衛生の旅(その1)

 

 青森は、その名のごとく自然にめぐまれ、八甲田山あり、十和田湖あり、又弘前市にはお城もあって、昔の日本がまだある。

 世界の国々への旅行もよいが、一度はこの東北の弘前へ来られることを勧めたい。

 日本には、過去30年、急速に変化した。昔の日本があるといったが、東北も今急速に変化しつつあり、早くみておかなくてはいけない。

 一面のりんご畑、そして岩木山。

 ここで、医学・医療を、共に語ってもらいたい。

 弘前大学医学部は、青森市にできた青森医専から数えて、40年近くなる。ここ出身の先輩方も、それぞれ活躍している。

 国試などは通ることを前提として、学生時代に、自由な発想、討議は、とても貴重なものだと思う。

 東北地方に若い時から多い脳卒中、そして高血圧、これらの問題に疫学的に接近し、”塩の問題”をとらえた。又”りんごの問題”もとらえた。これらは、この地方ならでの成果である。

 NHKクイズ面白ゼミナ−ルのレクチャ−で顔を見た人もいるかもしれない。

 東京生まれの者が、弘前にいついて、早30年を経過した。多くの医学生に接し、又今度、全国の多くの諸君と会える機会があることは、楽しみである。

(第26回全国医学生ゼミナ−ルニュ−ス,昭58.2.17.)

 

衛生の旅(その2)

 

 青森には三つの”ホ−ム”があった。 

 「あった」と過去形で書くのは今青森にはない、という意味なのだけれど、30年前には三つのホ−ムがあったのである。

 ”上野発夜行列車おりたときから、青森駅は雪の中”という「津軽海峡・冬景色」にでてくる駅のプラットホ−ムは日本一長く、”北へ帰る人の群は誰も無口で”と、うたわれるプラットホ−ムが一番目のホ−ムである。

 スイ−トホ−ムはどこにあってもよいが、青森では、ほかにすることなくてか、子供が沢山生まれるという話になっていた。

 出生率は、昭和23年人口1000対41.5、その後低下はしたものの、35年で30をこす村が多くあった。これは”多産”であり、それにつづいて”多死”があった。

 戦前出生1000対100前後の乳児死亡率が、25年頃、40位になったのだが、それでも80をこす村が多くあった。

 しかし、今は違う。青森でも少産少死になり乳児死亡率は世界最低の水準になった。

 三番目のホ−ムは”トラホ−ム”であった。

 昭和30年頃で、市内で5パ−セント、郡部では20パ−セントということで、県内に眼科医はほとんどおらず、学校の先生方が、新しくできたテラマイなどで、校内処置をしていた。そして一般の人たちに”メクサレ”が多くみられた。

 私が学生時代、トラホ−ムの研究など、泥沼に足をふみこむようなものだ、といった眼科の教授の言葉が記憶にある。

 一寸ひどい面を書いたようだが、日本国中そうであったし、世界をみわたすと、今でももっとひどいところがある。

 それが、ここ東北で、30年間に急速に変わったのだ。よくなったのだ。

 悪いものがなくなると、良いものが逆にめだってくる。今の大都会で失われたもの、そして古い文化が。

 津軽じゃみせんで代表されるような津軽の音。そして青森の”ねぶた”弘前の”ねぷた”は今や国際的に有名になった。

  私は”手おどり”を推奨したい。あのリズム感と手の動作は他に例をみない。いずれ世にしられるようになるだろう。それが子供達でもやるのだ。 

 全国から弘前大学医学部に入学した学生の弘前の第一印象は、言葉がわからない、という。そして美人が多いという。あの美しい顔で、何もしゃべらないとよいという。

 スペインのマドリッド、イタリヤのフィレンチェ、そして弘前を世界の三大美人地帯といってもよいと思う。これは私の衛生の旅の印象である。

 すべての学問にたいしてもそうであるように、この話に疑いをもってよい。そして自分でみて、たしかめ、新しい発見をしてもらいた。

 東北への道は快適である。ほとんどの道路は出来たてで、おまけにすいている。一寸足をのばして下北の恐山へ行ってもよい。十三の砂山、又十二湖の青池の”青”はすばらしい。

(第26回全国医学生ゼミナ−ルニュ−ス,昭58.6.30.)

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