保健婦さんとのつながり

 

 昭和29年の春に、弘前大学助教授として着任してすぐ、「シビ・ガッチャキ」の口角炎の調査と血圧測定に、青森と秋田県内の各地をまわったので、保健婦さんには、その時以来お世話になったものと思う。

 弘前市近郊の狼森をはじめとする津軽の農村と、南部では上郷村などを手始めに、農家をとまりあるいて血圧を測ってまわったのである。丁度三戸保健所が新築されたばかりの頃であった。

 31年に教授になって、医学部の衛生学講座を担当することになったのだが、大学の文理・教育の学生のみならず。弘前市内の東北女子短大・栄養学校・聖愛短大の衛生学公衆衛生学を講義することになり、そのほか、教員の補修教育とか講習会に引っ張り出されることが多くなった。青森の高等看護学院とのおつきあいは、昭和35年4月18日に、公衆衛生概論と疾病予防の原則について講義してからと手帳から読みとれるが、武田壌寿君と交互にやっていた。「北灯」の人物評はなかなか人をよくみていていると感心した。昭和46年の第6号では、自らP.R.して下さいといわれたので、「プロフェッサ−・ササキは今や高血圧と食塩との関係において、国際的に有名になりました」と書かして戴いた。54年の14号に、男性からみた職業婦人−保健婦−をどうみるか、との問いに、「男と女」という題をつけて答えさせて戴いたが、その中で「保健婦なり、養護教諭なり、試験に通れば、それなりの資格が与えられることは結構だ。国とか県とか、国民の立場からいえば、それを十分に生かして戴きたいというのが当然である、又それで生きていけるのだ。生きにくいというのなら、生きていけるようにしなければならない。なにしろ保健は、他の人々のためになることで良いことだと信ずるからである」と書いた。

 昭和33年から現在までつづくことになった医学生受け入れの、後に保健婦学生受け入れの夏季保健活動のおかげで、私も県下ほとんどくまなく歩くことができた。その上多くの地域の人達・保健婦さん達と知り合うことができたことに感謝している。

 衛生学教室には、その折々の様子をスナップした写真をはったアルバムがあって、29年から54年まで、93冊を数えるまでになった。その中に多くの”若き”保健婦さんの顔をみとることができ、自分が年をとったことも忘れて、楽しい思い出となっている。これは又青森県の保健衛生を写真で物語る貴重な記録となることだろう。

 今まで保健婦問題で一番印象に残っていることといえば、私にとってはじめて”保健婦”といものを考えさせる機会でもあったのだが、昭和33年10月8日、青森市で開かれた東北公衆衛生看護学会によばれた時のことであった。

 その時のテ−マは「地域の要求をみたすためには、どうすればよいか」だった。自治会館の講堂に、東北六県から集まった代表の方々の顔が、アルバムにみられる。私は「地域の要求をおこすためにはどうしたら良いか」を考えることが先ではないかと述べた事を覚えている。それは単に保健婦さんに対する言葉というのではなく、同じ公衆衛生の道をあゆむ自分自身に対する反省でもあったのである。

 このことについて、昭和36年に出た「健康と生活を語る会・会報」に次のように書いている。

 「ころばぬ先の杖から始まって、一つの予防は百の治療にまさるとか、体を丈夫に、健康に気をつけてとは、とてもいいなれた言葉なのに、実際の生活にどれだけ生かされているでしょうか。世の中が進歩し、医学も進み、われわれが恩恵をうけてもよい事柄はもっと多くてよいはずだと思います。

 健康とか、医療の概念も非常に広く解釈される世の中になってきていますが、その時代になっても、もう一度自分の仕事の価値なり、意義を反省し、それに自信をもち、それを相手になっとくさせてゆくことが必要なことと思います」と。

 とはいうものの、その仕事は大変なようです。そんなことを言ったり書いたりしてから早や20年たってしまいました。  

 そして今、若い保健婦さんにいい続けていることは、「研究する心」「保健学のすすめ」です。

 43年に派遣保健婦文集第2号”芽生え”に次のようなことを書きました。

 「一つは研究する心ということです。きめられたこと、いいつけられたことだけを一日中やっていて、それでよいかということです。毎日の仕事の中に、何か疑問、問題を意識する。それが研究のはじまりであり、それを考えてゆく、これが研究する心ではないかということです。私たちの世の中は、それぞれの土地、人々によって違い、たえず変わってゆくものでしょう。どんなところにいてもそれなりに、問題はあるのではないでしょうか。その中で、健康問題について考えてゆく、そこに勉強があり、進歩があり、それが研究発表にみのってゆく。そのレベルが高いものであれば、保健婦の社会的信用を高くし、社会の為になり、又あなた方自身のためになるのではないでしょうか」と。

 この25年、私は青森で衛生学のあゆみをつづけてきました。そばに保健婦さんのあゆみをみつめながら。今後のご発展を祈っています。

ふりかえり前にすすむために−保健所保健婦の手記,7−9.1980.)

もとへもどる