イギリスからのお客様

昭和43年(1968年)、当時東大に留学していたイギリスの女学生が、一週間ほど青森県弘前市の私の実家に滞在しました。私の父は弘前大学医学部の衛生学の教授で、イギリスで寄生虫の研究をしていた彼女の父親のつてで訪れたものです。フィリパさんというこのお嬢さんはかなりの秀才で、なにしろ滞日1年目ですでに日本語をマスターし、それにとどまらず日本の文化の源を見てやろういう旺盛な好奇心が印象的でした。私の家、そしてお隣の黒石市に江戸時代から続く屋敷を構える親類宅に滞在し、津軽の初夏を満喫して帰りました。

十和田湖にて

翌年再びこのフィリパさんが、今度は彼女のお母さんのイゾベルさんと一緒に訪れます。フィリパさんのお母さんは、単身シベリア鉄道で娘の留学していた極東の地を訪れたのでした。1960年代後半と言えば、ようやく海外旅行も一般化した頃ですが、それでも中年のレディーが一人でシベリア鉄道横断というのはかなり度胸です。我が家では、さすがはフィリパさんのお母上という評判でした。 さてこのお母さんの方はもちろん日本語が話せませんから、わが家の一大事です。


当時中学生で英語を習いはじめていた私は、私の英語が全く役に立たないことを自覚するはめとなり、片言の英語さえ話せない母親が得意のボディーランゲージと「感」でコミュニケーションをとることになりました。私の母は日本の家庭料理を作り、フィリパさんのお母さんはイギリス伝統のプディングを作り、「国際食の見本市」よろしく味の交流を楽しみました。

そしてその親子が滞在中のある夜、窓の外から弦楽の調べが聞こえてきたのです。

私の家の隣では毎週一回、弘前バロックアンサンブルというアマチュアの弦楽合奏団が練習していました。それを耳にした親子はこのアンサンブルに大変興味を持ち、早速お隣に出かけました。突然イギリス人の訪問を受けた方々もびっくりしたことでしょうが、挨拶もそこそこにフィリパさんは初見でピアノを弾き、この弦楽アンサンブルとの共演がはじまりました。驚くほど情熱的なピアノに一同大喝采。 ともかく日英の即席アンサンブルは、今度は音楽の交流を味わったわけです。フィリパさん親子は、日本はなんと文化的な国だと感激され、フィリパさんの家族も皆クラシック音楽を心から愛しているという言葉を残し、この親子は帰国しました。

日本の文化が高いと言われたところが、トイレはまだくみ取り式の時代ですから、それこそ日々のその落差の前に、この出来事も次第に佐々木家の話題から遠のきました。



そして二十数年が過ぎ、私も8年間のオーストリア留学中イギリスに足を運んだこともありましたが、このフィリパ親子のことは全く忘れて再会することもありませんでした。父親が本当に久しぶりにこのフィリパさんからの手紙をもらったのは1990年のことでした。

佐々木先生、大変ご無沙汰して申し訳ありません。私は今25年振りに日本の地を訪れています。今回は私の・・・

兄と・・・