農村をめぐる精神衛生

−−昭和43.7.6.第9回青森県精神衛生大会公開座談会−−

 

 司会:衛生学の佐々木先生から健康の問題ということについてお話いただきたいと思います。

 佐々木:私の専門は医学の中でも衛生学なのでありますが、ここに掲げました題の”農村における精神衛生”ということになりますと素人でございます。ただ私なりにいろいろ研究をやっておりますし、専門領域を持っておりますから、それを通じて話題を提供してみたいと思います。

 さきほど市長さんから、”健全な身体に健全な精神がやどる”という諺があるとご挨拶がございました。たいへんよく引用される言葉ですが、これをどのようにわれわれ日本人が解釈しているかということに、いささか問題があるのであります。もしこれを、体をよくすれば自動的に精神がよくなる、という風に考えてしまうと、こまるのでありまして、ギリシャ人の考え方を全く日本流に解釈してしまったということになります。よくこれが間違って解釈されてまして、体をよくすれば頭もよくなる、と単純に考えておられる方もあるし、またそのような意味で発言される方もございます。ところが言葉の本来の意味は、健全な身体に健全な精神が宿ることが望ましい、というギリシャ人の願望を表した言葉である、と言われております。

 実は先年機会がありましてギリシャの”コス”という島に参りました。そこは医学の発祥の地でありますが、又そこに衛生の女神、それはハイジェイヤという名前の女神でありますが、その女神の像が博物館の中に飾ってありました。これはギリシャ人の一つの願いを表しているといいますか、”理性に従って生活する限り健康で過ごせる”、という願いを表すという風にいわれております。このハイジェイヤが一般にいわれておりますように医者の神様のアスクレピオスの娘であるというのでない、という解釈があるのでありまして、衛生学をやるものとして私なりにその像をみて感激したわけであります。

 さて、きょうのこの集まりは精神衛生大会でありますが、健康問題を包括的といいますか、真っ正面に取り組もうとする時、それなりの考え方があるわけであります。

 丁度終戦直後の昭和21年に、世界の国々の方が集まって、健康についての会議が開かれたことがございます。その時にわれわれの目指す健康というものは、単に病気でないのは健康だというのではなくて、肉体も、精神も、また社会的にもよい状態だ、という様な考え方が出され、その後、世界的にこの様な狙いで健康を考えようということで、今日に至っているわけです。よく考えてみますと、われわれの持つ健康問題は過去から現在まで色々な形で変化しております。

 非常に通俗的な例を引いて申しわけありませんが、色々の本を読みますと、その時代時代のもつテ−マが違います。ライの問題があったこともあるし、「ホトトギス」等にみるように結核患者のヒロインが大勢の人の涙をそそったこともあります。最近では「あしたこそ」というテレビを見ても、心臓病でなくなるといったテ−マが出てきます。突然心臓病で亡くなるとか、あるいは交通事故で亡くなるというようなことが、現在のわれわれには身近な問題として感ずるのであります。この地方でも結核がはやり、あるいは赤痢や腸チフスがはやった歴史的な事実がありますが、農村における健康問題あるいは日本人の健康問題もまた、どのような変化をしているか、という流れをわれわれはやはりくみとらなければいけないと思います。

 次にその流れをくみ取っていくやり方ですが、一番端的な方法は、死亡というものから、考えていく生き方です。

 例えば死亡順位の第一位が脳卒中で、第二位が癌であるというようなことは、死亡から来た問題のつかみ方であります。その面からいきますと精神障害から死亡するという事は極めて例数としては少ない事になろうかと思います。勿論自殺の問題であるとか、あるいは他殺といっても、むしろ殺す方に問題がありますから、殺された方の例数からは、精神衛生の問題は出てきません。従って死亡から精神衛生の問題を考えるということは大変むずかしい話です。そのためか、現在まであまり問題にならなかったのです。しかし、病的な精神状態にあった人が、事件をおこした場合、どのように社会的に取り扱われてきたかといいますと、精神衛生の歴史を見ても分かりますが、どこかに病人を閉じこめ、隔離してしまう。現在でも、あるいはあるかもしれませんが、座敷牢に入れてしまうというようなことがある。そこに医学が立ち向かい、病気を治していこうという方向に進んでいった。精神医学が急速に進歩を遂げたのであります。ただ残念な事に、現在のレベルではまだ色々な事件があった時に、社会問題になっております。たとえばアメリカのライシャワ−大使を刺した例とか、あるいは東海道新幹線爆破事件が、もしも精神障害者が起こしたと仮定しますと、大きな問題として取り扱われると思います。

 あるいはつい先ごろ問題になりました運転免許の問題の如きも、色々な事件が起こってから、われわれが立ち上がるという事になるのでありますが、前に進めたいと思うわけであります。

 たとえば私が特にやっております脳卒中でも死因は第一位でありますが、脳卒中で死んだ人だけを問題にしていてはやはりだめなのであります。その前に、半身不随の方が全国で30数万人を数えますし、青森県でも1万人以上いる。私が以前、調べた時には20軒に1人居るということでした。こういう身体障害者は私がまわりました頃は、洵に悲惨な状態でございました。最初1回お医者さんに診断してもらっただけで、その後は全く放置されっぱなしになっておりました。

 そこで私はもう一つ先に進みまして、医学的な一つの目やすとして血圧を測るということから研究を始めたわけです。高血圧であるということであり、その前に生活があるのだという考えに到達致しました。ではその生活をどうするか、私は”理性のある生活は何か”という事を求めたいと思って、現在やっているわけであります。

 このような物の見方からいきますと、精神衛生の方面も、精神分裂病とか、てんかんとかいう病名をもった人だけを問題にするのではなくて、もう一つ前の色々な精神状態を的確につかんでいくというようなことが、必要なことではないかと思うわけであります。

 ところが従来は精神病院ができる段階においても地域の方々はその設立に反対をするのであります。自分の町村に精神病院ができるという事をなかなか受け入れてもらえない。これはわれわれの物の考え方自体が問題になりますが、次の問題としてただ病院の中にすわっていて、外来の患者だけをみていたのでは、地域の特殊性はわからないのでありまして、どうしても地域社会がいったいどういった精神衛生の問題を持っているかという事を、的確につかんでいかなければならない。進んだ学問の手段でつかんでいかなければならないのです。そのような方針で進みますと、精神衛生の問題も、死んだとか、あるいは病気のひどい状態という事だけにとどまらず、もっと前の段階で把握され、或はそこに予防のヒントが与えられるかもしれないのです。

 ただ”農村をめぐる精神衛生”という言葉が与えられても、われわれ自体が一体農村という言葉からどんな印象をもつか、といった物の考え方が一つ問題になると思います。都市と農村とどう違うのか、何かここに自分自身の頭の中につくられた、農村とはこういうものだというものがあるのではないかというようなことであります。衛生という言葉を聞かれて皆さんは何を連想するか。われわれの物の考え方はどうかというようなことであります。

 たとえば現在の時点でも、青森県の中でたとえば病気は何で起こるかという事を調べてみますと、10%近くの方はたとえば、神様や仏様のたたりであるという風に考えておる方があります。またお医者さんにすぐ行かないという方もおります。すぐ神様に相談するという方もあります。あの方面のお医者さんがいいと、自分の手に負えない時連絡するようになりました。私が若い学生を連れて行きましたところが、実は卒業したらうまくやろうという。これはどういう意味でしょうか。うまく手を組んでやろうという事かと思いますが、そのような風潮がこの地方にまだ残っております。そこにまだわれわれの持つ、これは何も農村に限られた問題ではなく、都会にもありますし、アメリカにもありますが、人間の本質的なものといいますか、考え方がありまして、それも考えなければなりません。

 それから次にどのような行動をしているかということも問題になります。行動を起こすとき、われわれは何を目安に具体的な行動に移っていったらよいかという場合に、色々な問題があるということを感ずるわけであります。たとえば巡回相談が行われる、これは大変結構なことでありまして、全くそういうようなことが行われなかった時代から考えると非常な進歩だと思います。しかしその場合、どういう人が受診するかという事を考えて見ますと、また一つ問題があります。精神障害者の中には、自分の病気としての意識というものがない、つまり病識がないのが特徴的な病気もありますから、本人が病気でないと思っている人は病院へは行くはずがないのであります。そうしますとまわりの者が世話をしなければならないという事であります。皆様がこの様な大会に出られて、広い目で精神衛生の色々な勉強をされたということは、今度はその皆さん方自身、あるいは社会的なレベルで健康を高めていくことになるのでありまして、そういう面での努力が、世間にどんどん浸透していかなければならないだろうということを考えるわけであります。

(こころの衛生.Vol.8.No.1.13-17.昭43.9)

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