと「相模武士と和田合戦」や「相模武士全系譜とその史蹟(5)」P.197に記されています。つまり「内和田」から「和」を抜いて内田姓としたと伝えられています。

《各地に残る朝比奈伝説の比較考証》
朝比奈三郎の和田合戦以降の伝説は川越の他、宮城県大和町や和歌山大地町などに残ります。しかし川越に伝わる伝説が、他とは一線を画する次元の伝説であることが判ります。例えば大和町の伝説では、松島湾、七ツ森の山々、吉田川を創るなど、誰が見ても判る神話や夢物語なのに比べて、川越の伝説は非常に細かく伝わっています。朝比奈義秀(三郎)が泉親衡(いずみちかひら)と千寿丸と集合するなど、一見ありそうもない事ですが、1213年5月の和田合戦のきっかけとなった泉親衡の乱が、同年2月に起こっていることは注目すべきことです。つまり北条の横暴な政治に不満を募らせ発起した末、滅ぼされた側の人間が集まるというのは、ごく自然のことです。もちろん生き延びればの話ですが。そこで歴史書に注目すると、鎌倉幕府の公式歴史書である「吾妻鏡」では、義秀は和田合戦で生き延びて安房の国に逃れ、その後行方知らずと記されています。和田家の家伝では、義秀はその後高句麗に逃れたとなっています。泉親衡は行方知らずです。また千寿丸は1214年に京都一条北辺の旅亭(実は仁和寺)で自害したと記されています。この記述で気になるのは『禪師忽ち自殺し、伴黨又、逃亡す』つまり、千寿丸はあっさり自殺して、仲間は逃げ去ったと書かれています。落ちぶれたとはいえ、源頼朝の直系の孫が「あっさり」死んだあと、当時の常であった首の検証はおろか、仲間も守らなかったのは、いかにも不自然です。千寿丸が栄実として出家したことは千寿丸の祖母である、あの北条政子の命でした。千寿丸は、反北条方の旗頭に祭り上げられていたのです。私見ですが、政子は北条の人間としては千寿丸は目障りだが、実の孫としては、もちろん愛情があったはずです。そして千寿丸を出家させることにより、まず一度目として孫の命を救ったのです。つづいて二度目として、政子は吾妻鏡を始めとする歴史書で「千寿丸は死亡したことにせよ」と曲筆を命じたと考えます。つまり公式には死んでいるのだから、北条家として追う必要はなく、孫の命は守れるということです。鎌倉幕府の公式文書を書き換える必要があり、かつそれをできる唯一の存在が、尼将軍と呼ばれた北条政子でした。さらに吾妻鏡は多くの事実とは異なったこと、つまり曲筆があったという研究からも、千寿丸は実際のところは1214年には死んでいなかった可能性があります。
《なぜ川越なのか》
続いて朝比奈義秀や泉親衡、千寿丸が隠匿した川越という土地について考証します。最明寺の縁起では、武蔵国三芳野の里豊田村(埼玉県入間郡三芳町)の豊田源兵景快の元に義秀と泉親衡、千寿丸が参集したと記されています。豊田景快についてはほとんど資料が残っていませんが、当時おそらく親族であった豊田景俊や豊田景春が吾妻鏡に名前が残っていることから、武蔵国三芳野の地域を治めた武士だと推察されます。その三芳町の隣町が川越市です。和田合戦では、和田側として横山党一族が参戦しました。横山党は八王子を本拠地とする武士団で、党主横山時重の娘が和田義盛に嫁ぎ、姻戚関係にありました。しかし和田合戦の敗北により、そのほとんどが殺され、一族は離散しました。八王子を追われて向かったのが、鎌倉と反対方向、徒歩で約8時間の距離、しかも土地勘のある川越周辺というのは理にかなっています。また信州上田が泉親衡の本拠地であったということは、安房と信州の中間地点である川越で、横山党の残党や、ひょっとして義秀の母も参集した可能性があります。義秀は船6艘、500人で安房に逃れ、横山党は3,000人が参戦したと言われますから、その家族を含めて数千人が落ち延び、歴史の影に隠れたことになります。落ち延びた者が密かに助け合い、生きながらえたと捉えるのが自然です。さらに川越市小ケ谷は入間川に面しており、川を越えるとそのすぐ先には武蔵国比企郡(現在の埼玉県比企郡と東松山市)が位置します。平安時代後期から鎌倉時代前期にかけてこの地を領していた比企氏は、源頼朝の死後、1203年の「比企能員の変」で北条時政に滅ぼされていました。つまりこの地域は、北条により滅ぼされた落ち武者が集まる土地だったと想像されます。
《北条時頼は、なぜ最明寺を創建したのか》
最明寺の縁起では、川越小ヶ谷の地に暮らし、老僧になった千寿丸こと瑶光房道円が、1256年に権職を辞して最明寺入道として出家した北条時頼と面会したとあります。老僧とはいえ、千寿丸は1201年生まれで、当時50歳代後半でした。一方の北条時頼は1227年生まれですから、まだ30歳になったばかりでした。先ほどの北条政子の命じた、千寿丸についての公式文書「吾妻鏡」の曲筆、つまり千寿丸は出家して生き延びていることは、将軍家内では公然の秘密だった可能性があります。時頼は全国を回って各地に最明寺ができましたが、川越の最明寺については、時頼がポケットマネーで150貫、現在の貨幣価値で約900万円を出した、あるいは七百石の御朱印地を授かったなど、他の寺に比べて待遇が違いすぎます。具体的な金額がある伝説は、正に川越だけです。『あの千寿丸が!ここに落ち延びて・・』と不憫に思い、幕府と掛け合い、1262年に瑶光山最明寺が創建されたということも理解できます。さらに瑶光房(千寿丸)を別当職に任ずるなど、伝説といえないほど詳細に伝わっています。
《なぜ隠し苗字なのか》
最後に隠し苗字について考証します。国民全員が苗字を持てるようになったのは明治からですから、それ以前は氏を名乗るのは武士としての名誉でした。しかし和田合戦という国内有数の内乱の首謀者の名前を名乗るのは「殺してください」とうことです。したがって当時は隠し苗字は頻繁にありました。川越内田家では「六浦庄内和田」という和田家の元々の苗字「内和田」から「和」を抜いて「内田」としたと伝わっています。これは文献(相模武士全系譜とその史蹟)にも記されていますから、信憑性があります。また「小泉」を「戸泉」にするなど、これも理解できます。さらに前述の最明寺の縁起は、度重なる最明寺の火災により原本は消失していたものが、戸泉家からその写しが発見され、これまで口述伝として伝わってきたことが再確認されたことは注目されることです。 苗字については、和歌山大地町で江戸時代捕鯨をはじめたのが和田家で、朝比奈(和田)三郎の子孫と伝えられていますが、ここではむしろ和田という苗字が捕鯨の祖としてのブランドを高めるために利用されたと解釈するのが自然です。
《まとめ》
川越最明寺の縁起、さらに川越内田家に伝わる家伝は、従来までの定説を覆す驚くべき内容です。もちろん800年以上前の出来事で、それを証明することは困難です。一方、この川越伝説を否定する根拠が「吾妻鏡や愚管抄に書かれているから」というのも、これまでの検証で不十分だと考えます。重要なのは、北条時頼が大金をかけて川越最明寺を創建した事実。さらに川越最明寺の旧来の檀家である、戸泉家に川越最明寺の縁起が残されていた事実、同様に最明寺の目の前に位置し、最明寺の最古参の檀家で、さらに江戸末期の豪商伊藤八兵衛の出身家で、その娘が渋沢栄一の後妻になったほどの名家内田家に伝わる家伝、また当時の隠し苗字の必要性、さらに川越という、関係者にとって好都合の地理などを総合的に検証することにより、少なくとも『川越伝説は信憑性が薄い』という評価ではなく、『さらなる検証が求められる。』と評価すべきと考えます。
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