淡島椿岳 その生涯

川越の農家の子〜椿岳及び伊藤八兵衛

淡島椿岳は1822年(文政5年)川越の小ケ谷村の農家の三男として生まれた。幼名内田米三郎、幼少のころより画才があり、12〜13歳の頃に襖絵を描いたと伝えられている。
米三郎(椿岳)は後に伊藤八兵衛となる内田家の長男の兄と共に、江戸は小石川、伝通院前の名代質商伊勢長へ丁稚奉公した。
長男はこの伊勢長一門の伊藤家の婿養子となり、伊藤八兵衛と名乗り江戸末期の大豪商として名を残すことになる。


淡島屋の養子へ

米三郎(椿岳)は、めきめき頭角をあらわしていた、兄伊藤八兵衛の世話で、当時江戸の名物だった「軽焼き」の老舗馬喰町淡島屋の養子となる。
「軽焼き」は当時大流行していた、疱瘡(ほうそう)はしかに感染した際許された唯一の食事として繁盛した。
淡島屋の屋号から淡島椿岳と名乗る。しかし商売を一生懸命にやったとは伝えられていない。

小林城三

椿岳は水戸の支藩の株を買って小林城三と名乗り別の妻を向かえる。
今なら重婚だが、当時は一夫多妻がごく当たり前のことであった。
水戸家に金千両を献上して葵(あおい)の御紋服を拝領した。


椿岳その奇人、変人

浅草

椿岳は明治維新後から明治12〜13年頃まで浅草で生活し、奇人、変人として歴史にその名を刻むこととなる。

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日本初のピアノ演奏会?

明治4〜5年、ピアノやヴァイオリンがはじめて横浜に入荷したとき、早速これを購入。神田今川橋で西洋音楽機械展覧会をひらく。もちろんピアノ演奏など習ったこともなかったが、そこは椿岳の奇才、ピアノのめちゃくちゃ弾きをした。あっけにとられた聴衆だが、聴衆も西洋音楽など聞いたこともなく拍手喝采した。
文部省が音楽取調所を開設した十数年前、公衆の前でピアノを叩いた最初の日本人!!??

西洋見世物小屋

明治2〜3年頃、椿岳は横浜に輸入された西洋のがらくたを買い、浅草伝法院の庭に西洋の船の形をした大きな小屋を建て、船の窓から西洋の景色やナポレオン、ローマ法王の油絵などを見せる「西洋のぞき眼鏡」という見世物をはじめた。
これは文明開花で浮かれる東京中の大評判となり、かの西郷隆盛も訪問。
椿岳は一挙に三千円の大金を儲ける。当時の大名屋敷が御殿ぐるみ千坪で十円であった。現在では数百億円?
現在の浅草花屋敷のはしりと考えられる。

淡島堂

にわか坊主

明治7〜8年頃、椿岳は伝法院の住職の冗談「淡島椿岳なんだから淡島堂に住んだらいかがなものか?」を本気に受け、浅草寺の中にある淡島堂に住まい、頭をまるめてにわか坊主となる。
ここで椿岳の奇行はその本領を発揮する。


女道楽 160人の妾(めかけ)

椿岳の女道楽を語る前に、当時の社会状況を認識しよう。
元来江戸のいわゆる通人間には情事を風流とする伝習があった。
妻と妾との三重奏(今で言うところの3P)も、江戸時代には富豪の家庭の美しい理想であった。
つまり明治初期は、まだまだその後現代に至る性に関する常識はまったくあてはまらない、大変大らかな社会であった。
そのような時代、妾(めかけ)は權妻(ごんさい)と称され、紳士の一資格。度々取換えれば取換えるほど、人に羨ましがられたし、自ら誇りとした。
しかし椿岳の女道楽は、このような社会常識の中でもけた外れで、通りがかりに、自分の妾より美しい女を見るとすぐ取り換え、一生に160人以上の妾を持ったと言われる。
奇人椿岳の伝説的な一頁である。


梵雲庵(ぼんうんあん)

椿岳は明治12〜13年から牛島の弘福寺(隅田川の左岸、人道橋の桜橋のたもと)の門前梵雲庵(ぼんうんあん)を建て住まう。

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多芸

椿岳は画をはじめ、清元、三味線、琵琶、蹴鞠(けまり)、甚句(じんく)、都々逸(どどいつ)・・・
諸芸に通じていた。
椿岳の全生活は放胆自由な椿岳の画そのままの全芸術であった。


終焉

明治22年(1889年)9月21日淡島椿岳は67歳の大往生を遂げた。
梵雲庵でいよいよ最後の息を引き取ろうとするや、呵々大笑して口ずさんで曰く、

今まではさまざまの事して見たが、
死んで見るのはこれは初めて

淡島椿岳は天王寺に葬られ、墓石には「吉梵法師」と刻まれた。

椿楽の墓は現在小林家に合葬されている。
天王寺境内甲9-5側


淡島寒月
 

椿岳の子寒月は父親と同様に画の道を歩む。西鶴の発見者及び元禄文学の復興者として知られた。またおもちゃの収集など多方面に活躍。

また寒月の長女、本内経(キャウ)明治17年(1884)~昭和39年(1964)は板橋志村第一小学校で日本最初の女校長となり、戦後は参議院議員になっている。

この寒月と本内経(キャウ)そして淡島椿楽のことが山口昌男著「敗者」の精神史(岩波出版)に載っている。


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