世界塩の旅

 

 昨年の夏は、ボ−ナスをはたいて、モスクワへ行ってきた。第9回世界心臓学会へ参加するためである。

 できるだけ”公費”で行きたいのだけれど予算がない。

 それでも,1970年のロンドンで開催された第6回世界心臓学会へは、当時の柳川学長のお世話で、国際研究集会派遣旅費によって行けたことは幸いであった。その時の高血圧の成因についての円卓会議での私の報告によって、日本人の高血圧、そして食塩摂取の実情が国際的に知られるようになり、それ以後”食塩と高血圧”が世界中の話題になった、と自負している。

 一昨年のエジンバラの国際疫学会議へは、日本学術会議の生理科学研究連絡委員会委員という委嘱状をもらったが、ぎりぎりのところで、大臣が印をおしてくれたので、ヨ−ロッパへ”塩の旅”をすることができた。

 ザルツブルグは文字通り”塩の城”であり、近くの岩塩の鉱山に、中世の昔をしのぶことができた。ここでとれた岩塩が、ヨ−ロッパ中にはこばれて、ヨ−ロッパに塩の道ができたと思われた。

 三度目の訪問になったロンドン塔の宝物殿には、ダイヤモンドをちりばめた塩の入れ物があり、又王様が使った塩用の金のスプ−ンがかざられていて、英語の”above the salt””below the salt”の意味するところがわかった気がした。

 人々の生活に、どのようにして、塩ははいってきたのか。

 今度のったアエロフロ−トの機内食についてくる塩とこしょうの入れ物のデザインが、10年前のものと全く同じであったのにはおどろいた。食卓に置かれている塩の入れ物がソ連のどのホテルへ行っても同じであった。ここ数年も、パンの値段が上がらない、というお国がらかと感心もしたが、彼らが塩をよくふりかけること、そして料理が塩からいのも印象的だった。又ご婦人の太り方といったら大したもので、心臓病も多いという。

 食卓の料理がでたとき、味もみないですぐ塩をふりかける人、味をみてからふりかける人、全然ふりかけない人と、血圧をくらべてみると前者に高血圧者が多かった、というのは、もう20年以上も前の古典的な報告だが、人は何故、調味料といって、食卓塩を料理にふりかけるのであろうか。

 先日、秋田の川反で飲んでいたら、塩をふりかけたチ−ズが出てきた。サ−ビスのつもりなのか、それとも水割りの売り上げをますためなのか。

 日本では、岩塩がなかったから、一寸様子が違っている。

 仙台の学会のついでに、みちのく塩の旅をする事が出来た。”鹽竈”神社があり、塩をつくった神様がまつられている。塩の歴史を教えてくれる博物館があった。近くの東北歴史資料館では、製塩土器をみせてもらった。

 数年前、新聞に小さくのった、「製塩の遺跡では初めての文化財指定」という記事をたよりに、香川県直島町の喜兵衛島へ、舟をチャ−タ−して行ったこともあった。

 そこでみられなかった製塩土器が、東京は渋谷にある、”たばこと塩の博物館”にかざられているのをみたことは、ごく最近の発見であった。

 アイヌの生活には、塩はほとんどなかったという。

 しかし内地では、揚げ浜塩田、入り浜塩田と塩の生産量がまし、塩が容易に手に入るようになり、日本中に塩の道ができた。

 東北地方の人々は、食生活を塩蔵物にたよって、このきびしい生活の中を生き抜いてきたのではないか。

 日本の、とくに東北地方の人々の食塩のとり方が多いのは世界一である。

 この地球上のもう一方に、塩のない文化”no salt culture”にすむ人がいることもわかったことが、最近の話題である。

 1960年頃から大体見当はついていたのだが、1975年そして81年になって、最新の科学論文の中で紹介された。

 ブラジルとベネズエラの国境にまたがる森林地帯に住み、1950年まで、数千年も他の人たちと接触のなかった ヤノママインデイアンが一日1グラム以下というような、塩をほとんどとらない食生活で、元気に生活しているというのである。そして血圧は年をとっても上がらない。

 最近われわれも又、東大の人類生態の先生方との共同研究で、パプアニュ−ギニアの人たちの髪の毛や尿の中に、塩をほとんど摂らない文化に住む人たちの実態をとらえることができた。

 わが国の、とくに東北地方の人たちのように、一日20グラムも30グラムも食塩を摂りつづけてきた人たちと一体同じ人間なのであろうか。

 この地球上に住む人々が違った生活をし、違ってみえるのは、長い間に、それぞれの人々がつくり上げてきた文化が違ったからではなかったのか。

(弘前大学キャンパスジャ−ナル,5,4−5,昭58.2.20.)   

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