続・科学者の目

 

 2年前、十和田湖畔の休屋にある高村光太郎作の乙女の像の”足のかかと”について、槇哲夫先生が科学者としてのするどい観察をされたことをテ−マに書いたことがあった。

 芸術作品は感覚的にみなければならないと思うのだけれど、それを科学的にみると、それはそれなりに収穫がある。味気のないといってしまえばそれまでだが、科学者は自分の専門領域からみてしまって、他の人にはみえないものがみえるのである。

 先日盛岡へゆくことがあって、最近できたという県立博物館へ案内されたとき、その前の広場に、めだまとして立っていたマイヨ−ル作の「三人の妖精」という裸婦像をみる機会があった。

 ”億”という金をつんで買い取ったものだということだったが、新しい建物、その前の広場によく調和していた。

 ところが女達の足のかかとは、ごく自然にあげられているのに気が付いた。これなら槇先生もなっとくされるのではないかと思った。

 芸術家の造る人間像は、それなりに自由に創作されるのであって、こんなことを問題にするのは芸術を解しない人のねごとといわれるかもしれない。

 ヒポクラテスの有名な言葉に、「ひとのいのちは短く、芸術は長し、・・・」というのがある。

 この言葉が日本に入ってきたとき、アルスは芸術と訳された。そして芸術が芸術として一人あるきはじめたと思われる。

 ギリシャのドクタ−と話す機会があったとき、このアルスのことを聞いたら、アルスは医術であって、それが長くつづく意味だといっていた。

 盛岡の県立博物館でみたもっと現実的な展示品として”みその桶”があった。

 広場の一画に別棟として建てられた民家があったが、その家の中に、みそと漬け物の桶があった。

 われわれが30年前に東北の農家の調査をして回った頃、よくみかけたこのみそと漬け物の桶が、今や博物館入りになったとは感慨深いものがあった。

 このみそや漬け物の桶の中のみえない”塩”をみえるようにしたものは科学者の目であったと思う。

(弘前市医師会報,167,20−21,昭59.1.1.)

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