日本人の高血圧と食塩

 

 コロトコフの血圧測定法

 2年後の1978年に、東京のホテル・ニュ−オ−タニで第8回世界心臓学会が開かれることになっており、世界から数千名のその道の専門家が来日する。日本人の高血圧もあらためて問題になることだろう。何故日本人は脳卒中で死ぬのであろうかと。

 この年は高血圧の学問の基礎になる血液循環の理論をみつけ生理学の父とよばれるウイリアム・ハ−ベイの生誕400年のお祝いの行われる年でもある。

 研究の歴史の中で、現在広く用いられている聴診法による血圧測定法は、今から71年前の1905年に、ロシアの軍医だったコロトコフが発表したものである。

 上腕をカフでしめつけて、圧力を下げてゆくと、肘のところの血管に音が出るのをみつけ、その時の圧を最高血圧とし、音がきこえなくなるところの圧を最低血圧とした。

 この方法は極めて簡単に利用できたことから、またたく間に、全世界に広がった。

 時は丁度明治38年であったこともあって、旧陸軍の三八銃にあてつけて「あてにならない三八式」と新聞に書かれたこともあったが、人間の命のめやすとして、極めて貴重な数値を教えてくれることになるのである。

 

 血圧と生命保険

 血圧測定法が全世界に広がってゆく中で、一番早くこの方法を事業の中にとり入れたのは、生命保険会社であったといえる。

 はじめてイギリスに生命保険会社ができたのは、1762年といわれているが、このときの会社の名前が、何故”エクイタブル”というかの意味を気賀真一郎先生の”生命保険の話”を読んで理解できた。それは、死亡についての確率が、計算の基礎に入って、加入者が皆”公平”になるという意味であった。その後現在まで続いている生命保険会社が、その公平さを保持し、加入者同士の助け合いをするために、「医学診査」を行っていることはご承知の通りである。

 人はいつ死ぬかはわからない。誰も自分だけは死なないと思っていることだろう。しかし、年齢別に死亡率を計算すれば、年とった人が1年間に余計に死ぬのははっきりしている。だから”生命表”が計算され生命保険は成り立っている。

 高血圧の原因が何であるかわからぬままに、また日本人の血圧状況もわからぬままに、生命保険申し込み時の血圧値が、その人の生命の予後と極めて深い関係にあることがすぐわかったので、血圧測定は生命保険会社の「医学診査」に取り入れられたのである。

 

 ケンプナ−の食餌療法

 1936年、昭和11年に、慶應の内科の大森憲太先生は、日本内科学会の宿題報告で、心臓病や腎臓病の患者に対する食餌療法について述べている。食塩やカリウム塩のことを論じ、ジャガイモ療法やバナナ療法のことを紹介している。私が先生から講義を聞いたのは、そのすぐあとであるが、当時は一般には、高血圧は腎臓が悪いからだ、蛋白が悪い位のことしか言われていなかった。

 1944年に、ケンプナ−が高血圧に対する米・果物療法を発表したときには、世界的にセンセ−ションをまきおこした。なにしろ食餌だけで高血圧が治るといものであったから。

 お米というと、日本では「わるもの」にされているようであるが、米を250から350グラム、生の果物・果汁および砂糖を100から500グラム与え、これに各種のビタミンを加えたものが、これはその構成からみると、カロリ−は2000と低く、食塩が1グラム以下という、低熱量、低食塩食であったのである。

 減塩があまり厳格すぎて、”まずい”ことや、効かない例もあったり、その後、悪いナトリウムを外に出す薬ができたこともあって、一時ほどさわがれなくなっているのだが、高血圧の成因に食塩が関係しているのではないかという考えを、若きド−ル博士にうえつけることになるのである。

 

 ド−ル博士の研究

 高血圧と食塩についての研究論文をしらべてゆくと、きまってぶつかる論文があり、その研究者の名前は、L.K.Dahl博士である。

 アメリカにおける「高血圧の成因として食塩を考えている」最先端の人だが、彼とのつきあいも、かれこれ15年になる。

 彼にとって、日本の、とくに東北地方の人たちが食塩を1日20グラムも30グラムもとって、また高血圧者が沢山いることを知ったことは、よろこびであったに違いない。

 彼は1960年の高血圧の国際シンポジウムに「食塩を日常沢山摂っている地方には高血圧者が多く、少ない地方に高血圧者も少ないとの人間における疫学的事実」として発表したのである。

 彼は、アメリカで最近うられている缶詰めの乳児食に、日本の秋田なみの食塩が入っていることを指摘し、それで動物実験で高血圧をおこすことのできることを報告し、離乳食改善の大統領への勧告の基礎を示したことで知られている。

 彼はまた、「食塩に極めて敏感に反応して高血圧になりやすい系統のネズミ」「食塩に抵抗性があってなかなか高血圧になりにくい系統のネズミ」をつくったことで知られている。人間では実験できないにしても、彼の動物実験での成績は、極めて興味のあることといわなければならない。

 

 本当の必要量はどれほどか

 昭和50年3月、栄養審議会は、「日本人の栄養所要量」について厚生大臣に答申を行ったが、これには「塩化ナトリウム」についての基準量は示されなかった。

 すなわち、従来あった「食塩について1日1人当たり所要摂取量として15グラムという数値を妥当であると定めた」その数値が廃止されたのである。

 一般には、1日15グラム摂取しなければ、栄養失調症にでもなって、生命の維持すらできないと考えている方が多いのでなかろうか。

 何故なら、日本の大抵の本にはそう書いてあり、それが”常識”であったから。

 しかし、本当に人間に必要な量は極めて少なく、多めにみて、1日5グラムぐらい以下と考えられるのである。このことは臨床医学などで確かめられていることだし、最近の横井庄一、小野田寛郎、中村輝夫さんらの貴重な経験でわれわれは身近にそのことを知ることができたのだ。

 どうも、国際的にみて文明人は、その中でも日本人は、必要以上に食塩を摂りすぎてきた。

 

 食塩はどこから入るか

 食生活を考えるとき、カロリ−、蛋白質、ビタミンなどと同時に、ミネラル、とくにナトリウムがどこから入るかを知らなければならない。だが話は簡単である。最近発売の食品分析表をみればすぐわかることなのだが、食品の中で、他よりとびぬけて食塩含量が多いものは、すべて加工品である。人間が人間の知恵で、食品を加工するときに食塩をつけ加えている。

 昔なら、食塩の入る道は単純だった。みそ、漬け物、しょうゆ、それに塩魚をおかずに、ごはんを腹一杯たべていたからである。これですぐ食塩は1日20グラムも30グラムにもなってしまう。これらの食餌で動物実験すると高血圧をつくることができる。東北地方では小さい時から高血圧で、若い働き盛りの方が脳卒中の発作をおこして、死んでいった。

 最近では食生活が変化してきているので、どこから食塩が入るかを細かく知らなければならない。

 日本でも最近ようやく出てきたが、アメリカでは十数年も前から、1日数グラムの食塩ですませるにはどうしたらよいか、実に細かい指導書がでている。高血圧についての食生活改善の中心はまず食塩をへらす工夫なのだ。

 私自身、この研究をやり始めて十数年、日常卵には塩をふらず、スイカにも塩をふらず、塩をぬかしたコショウと油の野菜サラダを食べ、あのおいしいみそ汁もできるだけ飲まないように心掛けている。それでも1日7グラム以下に下げることは容易なことではない。

 すぎたる食塩は体に毒だといういろいろな研究を知りながら、実行することは実に大変なのである。

 でも、30年も40年もかかってつくり上げたこの体を、1日か2日で、注射でもうって治そうと思うのは間違いではなかろうか。食塩にしても急にへらすのは体にとってよいものか、悪いものか、実のところこの辺の研究は不足している。

 だが、5年なり、10年なりかかって、体をならしてゆけばいけるものなのである。そして何より幸いなことは、食塩を減らしていって悪かったという報告のないことである。

(月刊健康,52−56,昭51.3.)

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